*...*...* Trees 1 *...*...*
 12月に入ってから、ますます太陽の傾き加減が早くなった気がする。
 淋しそうな残照は、一段と冷え込みが増したことを伝えてくる。

「すみません。遅くなりました!」

 ヴァイオリンケースとカバン。
 それに、お昼休みに購買で買っておいたペットボトルを持って、私はパタパタと音楽室へ滑り込んだ。

「香穂先輩。ゆっくりでも大丈夫ですよ」
「冬海ちゃん……。ごめんね。遅くなっちゃった」
「いいえ。だってここは楓館からは遠いんですもの」
「ありがとうね。いつも」

 私は冬海ちゃんのふわりとした笑顔に、入部したばかりの頃の春を思い出す。

 高3から、いきなりオケ部に入ろう、と決心した。
 その理由に、ヴァイオリンに触れていたら、少しでも王崎先輩に近づけるかな、というのもあったけど、
 なによりも冬海ちゃんが熱心に誘ってくれたから、というのも、大きな理由の1つだったっけ。

『普通科なのに、いいのかな? それに、私、この春、高3になるのに……』
『あの、そんなに心配なさることはないと思います……。それに』
『それに?』
『もう、香穂先輩は、オケ部のみんなとお知り合いだと思います』

 そう言われて、オケ部の練習を見に行った。
 そこで飛び込んできたのは、春のオーケストラで、一緒に音を作ったメンバーだった。

『あれ? 日野さん。オケ部に入るの?』
『って今まで入ってなかったのが不思議なくらいだよなー』
『今日、音合わせ、していくんでしょ? ね、一緒にやろうよ』

 ── あれから、半年。
 今の私は、高2までの自分の放課後がどんな風だったか、思い出すのが大変になっている。

「あ、あの。香穂先輩?」
「ん? どうしたの、冬海ちゃん」

 オケ部は管パートと弦パート。大きく二手に分かれて練習する。
 首を傾げながら見つめると、冬海ちゃんは小さく微笑んでいる。

「えっと。その……。聞いたんです。今日は、王崎先輩がオケ部に来てくれるって」
「う、うん。そうなの」

 冬海ちゃんの頬が心持ち赤い。
 その照れている様子に、どうしてだか、私の頬まで熱くなる気がする。

「── 良かったですね」

 冬海ちゃんは、自分の中であれこれ言葉を選んでいたのか、困ったように一言そう言って、笑った。

「そろそろみんな、準備はいい? あ、日野さんも、定位置について」
「は、はい!」

 部長の声が飛んでくる。
 オーボエのA音が、低く小さく鳴り続けている。
 私は急いでケースからヴァイオリンを取り出すと、肩に載せた。

 放課後の音楽室。今日はオケ部の練習日。

(やっと、王崎先輩に会えるんだ……)

 ごく普通の当たり前の日なのに、気を抜けばすぐ、片頬が緩んでくる。

 午後一番に、今、空港に着いた、と連絡をもらった。

(そのまま香穂ちゃんのいるオケ部に顔を出すよ。それから、一緒に帰ろう?
 久しぶりに、きみの顔がゆっくり見たいよ)

 ケータイの文字を追ってるだけで、優しい王崎先輩の声が聞こえてくるような気がする。

 春休み。私は王崎先輩の送ってくれたチケットで、ウィーンに行った。
 夏休み。王崎先輩は、日本で開催されるコンクールの関係で、帰国。
 そして、冬休みは、王崎先輩が日本に戻ってきてくれることになった。

 特に日本に用事があるわけでもないような素振りに、私は理由を尋ねた。
 すると電話越しの声は、2、3秒、空間を置いた後、暖かい声で呟いてくれたっけ。

『だって。香穂ちゃん、受験でしょう?
 日頃離れてるんだから、こんなときくらい、そばにいてあげたいって思うよ』

 どうしよう。くすぐったくて、嬉しくて。
 彼の気持ちが自分の心に染み込んでくるのが、こんなに元気をくれる。

「じゃあ、今年もあと少し。気合い入れていきましょう」
「はい」

 今夜はこれからずいぶん冷え込む、ってニュースを何度もやっていたからかな。
 いつものメンバーのうち、数人が欠けている。そのせいか、1人1人の音が良く響くような気がする。

 第一楽章を軽く流した頃、閉まっていたドアが勢いよく開いた。

(あ……)

 私は、ことりと音を立てる胸を落ち着かせるように右手にはめた腕時計を見つめる。
 空港についてから、まっすぐこっちに来てくれたら、もう、到着してもいい時間、だよね。

 ── もしかして……?

「やあ。みんな元気でやってる?」
「あー。火原先輩だ! ちぃーっす!」
「こんにちは! 相変わらずお元気そうですね!」

 明るい挨拶に囲まれて、火原先輩はなだらかな階段を飛ぶように走ってくる。
 ほっと、したような……。がっかりしたような。
 複雑な気持ちのまま、私は火原先輩に挨拶をした。

「こんにちは、火原先輩」
「ねえねえ、香穂ちゃん! 今日って王崎先輩、オケに来てくれるんだよね!?」

 大学生になった火原先輩は、以前と全く変わらない底抜けの明るさで聞いてくる。

「はい。そう聞いてます!」
「そっかー。おれさ、実はさ」
「なんですか?」

 火原先輩は両手に大きな紙袋を2つ下げている。
 な、なんだろ……? ノートにしては大きすぎるし、多すぎる。

「王崎先輩のサインを頼まれちゃって。全部で100枚くらいあるんじゃないかな。色紙」
「あ、この紙袋の中身は、全部、色紙……?」
「うーん。だってなんだか1人引き受けて、1人断るのって、悪いような気がするじゃん?
 王崎先輩のサイン、って音楽学部の子なら誰だって欲しいと思うし」
「はい……」

 王崎先輩、といえば。
 つい1年前までは、オケ部の優しい先輩、だとか、ボランティアで忙しい人でしょ?
 というくらいの話しか聞いたことがなかったのに。

 そして私の中では、ずっとずっと、優しい人。頼りになる人。大好きな人。
 そして王崎先輩も、私のことを大事にしてくれている……、と思う。
 だから、私と王崎先輩の関係は、1年前と何も変わってない、と思ってるけど。

 だけど、王崎先輩が国際コンクールで入賞してから、というもの、彼を取り巻く環境は大きく変わった、と思う。
 その変化は、私をも巻き込んで、大きくなって。

『おれはウィーンへ行くよ』
『王崎先輩……』
『音楽って、音を楽しむもの、でしょう?
 だけど、日本に居続けたら、おれは、その基本的なことを忘れてしまいそうな気がするんだ』

 彼の周囲のざわめきは、彼の決心を固めるのに、それほど時間は掛からなかった。

 先輩……。

 私がヴァイオリンを始めて。ううん、私が王崎先輩を大切な人と知った時から。
 ずっとずっと離れた状態が続いていて、それが当たり前になっているから。
 だから、不安なのかな?
 ── 他の人から聞く王崎先輩の噂は、まるで私の知らない人みたいに思えて、悲しくなっちゃうんだ。

「こんばんは。みんな、練習頑張ってる?」
「あ! 王崎先輩が来たよ!」
「わ、本物だよ……っ」
「あの、このスコアにサインをお願いします。どうしても欲しいんです」

 1年前と全然変わらない。
 ベージュの優しいジャケットを着た王崎先輩が現れた途端、オケ部のみんなは総立ちになった。
 1年生の中には、初めて王崎先輩を見た、という子もいて、王崎先輩の周りには人垣が二重にも三重にも できはじめている。

「ちぇ。なんだかさー、香穂ちゃん。おれの登場のときと、みんなの反応、メチャクチャ違わない?」
「あはは。そ、そう……、かな?」

 火原先輩は、口を尖らせて笑ってる。

「おれのことはいいよ。きみたち、練習の真っ最中でしょう?」
「いや。今日これからは、座談会、としましょうか。
 題して『王崎先輩とヴァイオリン』。みんな聞きたいよな?」
「はい!」

 やや驚いたように目を見開いてる王崎先輩に。
 部長の川井くんは笑顔でその場をまとめると、早速 円状に椅子を動かし始めた。

(王崎先輩と2人でお話しするのは無理、かな……)

 困ったように目配せをする王崎先輩に、私は笑ってうなずき返すと、ヴァイオリンのペグを緩めた。
*...*...*
 私は北門の壁に背中を預けると、ふと空を見つめた。
 目を凝らさなければ分からないような銀色の細い月が、私を見つめ返してくる。
 これだけ寒いんだもの。
 もしかして、月も、私と同じように寒がってるのかもしれない、なんて、ぼんやりと思ったりする。

 王崎先輩のことを音楽室で待っていれば良かったかな、と思わないでもなかったけど、
 部屋の隅、人待ち顔で待っているのも、王崎先輩がオケ部のみんなとゆっくりお話ができないかも、と考え直して、
 私は1人、北門に立っていた。

(王崎先輩……)

 強い態度に出ることができない。その理由。

「やっぱり、私に魅力がないのかなあ……」

 今年の春。
 オーケストラのコンミスを務めた後、王崎先輩の送ってくれたチケットでウィーンへ行った。
 春休みいっぱい、まるまる10日間。
 私は王崎先輩のアパートメントで一緒の時間を過ごした。

 ── けど。

『日本と違って、こっちのアパートメントは広いんだ。香穂ちゃんはこっちの部屋を使って』

 まるでルームメイトのように、別々の部屋で過ごした10日間だった。

 その間、軽く抱きしめられたりしたことはあったし。
 キス、も……、した、と言えば言えるのかもしれない。
 けど。

 その抱きしめ方は、親愛の情を表してる? というくらい、暖かくて軽くて。
 女の子同士で抱きしめ合うのと、全然変わらない感じ。
 手を放したらそれきりになりそう、な、ほど、優しいものだったと思う。

 キスも。
 彼のキスは、もし……。もしも、このウィーンに、天羽ちゃんや冬海ちゃんがやってきても、
 同じことをしたんじゃないかな、と思えるような、額や頬への花びらみたいな柔らかい口付けだった。

 ウィーンにいる間中。
 毎日のように。多い日は1日に3回もコンサートを聴く中で見かける人たちは、もっと熱烈に気持ちを伝え合ったりしていたっけ。

 ── 不安、なのかな。

 離れている距離が。
 王崎先輩に近づけてない、っていう気持ちが。
 付き合ってる、というのにはほど遠いような、2人の関係が。

 どーん、と落ち込みそうになる自分の目には、去年の冬、王崎先輩がプレゼントしてくれた手袋が、ぼんやりと光を放っている。

「ばかばか。久しぶりに王崎先輩に会えるんだもの。元気な私、準備開始、だよーー」
「準備? なんの?」
「わ! お、王崎、先輩……!?」

 正門前と違って、北門は、明かりも少ない。
 10メートル先に人が歩いていてもこの時間は見分けるのが難しい。
 だけど、ちゃんと校舎の方を向いて注意していれば、もう少し早く気づけたはず。
 も、もしかして、独り言、全部、聞かれちゃったかな……。恥ずかしすぎる!

「あ、あの。王崎先輩……」
「ごめんね。すっかり遅くなっちゃって。火原くんにつかまって、ほら、こんなに色紙、もらってきちゃった。
 早く香穂ちゃんの顔が見たくて」
「いえ、あの……」
「サインは、ウィーンへ帰るまでの宿題にさせてね、って」
「重そうですね。……私、持ちましょうか?」

 私はヴァイオリンのケースとカバンを片手に持つと、王崎先輩の荷物に手を掛けた。
 そこで私は見覚えのある手袋が王崎先輩の手を包んでいるのを見つけた。

「あ、これ。きみがこの冬送ってくれた手袋だよ? どうもありがとう」
「いえ。私こそ、ほら。今年も使わせてもらってます!」

 私は顔の前まで手を持ち上げて、ひらひらと振ってみる。
 去年王崎先輩が贈ってくれた手袋と色違いの手袋を見かけた今年。
 私は値段も見ないでレジに並ぶと、夢見心地でこの手袋を買った。

(おそろい、だ……)

 離れていても、一緒のモノを身に着けられることが嬉しくて。

「どう? 似合ってるかな?」
「はい。すごく」

 王崎先輩の笑顔に吸い込まれるように、私も微笑んだ。
 少しだけ、ううん。少しずつ、王崎先輩との距離が小さくなった気がする。



 王崎先輩がウィーンへ戻るのは、2週間、先。
 ── 彼が帰る頃、私はもう少し、彼に近づけるかな?
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