*...*...* Trees 2 *...*...*
秋が深くなったころ、俺は指揮者用の総譜を手にしながら、香穂のピアノを聴く機会が増えてきた。秋というには、もうほど遠い空気が身体を包む。
周囲の冷たさが、冬と教えてくれる季節。
天気によってピアノの音が違ってくるのは知っていたけど。
最近になって、季節によってもピアノの音色は変わってくることに気付いた。
夏のピアノは、湿気も温度も高いことが起因するのか、どこか開放的で。
逆に秋から冬にかけてのピアノはだんだんと、余計な音がそぎ落とされていくような、堅さが残る音が広がる。
── 特に、こんな寒空の下では。
星奏でやった過去の総譜が置いてある音楽室に向かうと、そこには珍しく難しい顔をして海外の文献に目を通している金やんがいた。
「おーおー。音楽科の期待の星、登場じゃないか」
「金やん」
「静と動の両雄そろい踏み、って言いたいところだが、月森も海外へ飛び出していったからなあ。
ヴァイオリンバカのあいつのことだ。俺としては、頑張れよーって念を飛ばすことしかできないけどなー。
ってお前さん、ときにどうした?」
金やんは心持ち脚を引きながら、俺のそばにやってきた。
「いや、総譜、見せてもらってるんですよ。ここのところ、ずっと」
「おー。そうか。って、お前さんに受験勉強は必要ないってか?」
「それはそれ、ですよ」
音楽科には負けられない。そういう気持ちで取り組んできた、この半年。
あいつらの後塵にまみれるなんてまっぴらだと思った。
こんな生まれつきの負けず嫌いな性格は、転科してからは利点として俺に降りかかってきたようで。
火原先輩から貰った、一度も開いたことのないような教科書たちを思い出す。
── 本当に、火原先輩、これで合格したんだもんな。あの人のトランペットは大したモノだったよ。
確かに、受験にはなんの心配もないかもしれない。
「とはいえ、指揮のための勉強は終わりがないですからね」
俺は、総譜が置いてある棚のガラス戸を開けながら言った。
本当に…。きりがない、と言う言葉がしっくりくる。
おのおのの曲想、それにまつわる逸話。
有名な曲は必ず有名なオーケストラが演じている。オーケストラが同じでも、振る人によってまた曲想が違う。
時代が変われば、また変わる。
そんなたくさんの曲の洪水を、楽譜を見ながら振り起こす。俺だったどう演じるのか、って。
そうしてるだけで放課後、帰宅後の時間はあっという間に流れる。
自分の身体が脳みそと耳だけになったような感覚。
たくさんの曲が染み込んでくる感覚を『若さ』というのなら、今、それを貪欲にむさぼっていくしかないだろう。
のんびりしてるヒマはない。
金やんは呆れたようなのんびりした声をあげた。
とはいえ分かってるんだ。
この教師は、受験でピリピリきてる生徒をリラックスさせるべくこんな素っ気ない態度を取ってるってな。
「いやあ、そりゃまた頼もしいことで」
「……ありがとうございます」
「ってかさー。いや、あいつのことなんだけどさ」
なにかいうことを躊躇っているような金やんの口元が見えて、俺は改めて身体を金やんに向けた。
「あいつ?」
「いやいや、日野のこと。土浦、お前さんがついてるんだから、俺はそれほど心配してないさ。けどなー」
「って、金やん、煮え切らないこと言わないでくださいよ。なんだ、って言うんです?」
金やんは手持ちぶさたそうに、長くなったヒゲを親指で弄ってる。
って、そんな邪魔ならさっさと剃ればいいのにな、と余計なことを思ったりする。
金やんは心を決めたのか、すっと俺の眉間に焦点を合わせると話し始めた。
「あいつさ、確かにヴァイオリンは巧くなったよ。専科の中でもかなりのもんだって、ヴァイオリン担当からも聞いてる」
「……で?」
「だけど、星奏の音楽学部もやっぱほら、内部進学とはいえ、実技があるわけよ。ピアノの、さ?」
「── ああ」
「日野に聞けば、ピアノは手遊び程度で、中学で止めてしまったとさ。
それじゃ、とても受験のレベルに耐えられないだろ。いくらヴァイオリンが優れてるって言ってもさ。
ほら、お堅い連中多いから、受験に絡むセンセーってのは特にな」
「わかりました。俺がちょくちょく指導しますよ。あいつのピアノ」
「そうさな」
金やんは一瞬香穂のヴァイオリンの音を追っているかのように遠く窓の外を見つめた。
こういう表情を俺は見たことがある。
って金やんだけに浮かぶ表情じゃない。
── そうだ。あいつ、香穂のヴァイオリンを聴いたヤツはいつもこんな顔をする。
何かを追い求める顔。
自分の中の足りないところを、香穂の音の中で見い出そうとする顔。
「金やん?」
「お? ああ。なんでもない」
金やんは手にしていたタバコを乱暴に灰皿にこすりつけると、俺を真正面から見つめた。
「そうしてくれ。言ったろ? 音楽の世界は20歳までが勝負だって。
ピアノ1つのことで、あいつに浪人なんぞさせてるヒマはないんだよ」
*...*...*
香穂のピアノ、か……。俺は手にした総譜の表紙をぼんやりと見つめながら歩き続けた。
『そんな。土浦くんの前で演奏なんてできないよ』
『は? なぜだ?』
『レベルが違いすぎるもの。実技がなければ、一生弾かないでいられたらって思うくらいだよ』
照れて、とか恥ずかしがって、という可愛い言葉では足りないくらい、ピアノの前に立つと思い切り拒否していたあいつを思い出す。
けれど、もう12月、か。
自分でもマズいという自覚があるのか、ボチボチ練習は続けているらしいが、もうボチボチと言っている時期じゃないだろう。
そろそろ、附属の出題傾向とあいつのレベルとを照らし合わせて練習を始める時期に来たのかもしれない。
ああ、そう言えばクラスメイトの森が言ってたな。
星奏の出題傾向は例年固定してるから、正味10曲をマスターできればなんとかなるって。
そうか。
だったら、音感の良いあいつのことだ。滑り込みセーフで合格できるかもしれない。
「あ、土浦じゃない。どうしたのこんなところで」
「よう、加地」
俺の足は知らないうちに、カフェテリアに来ていたらしい。
そこで、俺は良く見知った顔を見かけて手を挙げた。
普通科に2年、音楽科に8ヶ月。
そのおかげで、同じ学年のヤツなら全員の顔と名前が一致するようにはなったが。
やっぱり、アンサンブルを共に奏でたヤツは違う、と思っている。
加地や、冬海、志水の顔っていうのは、話す機会が少なくなった今でも視界に飛び込んでくるんだからな。
「どう? 土浦は最近」
「あ? ああ。結構忙しいぜ。去年のコンクールの時 同様、音楽漬けの日々、ってところか」
「ふふ、それは何よりだよ。土浦、君は音楽に選ばれた人間だからね」
「って、加地……」
加地は屈託のない笑顔で、なんでもないことのように言う。
去年のコンクールで曲の解釈をしていたとき、何気なく言った俺の言葉、『頑張れ』というのがそのときの加地にはかなりの負担だったのだろう。
あれから、少しの間ぎくしゃくしたことがあったな。
結局あの時は香穂が、加地に話を付けて。
翌日には何もなかったかのように加地は練習に参加してきた。
かなりのリベラリストで、自分のことを客観的に見ることもできるヤツなのに。
あの時の加地は、こと音楽に関しては、俺たちと一緒に演奏することを申し訳なく思っていたように感じる。
「いやだなあ、土浦。そんな顔しないでよ。
── 僕も僕なりに音楽と生きる道を選択してるんだからさ」
「って本当か? それ」
「まあね」
加地はちょうど空いた椅子にすわると、まぶしそうな顔をして俺を見上げた。
「土浦も、そこ、座れば? ええとね、一応土浦にも話しておこうかな。
僕もね、この耳を生かして、音楽の道に進むことにしたんだよ」
「……そうか」
「音楽には奏でる人間の対極に、聴く人間が必要でしょう?
僕、耳だけは無駄に良いからね。これに、自分の好きな文学を融合できないかなって思ってね」
加地は自分の悩みを吹っ切ったような明るい顔で俺を見た。
「いいんじゃないか? お前らしくて」
「結局、僕も、音楽から離れることはできなかったよ。ふふっ。これも香穂さんのおかげかな。
あのヴァイオリンの音に触れたら、誰だって夢中になるよ。ねえ?」
「ああ。まあ、な。そうとも言える、か」
「だけどさ、これマジ話……」
加地はふと真面目な表情になると、まっすぐに俺を見た。
いつものあいつらしくない、真剣な目を俺は意外なモノを見るような感じで見つめ返した。
「ねえ。土浦。香穂さん自身は、香穂さんの意志で、土浦に取られちゃったけど……。
僕が香穂さんの音楽を聴く機会までは奪わないでね?」
「って、どういう意味だよ、それ」
軽い世間話の続きかと思っていたら、話は思いもかけず、深刻な方向へと進んでいたらしい。
加地は俺から目を逸らすことなく、きっぱりと告げた。
「土浦の力で、ちゃんと香穂さんを音大に入れてね、って言ってる。
1年も香穂さんのヴァイオリンが聴けなくなるなんて、僕にとっては耐えられないことだから」