*...*...* Trees 1 *...*...*
「香穂。次は移動教室だろ? さっさと行くぞ?」
「うん! 待ってて、ヴァイオリン取ってくる」
「おう」

 初めて音楽科の制服に手を通して、笑いあっていた春の頃を思い出す。
 着たときは、馬子にも衣装だの、おしとやかに見える、だの、さんざんなことを言い合っていたのに。
 お互い、白い制服にももう慣れた。
 上背がある土浦くんに白い音楽科の制服も、冬が近づいてきた今、もう3年間もずっと着てきたような馴染んでいる感じがある。
 最初は興味津々って感じで、私たちの周りにいた、音楽科の人たちも、土浦くんの兄貴肌の性格、さっぱりとした優しさに触れて、徐々に私たちの周りに集まってくるようになった。

 そんな中、金澤先生の配慮もあって、同じクラスになった私と土浦くんは、こうして音楽科としての毎日を一緒に過ごしている。


 ── 初めての夜。初めての朝。土浦くんと付き合い出して、私は、もうすぐ1年目の冬を迎える。


『当たり前だろ、俺はずっとお前に触れていたから。一緒に同じ音をシンクロさせて、さ』
『そう、なの? ── 私、よくわかないかも……』
『は?』
『あ、あの! ごめん、私、全然経験なくて、だから……。これがどうなのか、って』
『抱き合うことも、どこか似てる。同じタイミングで終えることとかな』
『ん……?』
『もう1回、するか?』
『ちょっと、待って、私……』
『── 待てないんだよ』

 何度も突き上げてくる身体と、うなされるように熱い土浦くんの声と。
 初めての時よりは少しはマシかもしれないけど、土浦くんの隣りにいる自分、っていうのが最初は信じられなかったっけ。
 高校の半年間って、それこそ大人になってから振り返ってたら、すごく密度が濃い、忘れられない時間なんじゃないかな。
 こう、今、半年前を振り返ると、音楽科に転科したばかりの私ってすごく子どもだったのかもしれない。
 そう、心も、身体も。
 土浦くんは大股で廊下を歩きながら、私を振り返った。

「って香穂。お前、今日進路調査票出したか? 今日〆切だろ?」
「ん……。出したよ、一応」
「一応?」
「うん。あのね、私の第一希望は附属大学の音楽学部。だけど自信ないよ〜。分かってたことだけど」

 私の表情を見て、土浦くんは納得したらしい。

「ああ。実技、か?」

 上から届く質問に、私はため息を持って応える。
 そう、音楽科の試験には実技がある。ヴァイオリンだけじゃない、ピアノの。
 中学の途中で止めた私のピアノは当然音楽科の人たちの前で、『やってました』って言えるレベルのモノじゃない。

 ましてや、音楽学部の入試に通用する力じゃない。
 星奏の附属大学を受験するという、外部受験の人からしたら、多少はハンデがもらえる受験であっても、私にとってはとてつもない難関だと思う。

「まあ、な。お前が音楽を目指したきっかけ、というか経緯を知ってるからな……」

 土浦くんは私の表情をそっくり真似たような暗い表情になる。
 音楽なんて世界にまるで興味もなく過ごしていた高校2年の春。
 いきなり、正門で小さな妖精に話しかけられた。
 あっという間に進んでいく、コンクール。そして夏休みを経て、みんなと一緒に奏でたコンサート。
 確かにこの1年の間に、私の音楽に対する造詣、というのは、深くなったとは思うけど。
 私にとって一番の難関は、ピアノの実技、だ。

 ── できるかな。私に。

 土浦くんは、頭を掻きながら遠くを見ている。

「だけど、目的が決まれば手段も決まるだろ。俺がついてるんだ。もうそろそろ計画立てるか」
「へ? 計画って、なんの?」
「なんの、ってお前……」

 呆れたような声が届いた後、ふわりと大きな土浦くんの手が頭を撫でていく。

「俺が教えてやるよ。お前のピアノ。星奏学院大学の音楽学部、入試の範囲をバッチリとな」
*...*...*
「困ったな、間に合うかな……」

 ぱっと目には黒の音譜と朱の赤ペンと、同じ分量になっている楽譜に目を走らせる。
 ピアノ譜とヴァイオリン譜。
 主旋律だけ追えばいいヴァイオリン譜は、ピアノ譜ばかりに目を通す今になると、かなり簡単だったんだ、って気付く。

『ピアノ1台でオーケストラだってできちまうんだぜ?』

 ピアノの音域の広さを自慢するときの土浦くんの口調まで思い出される。
 ってその分、弾き手にはたくさんの力量が求められる、ってことに、ようやく気付いた。
 うう、放課後までに全部、見ること出来るかな。
 午後の授業の内容を思い出す。音楽史に音楽理論。

 ん、6限目、こそっと、ノートの下にこの楽譜を挟んで暗譜しようかな。
 楽譜に四苦八苦している私に、音楽科に転科してから仲良くなった森さんが、笑いながら話しかけてくる。

「ふふ、聞いたよ。香穂ちゃん。このところ毎日土浦くんにしごかれてるんだって?」
「うん。もう、ヘロヘロだよ〜」

 昼休みの残り時間。
 昨日、宿題とヴァイオリンの練習に追われて、今日の放課後土浦くんに見てもらうピアノの練習が足りなかったから。
 必死でピアノ譜に目をやっていると、ピアノ専攻の真奈美ちゃんが話しかけてきてくれた。

「いいなあ、真奈美ちゃんだったら、入試の実技もバッチリだね」
「ううん? そうでもないと思うよ。受験する大学によって、求められるモノが違うもの」
「ん……。求められる、モノ??」
「んー。もう、香穂ちゃんたら」

 わかったようなわからないような複雑な顔をしていると、真奈美ちゃんは私の前の席の椅子に座ると、順に説明してくれた。

 真奈美ちゃんの第一志望は、内部進学が出来る星奏学院大学音楽学部ではなく、都内にある音大であるということ。
 大学によって、求められる実技の内容も異なるということ。
 真奈美ちゃんは3年生になってから、希望する音大の講師をやっている人に週1回レッスンについているということ。

「一応ね、附属大学も受けるんだけど、第一志望は都内にある音大の方なの。
 だから、そっちの解釈に浸っちゃうと、星奏モードに戻すのが大変」
「星奏モード……」
「うん。星奏のピアノは、素直な、忠実な音が評価されるって感じなの。わかりやすさが求められるの」
「わかりやすさ、か……」
「香穂ちゃん?」
「えへへ、私、違いさえもよく分かってないよ〜。まだスタートラインに立ったばかり、っていうか」

 私は、心配そうに見上げてくる真奈美ちゃんに、情けない笑顔を見せる。

 う、一応3年生になってからというもの、自分なりにピアノのレッスンはしてたけど、なんだかレベルが違うって感じがする。
 大丈夫なのかな、私。このままで……。このままでいいのかな、って、全然良くないよね?
 土浦くんの希望している大学も星奏の附属大学。
 だから、一緒に進学できたらまた4年間一緒にいられるよね。なんてのんきなこと思ってたけど。
 神さまは努力が足りない私を、入試の時点で見極めるかもしれない。

「んー。どうしてもね。今、ヴァイオリンの方が面白くて。ほら、自由な時間が2時間あるとするじゃない?
 そうするとね、好きな方から始めて、好きな方ばっかりに時間を割いちゃうの。良くないのわかってるんだけど」
「あ、香穂ちゃんの言ってること、わかるなあ……。そういうところって誰でもあるよね」

 気の良い真奈美ちゃんは私を励ますように笑ったあと、ちょっと真面目そうな顔をして私の顔を覗き込んだ。

「でもね、香穂ちゃん。ピアノの実技が100点で、ヴァイオリンの実技が100点で評価されるなら、
 やっぱり、ピアノも頑張らないと。いくら香穂ちゃんのヴァイオリンが素晴らしいからって、
 先生たちもヴァイオリンの実技に200点、って点数をつけるわけにはいかないもの」
「うん。── ありがと。そうだよね」
「それに、ね?」

 真奈美ちゃんは声のトーンを低くして私に耳打ちする。

「香穂ちゃんはいいよ。あの土浦くんに教えてもらえるんだもの」
「そうなの?」

 私は首をかしげる。
 えっと、いくらピアノの演奏が上手いから、ってやっぱり学生さん同士なわけで。
 やっぱり私も高名な先生について、教えてもらうべきなのかな、って悩んでいたのに。

「やっぱりさ、土浦くんは、指揮をやりたいって言ってるだけあって、造詣が深いと思うの。
 それぞれのフレーズに求められる音、っていうのをとても良く知ってる気がする」
「うんうん」
「あと、意外、っていうか、当然、っていうか、すごくリーダーシップがあるよね。
 統率力があるっていうのかな。いかにも指揮者向きかも」

 私は何度もうなずき返すと、この前行われた演奏法の授業の時の土浦くんを思い出す。

 的確な指示。鋭いまでの聴覚。
 それに、あの上背から発せられる声や、説明の仕方に、みんなは徐々に演奏にのめり込んでいった。
 授業をやっていた先生は途中でその雰囲気を察して全てを土浦くんに任せて。
 気が付いたときには、とてもシンプルな形式のアンサンブルだったけど、あっという間に音が作られて、広がっていったっけ。

「だから」

 真奈美ちゃんは私の楽譜のフレーズを軽く口ずさむと席を立った。

「だから?」



「香穂ちゃんは土浦くんを信じて、頑張るしか、ないね」
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