*...*...* Trees 3 *...*...*
(バカみたいだ。私……)思い切り、走る。
息をつく時間も惜しいような気持ちで、走り続ける。
そうすることで、さっき王崎先輩が言ったことが、記憶から抜け落ちればいいのに。
でも、好きな人の言葉って、好きな曲の旋律みたいに、一瞬で覚えられるから、余計、困る。
『特定の女の子とのつきあいはやめること』
だから、なのかな……。
だから、王崎先輩は、私に手を触れなかったのかな。
足元に見える横断歩道のストライプが2個飛ばしで流れていく。
息は、白く高く、今夜になったら雪になって、再び私の近くに戻ってきてくれそうな寒さの中。
私はひたすら足元を見て走り続けた。
「ふぅ……」
人の気配がほとんどなくなった歩道で、私は後ろに誰もいないことを確認して、ようやく脚を止める。
(なにやってるんだろ……)
私、逃げてばっかりだ。オケ部のみんなからも、ファンの人からも。
── ううん。王崎先輩からも。
ふらふらと目の前にあるベンチに座ると、息を整えようと深く息を吐く。
深呼吸、って演奏の前には、気持ちを落ち着けるために、2回3回と繰り返す。
だけど、今の私の吐く息は、深呼吸とは思えない
むしろため息と言った方がいいくらい重たいものだった。
『ねえ、香穂ちゃん知ってた?
10回想いを込めて唱えると、その願いは叶うんだよ。
ううん、きみなら……。そのヴァイオリンを信じて、10回演奏してごらん?
だって、『叶う』って漢字は、口に十って書くでしょう?』
出会って間もない頃、演奏法について戸惑っている私に、そう声を掛けてきてくれたのが王崎先輩だった。
私は、今の状況にまるでそぐわないことを思い出して苦笑する。
── だったら。
今の、私の願いも、10回言えば叶うのかな。
王崎先輩とずっと一緒にいたい、って。
10回、そう言えば、彼に伝わるのかな?
私は流れる涙を勝手に流して、海を見つめた。
火照った頬に12月の海風は、心地よく耳をくすぐっていく。
「王崎先輩……」
「……あら?」
「あ! あの……。ごめんなさい。こんなところで……っ」
座ったベンチには先客がいたらしい。
質のいい、グレーのスーツ姿が振り返る。
「こんなところで誰かと思ったら、日野さんだったの。学院の外で会うのは久しぶりね。こんにちは」
「都築さん……」
好きな色っていうのは、似合うから好きになるし、好きになるからますます似合うんだろう。
都築さんの胸元の赤いスカーフは、今日新品を身に着けたようなぱりっとした清潔感があった。
「あ、あの。気付かなくてごめんなさい。私、前ばっかり見てて……」
「息が荒いわ。どうしたの?」
「あ、いえ。その……」
「……そう」
「あ。あの。えーっと、都築さんは何をされていたんですか?」
私は、自分を詮索されるのが怖くて、慌てて都築さんの手元を眺めた。
綺麗にマニキュアを施された指には、何冊かのスコアと、革製の手帳、それに高級そうなボールペンが握られている。
「ああこれ。期末のレポートよ。
大学のレポートって、手も抜こうと思えば簡単なんだけど。私は、手を抜きたくないタイプなのよ」
「はい……」
「個性が出る、ってことね。私は、どちらかと言わなくても完璧主義だから。知ってるでしょう?」
「あはは。……はい。よく知ってます」
今年の春のオーケストラ。
都築さんが指揮を、私がコンミスを務めた。
やっぱり、1度でも同じ緊張感を吸った人、というのは、お互い、特別な間柄になれると思う。
たとえ、何ヶ月か会えなくても、会った瞬間に個性がわかる。
私は、人に対して以上に、自分を厳しく律している、彼女の几帳面さが好きだったっけ。
「日野さんは? 王崎くん絡みで走り回っているところ、かしら?」
「はい? どうして……?」
乾いた声で聞き返すと、都築さんは呆れた表情を浮かべた。
「簡単よ。さっきあなた、独り言を言っていたでしょう? だから想像しただけ」
「はい……」
自分がそんなにニブい人間だとは思ったことがないのに、
都築さんといると、手の施しようがないほど、人の機微に疎い人間なのかと自分を呆れたりする。
そっか。私、ベンチに私以外の人がいる、って全然分かってなかった。
この距離なら、どんな小声でも簡単に聞き分けられちゃうだろう。
「日野さん。答えの導き方はとてもシンプルよ。
ファンに追いかけられたり、逃げ出したりすることがイヤなら、王崎くんとのお付き合いをおやめなさい」
「え?」
「それ以外に、なにか……。
日野さんが、王崎くんに他の人では得難い何かを持っていると感じるのなら、
なにがあっても2人の関係を続けるべきだと私は思うわ」
理路整然とした説明に、私はこくりと縦に首を振った。
確か、半年前のオーケストラの時もそうだった。
彼女のいうこと、って、わかりやすくて、すごく好きだったから。
都築さんはやや強く言いすぎたと思ったのか、声を和らげると、私の目を見つめた。
「あと数ヶ月の辛抱よ。あなたも、王崎くんも、日本にいるから騒がれるだけ。
一緒にウィーンに行ってしまえば、ただの笑い話になるわ」
「……一緒に、ですか? 私と王崎先輩が?」
「あら、王崎くんを見てると、そのつもりのように見えたけど、あなたは違うの?」
(一緒に……?)
考えなかったと言えばウソになる、未来。
だって、私も学生で。王崎先輩も、まだ学生で。だから。
流れてた涙が、するすると引っ込んでいくような感覚に襲われる。
そんなはずない、って思う気持ちと、信じられないけど、信じたい、と願う気持ちが、自分の中でぐるぐるする。
都築さんは、スコアとレポートを丁寧にカバンの中にしまうと立ち上がった。
「じゃあまた。レポートが完成したから、私は失礼するわ。あなたも寒いから風邪ひかないようにね」
*...*...*
「あ。……ケータイ?」ポケットに入れたままだったケータイが、にぎやかに振動を伝えてくる。
私は現実に引き戻されるかのように、ポケットに手をつっこんだ。
もどかしい気持ちで画面を見る。そこには大好きな人の名前がある。
「王崎先輩!」
「香穂ちゃん。……ねえ、きみ、今、どこにいるの?」
「えっと……」
そう聞かれて、私はようやく周囲を見渡した。
「ど、どこなんでしょう? ここ……」
ばかばか。私、なにやってるんだろう。
いくらなんでも、この年になって自分のいる場所がわからない、って……。
恥ずかしいを通り越えて、情けなくなってくる。
王崎先輩は電話口で笑っている。
「ごめんなさい。足元ばかり見て走ってきたから……」
「── いいよ。香穂ちゃん。今、きみから見える景色を教えて」
「はい。あのね……。えっと、まず、空が見えて、海も端っこにちょっと見えます」
「うん。それで?」
「右の方に、一番星が見えます。不思議。まだ、空、明るいのに」
「あはは。じゃあ、香穂ちゃんの右手の方向が西の空なんだね」
耳元にささやくような優しい声に、私の気持ちが、少しずつ、穏やかにおとなしくなっていく。
直接会って聞く声と、電話越しの声。
普通のカップルだったら、会って聞く声の方がはるかに多いだろう。
だけど、王崎先輩と私は違う。
この1年、私たちは、ずっとこうして、電話やメールで距離を埋めてきたんだ。
去年の秋のアンサンブル。
そしてお付き合いが始まった、今年も、ずっと。
── 距離があるから別れようなんて、私、考えたこともなかった。
「香穂ちゃん?」
いつも優しく降りかかるこの声を、この人の奏でるヴァイオリンの美しさを、私は知っていたから。
思えば、逃げてばかりだった。ファンの人からも、オケ部のみんなからも。
そうすることが、王崎先輩にとって良いことだと思ってたから。
だけど。
── いやなの。私が。王崎先輩と離れるのはいやだ。
「……王崎先輩」
泣きそうになる声を必死に押さえて、愛しい人の名前を呼ぶ。
「香穂ちゃん……?」
「ちゃんと、会いたいです。普通に、会って、普通に、たくさん、話がしたい」
「── やっと、自分の気持ち、言ってくれたね」
「王崎、先輩?」
王崎先輩は走り続けているのか、時折、雑踏のざわめきと、荒い息づかいが聞こえる。
私は、それさえも大切なメッセージに思えて、懸命に耳にケータイを押しつけていた。
「きみは、優しいから……。いつも遠慮がちにどこかに行ってしまう。
きみのヴァイオリンはどこまでも情熱的なのに、どうしてかな。
きみを追いかけようとしても、おれは、きみの影さえ踏めていない気がするよ」
「それは……っ」
「香穂ちゃん?」
「私だって、同じ気持ちです。
王崎先輩は誰にでも優しくて、だから、私にも優しくて。
普段、会えないからかな……。もっと近くにいることができたら、こんな不安はないのかな……?」
泣かないように、と必死に唇を噛む。
泣くなんてズルい、と思う。
女の子が泣いてしまったら、きっと優しい男の人なら、言い返すことなんてできないに違いない。
特に、私と王崎先輩は、離れてる、から。
だから、せめて会えたときは、めいっぱい楽しい話をしなきゃ。
「あ、あれ? 王崎先輩……?」
耳に押しつけていたケータイから、コトリと、通話を遮る音が聞こえる。
あれ、切れた、のかな……?
もしかして、逃げてばかりいる私に、王崎先輩、呆れちゃったのかな……。
肩で一つ息をして、通話を終える。
「── やっと見つけた」
そのとき、私の肩を温かい腕が包み込んだ。
「ゆっくり、話をしよう。……そうだね。朝まで」
誰にも人目につかないところへ、と、王崎先輩は、タクシーを呼び、港から少し離れたシティホテルの名前を告げた。
握られたままの、手。
今までと全く変わらない暖かさに、私の気持ちもだんだんと落ち着いていく。