*...*...* Trees 3 *...*...*
 日暮れがすっかり早くなった、12月。
 香穂と俺は南楽器のグランドを借りて、ピアノの練習をしていた。
 オヤジさんは、午後から抜けられない用があるからと言って、玄関を鍵を俺に預けると、年代物のような毛糸の帽子と重たそうなコートを手に、店を出て行った。

 世間は俺たちの流れとは違う速度で、クリスマスムードを盛り上げている。
 濃い灰色の雲は今にも量感を重くして、自分の分身を空へまき散らすかもしれない。

 去年は、……そうだ。
 香穂と、そして、卒業していった2人の先輩と。加地と。それと1年生の2人。それと、一番意見の合わなかった月森と。
 みんなでクリスマスコンサートのことで、いっぱいいっぱいだった。
 今も充実した時間を過ごしていると言うことは、誰に対してもハッキリ告げることができるが、
 去年のあの充実していた日々は、なにものにも代えることができない、熱い記憶として俺の中にある。

 みんな、いい顔していたと思う。
 演奏が終わって、目を合わせたときの顔を、今も忘れることはない。一生忘れることはないんだろうと思う。

 こうして面々を思い出して、思考が止まるのは、月森の顔を思い出したときだったりする。
 ── 不器用だからな、あいつ。ヨーロッパだか、ウィーンだかで、ちゃんとやっているのか?

 ヴァイオリンがメシ作ってくれるワケじゃないんだぜ。ちゃんと健康管理やってるのか?

 って、おかしな話だよな。あれほど反目し合ってたのに、友に音楽を奏でた仲間の中で一番気になってるなんてさ。

 俺のそんな気持ちを香穂は敏感に察しているんだろう。
 俺が月森の話をするとどこか嬉しそうな顔をする。
 顔には『なんだかんだ言って仲が良いんだもの』って書いてあるときさえある。
 一度食ってかかったことがあったが、なにも言わずににこにこ笑ってる香穂を見て、反論するのがバカバカしくなって止めたこともあったっけな。

「どうだ? わかったか?」

 南楽器のグランドピアノの前、香穂は、コリコリと楽譜に俺のコメントを書き込むと、時計を見て、俺を振り返った。

「うん! どうもありがとう、土浦くん。キリもいいし、ランチ、行こう?
 私、今日のピアノの授業料としてオゴらせてもらいます!」
「おう。どこ行く?」
「んー。土浦くん、お料理するだけあって、舌が肥えてるもんね。どこがいいかなー。
 いいよ? なんでも。リクエストして?」
「よし、じゃ、最近できたあの、カフェに行ってみるか。
 天羽が珍しく大騒ぎしてたじゃないか。美味しすぎる、とかなんとか言ってさ」
「うん!」

 香穂は嬉しそうにコートを手に取ると、ぐるぐると首にマフラーを巻く。
 去年、俺にくれたマフラーととてもよく似たデザインの色違い。

 全く。マズいよな。
 今まで姉貴が、新しい服を着てたってまるで気づかなかった俺が、今は、街のショーウィンドウで見かけただけのモノに対しても、
 香穂が似合うかに会わないかが基準になって、俺の目に飛び込んでくる。
 そして、ろくな言葉も添えないで、香穂に包みを押しつけてるんだ。

『これ、お前のだから』

 最初は怪訝そうな顔をしてた香穂も、首を傾げて、包みを広げるときには、弾けるような笑顔になっている。

『ありがとう! 土浦くん……。いつも、ありがとう。でも、困っちゃうなー』
『は? 何が困るっていうんだ?』
『もっと私も土浦くんが喜んでくれるモノ、探さなきゃ!』
『バカ。こういうのは笑って受け取っておけばいいんだよ』
『ううん? 違うよ。『目には目を』っていうんだよ。すごく嬉しかったから、お返ししたくなるんだよ』
『ははっ。それって報復とか、復讐とか、ネガティブな意味に使うんだぜ? 使い方違ってないか?』
『あはは。気にしない、気にしない』

 俺の人生のターニングポイントすべてに存在していた香穂。
 だから、と言って、いくらヴァイオリンが上手であったとしても、一緒に音楽科に転科しても。
 性格がこれほどしっくりとこなかったら、俺たちはこのまま音楽の同士、としてそのまま別々の道を歩いていただろう。
 けれど。

 こいつの前向きな性格。明るさ。ひたむきさに、どれだけ今まで俺は助けられただろう。
 ── 愛しさが、増していく存在。まさに、俺にとってのタイヨウそのものな、ヤツ。

「ほら、来いよ」

 俺は香穂の手を引く。
 恥ずかしいから。暗いから。人混みに紛れるといけないから。
 そう言ってた1年前の自分はもういない。

 ── ただ、守りたい。それだけの理由で今は堂々と細い指を握る。
*...*...*
「違うだろ、香穂。もう一度やってみろ」
「── うん」

 香穂は間違う箇所を目で追うと、再び鍵盤に手を乗せた。

 今日は、もう、何度、この入試の課題曲を弾いているだろう。
 香穂子のトチるところは、もう俺の耳にすっかりインプットされてしまった。
 それほどまでに、鍵盤の上の白い指は、毎回同じフレーズを間違える。

「こうやって指を揺らすんだ。基本だぜ、楽譜の言ってるとおりに弾くってのは。
 どうしてこんな簡単なことができないんだ?」

 俺は、香穂の右手の横で軽くフレーズを作ってみる。
 やっぱり、香穂にはピアノよりヴァイオリンの方が向いているのだろう。
 同レベルの難易度のモノを弾かせても、ヴァイオリンの上達の方が遙かに早い。
 だがそれは逆に言えば、ピアノの習得は、凡人とほぼ同一レベル、とも言える。

 俺は腕を組むとため息をついた。


 ── このままで、こいつのピアノ、入試までに間に合うのか?

 俺も悪かったよな。
 香穂がヴァイオリンを習得した早さで、ピアノも上達できるだろう、なんて安易なこと考えて、
 つい、ピアノの入試対策が遅れてた、っていうのがある。

 別に音感が悪いってワケじゃない。飲み込みが遅い、ってワケでも。
 ただ、入試までの2ヶ月間にやるべき量が多すぎるっていうだけだ。

「……ん?」

 ふと隣りにいる香穂を見ると、香穂はあふれる涙を拭こうともせず、頑なに膝の上で手を握っていた。

 俺は柱時計に目を遣る。
 こいつと一緒にお昼を食べて戻ってきたのが1時。外はもう薄暗い。
 ってことは、もう3時間ぶっ通しでピアノに向かってた、ってことか。

「── 悪い。少し言い過ぎた」

 いつもだったら、絶妙なタイミングで店主のオヤジさんが、香穂をフォローする言葉と、俺をたしなめる目を向けてくるものだが。
 そうか。あいにく、オヤジさん、不在だったな。
 それもあって、俺も抑えが効かなくなっていた。

 涙で濡れた手を申し訳なく思っているんだろう。
 香穂の指は、それきり鍵盤の上に置かれることはなく、じっとスコアの、自分のミスする箇所、1点を睨んでいる。

「そんなにめそめそするなよ。女みたいじゃないか」
「わ、私は女です!」
「つーか。……悪い。そういうつもりじゃなかったんだ」

 香穂子は唇を噛みしめる。まるで、そうすることで、涙がせき止められるとでも思っているように。
 けれど、涙は香穂とは別の意志を持っているかのように、次から次へと溢れ出た。

「香穂……。泣くなよ。俺、お前に泣かれるのだけは、困るんだよ」

 赤らんだ頬。
 その上に滑っていく光る涙が、俺が今まで見たことのある香穂の中でも一番に愛らしくて。
 俺は謝罪の前に、うっとりと香穂の顔に見入っていたと言ってもいい。
 香穂は俺の沈黙に気付いたのか、あわてて頬の涙を手の甲で拭った。

「あの、ごめんね。今、私が泣いてるのは、土浦くんに腹を立ててるんじゃないよ。
 自分の思ったように弾けない自分がくやしいだけ。
 どうして、指が動かないんだろう。どうして、土浦くんのように、素直に演奏ができないんだろう、って」
「香穂……」
「ごめんね。私、少し、頭冷やしてくる!」


 香穂は泣き笑いの顔を作ると、軽く俺の腕に触れて。
 そして、そのまま俺を振り返ることなく、寒空の中へと飛び出していった。
←Back
→Next