*...*...* Trees 2 *...*...*
 日当たりの良さが、頬を刺すほど冷たかった空気を忘れさせてくれる部屋。
 目の前のレコード会社の社長さんは、勢いよくタバコを取り出すと、おれの当惑した視線に苦笑して、ゆっくりと元の位置に戻した。
 どういうわけか、おれは子どもの頃からのどが弱い。
 最近よく乗るようになった飛行機の中では、湿度の低さで風邪を引き寄せることを知ってから。
 おれは搭乗するとまず、ミネラルウォーターを頼むようになった。

「全く。王崎くん発売のCD、『ヴァイオリンソナタ名曲集』は、クラッシック界の新星だよ。
 ジリジリと売り上げが伸びてきてるんだ。君はしばらく日本にいなかったから知らないだろうけどねえ。
 クラッシックが、半年間ベスト100位入り、ってすごいことなんだよ」
「はい。ありがとうございます」
「この冬に、というのは唐突すぎるけど、春くらいに第2弾を出そうって話もある。
 君、この企画に、絶対乗ってくれるよね」

 去年の国際コンクールに引き続き、今年、おれは1つ、別の国際コンクールでも優勝することができた。
 1度ならず2度までも、コンクールに入賞するのなら、1度、聴くくらい聴いてみてもいいか。
 CDを買ってくれた人全員が、そう考えたのかどうはよくわからないけれど。
 今年になって星奏の附属大の恩師が、CD発売の話を持ってきた。

 おれとしてはCD発売やデビューということに特に異論はなかった。
 地位や名声。
 そんなものより、おれの音楽を聴くことで、なにかしらのとっかかり……。
 音楽っていいな、だとか、ヴァイオリン、習ってみようかな、と考える小さな子が増えてくれたらいい。
 それくらいの単純な思いだった。

「それで、だ。その……。つまり」

 だけど、おれが考えていた以上に、おれを取り巻く環境は今までとは変化してきている。
 しかも、おれが思ってもみない方向で。

 もし、CDを発売することなく、そして、おれも日本に住み続けることができたなら。
 ── おれと香穂ちゃんの関係は、もう少し、近しいものになっていたのかな。

 目の前の男性は、口を開いたりすぼめたり、と何度も同じことを繰り返している。
 もっとおれに伝えたいことがあるのかな?
 辛抱強く様子を見守って、約30分が経過した頃、おれは腰を上げた。

「あの……。もうよろしいでしょうか? おれ、これから約束があるんです」

 香穂ちゃんが受験生だということは分かっているけど。
 春休み、夏休み、そして冬休み、と。
 こういう長い時間しか、ゆっくりと香穂ちゃんに近づけない。

 普通のカップルのように、普段会いたいと思うときに会えないからかな。
 昨日3ヶ月ぶりに見た香穂ちゃんは、記憶の中の香穂ちゃんよりもさらに臈長けて美しく見えた。
 もちろん、今は、メールや電話といった、文明の利器はあるし。
 それらがもたらしてくれる時間はとても有益なものだった、とは思うけど。

 近づきたい。
 彼女もどうやらおれの行動を許してくれそうだ。
 そう思い、そう願い、触れようとする。
 ── そこで、いつもタイムオーバー。
 最終楽章の音を肌で感じる。……おれと香穂ちゃんはいつもそんな感じだった。

 香穂ちゃんは、小さくて。可愛くて。あどけなくて。
 って、成熟の早いヨーロッパ人の女性と比較するのはおかしい。
 かといって、昨日会った大学のみんなの顔と香穂ちゃんを思い比べてみても。
 香穂ちゃんは、全然すれてなくて、純粋、って言葉がぴったり当てはまる。
 男ばかりの3人兄弟で育ったからかな。
 香穂ちゃんのような可愛い女の子の雰囲気におれはまだ慣れてないんだと思う。

 でも、こんな付き合いもあと少しで終わる。

 香穂ちゃんが高校を卒業して。大学に入学できたら。
 そして香穂ちゃんにその気があるのなら。
 ── ずっと告げてみようと思っていた考えがある。

『ウィーンで過ごそう? おれと二人で』

 大学には籍だけ置いて、戻れるようにしておいて。
 おれ1人じゃできないことも、香穂ちゃんと2人なら、きっとできる。
 そして、香穂ちゃんにとってもおれという存在が、そうであって欲しい。

 釣られるようにレコード会社の社長さんも腰を上げた。

「その、なんだね。今、クラッシック業界が近年稀に見るくらい上昇気流にある。
 というのは王崎くんも分かっているだろう?」
「はい」
「君はまだ若い。そしてルックスもいい。発売当時から、すごい人気なんだよ。
 近くTV出演も控えてる。…・…だから、僕の言いたいこと、わかるね?」
「すみません。なんのことでしょうか?」

 レコード会社の社長は、おれのことをまぶしそうに目を細めて見つめた。

「あー。純粋培養のようないい人すぎる王崎くんにはわからないか。
 つまりね、はっきり言うと、特定の女の子を作らないで欲しいんだよ。
 女の子と2人で、あまり外を出歩いて欲しくない。そういうこと」
「え?」

 脳裏に人待ち顔の香穂ちゃんの姿が浮かぶ。
 もう、約束の時間には間に合わない。
 香穂ちゃんは笑って許してくれるだろうけど、香穂ちゃんを待たせるおれが、おれ自身、抵抗を感じる。

「一時の感情に流されて、1人の女の子に執着するなんて、
 愚かなことだよ、って言ってるの。わかる?
 君の行動1つで、どんな風にも未来は変わる。── そう、思わないかい?」
「……おれはそんな風には思いません」
「思ってよ。それにさ。大人の事情もあるの。
 君のCDが売れるかどうかに我が社の社運もかかってるわけ。今、この気流に乗っかりたいわけよ。
 君だって、収入がないより、あった方がなにかと便利でしょ?」
「それは……」

 国際コンクールで優勝したことは事実。
 だけど、やはり、日本の風土として、芸術に秀でていても、それで一生生活ができるようになる、というわけじゃない。

 父さんも母さんも、ウィーンでの留学について、お前の選んだ道だから、と特にとがめ立てをするわけではなかったけど。
 父さん母さんの子どもはおれだけではない。
 おれにはまだ小さい弟が2人いる、から。

 昨晩、久しぶりのおれの帰国を、家族が全員で祝ってくれたのを思い出す。
 大きく、たくましくなった弟たちと。
 白いモノが増えた父さん。それと、母さん。

「だから。ね? よろしく頼むよ。王崎くん」

 久しぶりに見る母さんの背中は、どこか一回り小さくなったように感じられた。
*...*...*
 おれは気が抜けたような足取りで、明るすぎる部屋から、雑踏へと歩き始めた。
 ぼんやりと腕時計に目をやる。
 短針は、香穂ちゃんとの待ち合わせ時間を5分近く過ぎようとしている。

 未来は、変わる。

 それは好ましいことだろう。── ただし、より高みへと変化した場合は、という条件が付く。
 おれが作る音楽で、聴いてくれた人全員が幸せな気持ちになってくれたら。
 おれが音楽を始めた理由はそこにある。
 小学校に入ってまもなく、ヴァイオリンを習い始めた。

 最初はどうしてこんなにもヴァイオリンの音に惹かれるのか、わからなかった。

 ただの気の弱い男の子にすぎなかったおれが、ヴァイオリンを構え、音を出す。
 自分の中に湧き起こる暖かな気持ちを音にする。それだけで、みんなが微笑んだ。
 弓はどんどん軽やかに、意志を持って滑り出す。
 弾いているうちに、おれがヴァイオリンを操っているのではなく、ヴァイオリンがおれの身体を借りて、自分の気持ちを音にしているのだとさえ思えた。
 ── それが、すごく心地よかった

 人の生活のすぐ近くに音楽がある。それだけで人は微笑み、幸せな気持ちになってくれる。
 それがおれの音楽の原点で。
 それ以上のことを望んだことはなかったのに。

 香穂ちゃんとの待ち合わせ場所に目をやる。
 ウィーンのクリスマスも、街中がクリスマスカラーに彩られ、日頃とは違う街の色を見せている。
 それは、ここ日本も同じ。だけど、時々つり下げられている、「年越しセール」だとか、「年末売り出し」などの日本語に、ふと目が細くなる。

 やっぱりおれにとって生まれ育った国というのは特別だ。
 別の国に住んで、ようやくおれは、自分の国民性に気付いた気がする。

 おれの目は、雑踏の中から香穂ちゃんを見つけた。

(香穂ちゃん……)

 冬の景色の中で見る香穂ちゃんは、頬を輝かせて空を見たかと思うと、自分のブーツを見つめたり。
 ショーウィンドウに飾ってあるトナカイに目を輝かせたりと、忙しい。

「香穂ちゃん!」
「あ、王崎先輩」
「ごめんね。待たせちゃったね」
「いえ。私もさっき来たところです」

 おれの声に、弾かれたように香穂ちゃんは顔を上げると、小走りに近づいてくる。

 笑った顔も。駆けてくる足取りも。
 なにもかもが可愛くて、おれは、熱くなった頬を隠すように、帽子を深く被った。
 ── ずっと辛抱している気持ちを、押さえることが、この冬、おれにできるだろうか。

 香穂ちゃんは、屈託なく笑顔を見せてくる。

「えっと。誰かと待ち合わせだった、って昨日聞きましたけど、大丈夫でした?」
「困っちゃったよ。さっき。レコート会社の社長さんから、いろいろ言われて」
「え? えーっと。社長さん、って、この前王崎先輩がデビューした会社の?」
「うん。……まあね」

 俺は、かいつまんで説明する。

 特定の女の子の付き合いはやめること。
 日本では品行方正を貫くこと。
 弟2人がいる、おれの家の話。

 後になって振り返れば、おれのこの行動は、すごく軽率な行動だったんだと思う。
 けれど、あの時のおれは、香穂ちゃんと一緒に笑い飛ばすことで、自分の不安から逃げられるような気がしていたんだ。

「あれ? 香穂ちゃん。どうしたの?」

 さっきまで瑞々しい花のようにハツラツとしていた香穂ちゃんが、今は、しょんぼりと首を垂れている。

「あのね。香穂ちゃん。おれの話にはまだ続きがあるんだ。よく聞いて?」

 香穂ちゃんが、また逃げていかないようにと、コートの袖を掴む。
 香穂ちゃんは唇を噛みしめながら、おれの顔を見上げた。

「おれはね。香穂ちゃんに話したいことがたくさんある。明日の朝まで話しても時間が足りないくらい。だから……」
「王崎先輩……?」

 香穂ちゃんの目が涙を含んで、ちかりと光る。
 そんな彼女も可愛くて、おれは少しの間それに魅入った。

「ねえねえ。あれ、ちょっと。王崎信武じゃない!?」
「え!? ホント? 本物??」
「国際コンクール入賞って、日本人初なんでしょう?」
「ルックスもかなり甘い、って聞いたことある。ね、本物かどうか、見に行ってみよう?」
「うん!」

 突然、女の子の2人連れが、ぶしつけに、おれたちの周りを取り囲んだ。
 香穂ちゃんは怒ったように、おれを背中で庇うと、女の子2人の前に立ちはだかる。

「や、止めて。今は、あの、どうか、そっとしておいてあげてください。王崎先輩は……っ」
「あ、『王崎先輩』だって。やっぱりこの人、本物だよ〜。写メしようよっ」
「うん!」
「あっ。私……」

 香穂ちゃんはしまった、と言いたげな顔で、唇を噛みしめている。
 ── 掴んでいたコートが、人に揉まれて離れていく。

「香穂ちゃん!」

 あっという間に人垣が生まれて。人垣はさらに喧噪と、フラッシュを増やしていく。

「あ、あの。私、今日は帰りますね。ごめんなさい」
「あ、待って。香穂ちゃん」



 香穂ちゃんは寂しそうに微笑むと、くるりと背中を向けて走り出した。
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