*...*...* Trees 4 *...*...*
 薄暗闇から、暗闇へ。そしてホテルへ。
 カチリと乾いた音の後、手探りで灯りのスイッチを入れる。
 おれは急に明るさの増した部屋の中へと、華奢な背中を押す。

 白っぽい色の落ち着いた部屋。
 香穂ちゃんは不安そうに部屋のあちこちを見回していたけど、やがて、部屋の奥にあるベッドを見つけて、怯えたように脚を止めた。

 おれはティーサーバーに向かうと、手際よくソーサーを並べる。
 ウィーンでの独り暮らしは、おれにいろいろなことを教えてくれたとは思うけど。
 こうして皿の扱いや料理が上手くなったのは、いいことだったかもしれない。

 クリスマスを意識してか、ティーカップはどれも鮮やかなクリスマスツリーが描かれている。
 緑と赤。それに黄色の組み合わせは、香穂ちゃんを初めて胸に抱きしめてから1年が経ったことを思い出させた。

 可愛い子だとは思ってた。頑張り屋の後輩だと思っていた。
 おれにとって、離れがたいと思ったのは、去年のクリスマス、香穂ちゃんがおれの腕の中に飛び込んできた時だった。
 ── あれから1年。

 学年も違った。学校も違った。距離もあった。
 だけど、2人で2人なりに、2人の間を埋めてきた。

 ねえ、きみは知ってるのかな?

 きみがくれたメールを、おれは暗記できるほど、何度も読み返してるってこと。
 きみの奏でたヴァイオリンの音色が入っているCD。
 ウィーンでは異邦人であるおれが、いつもきみのCDを聴いて、励まされてきたこと。
 こんなことを言ったら、香穂ちゃんは呆れちゃうかもしれないけど。
 きみと、きみのヴァイオリンの音があったから、おれはいつも近くにきみを感じることができたんだ。

「香穂ちゃんは、紅茶が好きだったかな? コーヒーも用意できるよ?」
「え? あ、ごめんなさい。私が用意します」
「いいよ。香穂ちゃん、疲れたでしょう? そこのソファに座っていて」
「はい……」
「── やっとゆっくりきみと話ができる。……きみは捕まえようとしても、いつも逃げてしまうから」

 温かい空気。ふわりと白い湯気が上がっては消えていく。
 香穂ちゃんは、コートを脱ぐと、きちんと畳んでソファの横に置いた。
 おれは、ソーサーごと、紅茶を香穂ちゃんに手渡す。

「ねえ。おれがみんなに優しい、って思ってるなら、それはウソだよ。いや、香穂ちゃんに会う前まではそうだったかな」

 香穂ちゃんは頷きながらも、不思議そうに首をかしげている。

「みんなに優しかったのは、特別な人がいなかったからだと今は思うんだ」

 下ばかり向いていた香穂ちゃんは、はっとしたようにおれの顔を見上げた。

「そ、そんなことないです。王崎先輩は、あの、オケ部のみんなにも優しくて。
 月森くんとか、土浦くんとか。コンサートのみんなにも優しいです。あ、あと、ボランティアも」
「それは、オケ部もボランティアも、おれの音楽の方向性に合っていたからだよ。
 そうじゃなくてね。特定の女の子に対しての話。……ね? こんなおれは嫌い?」

 香穂ちゃんは理詰めで言われたことでどうしていいか分からなくなったのだろう。
 困ったようにカップに描かれているクリスマスツリーを見つめている。

「これからは、みんなに向けてきた優しさ全部を、香穂ちゃんだけにあげるよ。
 今までね。これでも懸命に自分を押さえてたんだよ。知ってた?」
「え? そんな……。あ、あの……、ちょっと、待ってください」

 おれはカップをアームレストに置くと、香穂ちゃんの手首を掴んだ。
 ひんやりとした、華奢な手首。簡単におれの手の中に収まる。
 この手が奏でる音楽が、いつもおれを支えてきてくれたんだ。

「何度も……。きみがイヤだ、って言っても、何度もきみを抱いて、壊して……」

 香穂ちゃんの身体が、怯えきったように硬くなる。
 急ぎすぎ、かな。だけど……。

「……でもね。今はしない。もし抱いてしまったら、ウィーンに帰れなくなりそうだから」

 おれの耳はすでに香穂ちゃんに染まっている。
 その上、身体も、ということになったら、おれはこの冬、日本から出られなくなるに違いない。

 きみが自分の意志で、ウィーンにきてくれることになれば。それからなら。
 もっと、おれはおれ自身の気持ちをぶつけてもいいのかもしれない、けどね。

「王崎先輩……」
「それくらい、おれはきみに対して得難いものを感じる。来年、卒業したら、ウィーンに来てくれるね?」
「え? でも、あの……。レコード会社さんのお話だと……」

 香穂ちゃんは唇を震わせて、目を伏せた。

「そんなのは簡単だよ。恋人同士でいるから、いろいろ言われるだけなんだと思う」
「はい……」
「恋人同士がダメだ、っていうなら、いっそ結婚しちゃえばいい。それだけの話だよね?」

 温めてきた想いを、言葉にして。
 自分自身、すとんと気持ちがまとまったような気がした。

「えっと、なんだか、突然すぎて、私……」
「だから、もう、きみもおれから逃げないで」

 おれは、花がほころび始めているように、微かに開いている唇に、自分のそれを押しつけた。
 艶やかな色を放っているのに、震えのせいか、冷たく感じる。

「や……っ」

 冷たいと感じるのは、おれと香穂ちゃんの唇に温度差があるから。
 与え、与えられて、2人の気持ちが、同じ方向に流れていくように。
 祈るように何度も何度も口付ける。
 そっと舌を入れると、香穂ちゃんはどうしていいのかわからないのか、不安そうに押しのけてくる。
 でもやがて、おれの力に押されるようにして、柔らかく受け入れ始めた。
 身体中の力が抜けきった状態になったのを見て、おれは唇を離した。

「今日はこれくらいで自分を押さえておこうと思って。
 そうしないと、きみを日本においたまま、ウィーンへは旅立てないから」
「いいえ。あの……。ありがとう」

 腕の中に最愛の女の子を抱きしめて、おれは、会えなかった時間を埋めるように言葉を注ぐ。
 いつも弓を握っている指は、今日は、香穂ちゃんの髪をくるりと弄っては、離してを繰り返す。
 髪の毛なんて、自分の身体にもあるのに。
 香穂ちゃんの髪は、まるで自分とは別物のような、しなやかな手触りと、優しい香りを返してくる。

「なんだか、おればかり話してるのも悪かったよね。今度は、きみの話をして?」

 おれはメガネをサイドボードに置くと、香穂ちゃんをそっと押し倒した。

「私の話、ですか?」
「そう……。香穂ちゃんの音楽の話は良く聞いてるし、ヴァイオリンも聴いてる。だから、今日は……」
「今日は……?」
「きみの気持ちを聞かせて欲しいな」

 決して広くないソファに、おれは香穂ちゃんをしっかりと抱きかかえて話し続けた。

「ん……っ」

 瑞々しいまでの白い肌。
 顔中、あらゆるところに口付ける。
 彼女の、すんなりとした鼻の高さや、笑うときにできる頬のくぼみを、
 今度会えるときまで、記憶に留めるために。

「香穂ちゃんは、おれのこと、どう思ってくれているの? 優しい先輩?」
「はい……。だって王崎先輩、本当に優しいから……」
「それだけ?」
「え?」
「教えて。知りたいんだ。今日は。……身体の代わりに、香穂ちゃんの気持ちを」
「そんなっ。ほ、本人がこんなに近くにいるのに、言うんですか……?」
「聞きたいな。……だから、言って?」

 今日は抱かない。そう言ったのはおれなのに。
 弾力のある柔らかい肌に、目が眩む。

「あ、あの……。好きです。……でも、どうしてだろう。それだけじゃ、言い足りない感じなんです」
「うん。それで?」
「あの、今日お昼にね、ファンの人たちに取り囲まれたでしょ? そのとき、思ったんです。
 王崎先輩を守りたい、って。この人に辛い思いをさせないで、って」
「香穂ちゃん……」
「あ、あれ? なんだか、ズレてるような気が……。
 えっと、えっと、こういうとき、ってどう言えばいいんでしょう?」

 鼻をツンとくるような、それでいて、数秒後のどこかで吹き出したいような、不思議な気持ちが湧き上がってくる。

 全く、この子は……。
 だから可愛くて、目が離せなくて、愛しくて、得難く感じて……。
 今を逃したら、もうこんな子には出会えないから。だから、おれはこの子と結婚したい。そう思った。

「お、王崎先輩、笑ってるでしょーー」
「ごめんごめん。……でもやっぱり、可笑しいよ」


 照れ隠しのように怒る香穂ちゃんを、おれは改めて愛しい人として抱きしめる。
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