*...*...* Trees 4 *...*...*
「遅いな、あいつ」

 香穂が南楽器を飛び出して30分が経った。
 ピアノの椅子の背もたれには、つくねんと香穂のコートがかけっぱなしになっている。
 あいつ、この寒い時間帯にコートも着ないで飛び出して行ったのか。

 ったく。

 俺は、手持ちぶさたに、グランドの支え棒を指で弾いた。
 音はある種の冷ややかさを持って、部屋中に広がる。
 どんよりと落ちそうな雲が四角の窓からたれ込んでる。
 ……また、冷え込んできたのかもしれない。

 一応俺たちは受験生なわけで。
 あいつ、分かってるのか。今、風邪を引いたら命取りになるってこと。
 あいつのヴァイオリンの技巧は確かにすごいさ。それは認める。
 けれど、星奏の音楽学部は必ずピアノの実技試験がある。
 今の香穂のレベルのままじゃ、ぎりぎり通るか通らないかだ。
 この上更に風邪でも引いて、2、3日ピアノに向かえない日でもあったらそれこそマズいだろう。

 俺は壁時計の分針を確認する。
 年代物の古めかしいそれは、無表情にもさっきより15分が過ぎたことを伝えている。

「あの馬鹿……っ」

 俺はコートをを肩に引っかけるとそのまま粉雪が舞い上がる雑踏へと走り出した。

 香穂と出会ってから、本当にいろんなことがあった。
 そのほとんどが、ピアノ絡み、音楽絡みだ。
 普通科の時、クラスメイトだった実川の声が聞こえてくる。

『姉貴さ、小学生の子に負けた、って泣いて悔しがってさ。その日以来あっさりピアノを辞めたんだ』

 香穂のピアノを注意するたびに、俺のことをたしなめる、南楽器のオヤジさんの声も。

『梁。お前を特別扱いするのは好きじゃないが、誰でも梁と同じように弾けると思っちゃいけないよ』
『オヤジさん……』
『誰でも、個人個人の力ってものがある。その人に相応しい成長時期ってものもある。
 あの子も、今は、冬の桜のように力を溜めている時期かもしれん。そうだろう?』

 俺は憤慨して言い返す。

『って、入試は、桜が咲く前にあるんだよ』
『それでもいいじゃないか。── 頑張った記憶はずっと心の中にある。
 それは目に見えない力になって、日野さんの人生に役立つときがくるだろうよ』


 なんだよ。俺、そんなことも今まで気づかなかったのか?
 ずっと見てきたはずだ。去年の春のコンクールから、ずっと。あいつだけを。

 エリーゼのためにをあいつの前で奏でてから過ぎた、10年。
 高2の春、こうして俺たちは、再び出会って。

『た、助けて、土浦くん!』
『は?』
『これ、魔法のヴァイオリンで。私、音楽なんてまるでシロウトで。でも……』
『日野』
『やるって決めたの。だから、教えて!!』

 第3セレの途中、魔法のヴァイオリンが壊れたといって、ベソかきながらやってきたこともあったな。

『土浦くん。調弦ってなに? ピアノは音叉の代わりになるの?』

 今より少し幼い顔をした香穂が必死の形相している。
 はは、なんだよ。その、気の抜けた顔は。

 クリスマスの街の雑踏は、寒い中にもどこか暖かさを漂わせている。
 俺は、左右に流れていく灯りが1つの線になっていることを感じながら走り続けた。

 腰に手を当てて怒ってる香穂。
 俺を思い切り威嚇させたかったんだろうが、その涙目じゃ効果は半減だ。

『もう! 土浦くん、月森くんと仲良くして? お願いだよ』
『俺は、あいつの頑ななプライド意識が勘弁ならないんだよ』
『そんなこと言ってたら、今度のコンサート、できないよ。
 月森くんが欠けても、土浦くんが欠けても、演奏できないの。
 『流浪の民』は、二人がいてくれないとダメなの!!』

 4回のコンクール。4回のコンサート。
 大変なこともあったろうに、俺が思い出すあいつの顔はいつも笑顔で。
 肩とあごの間にヴァイオリンを挟んで、今まで一度も傷ついたことない、ってくらい幸せな顔して、調弦していたっけな。

 俺はそれをこの1年以上、見つめてきたんじゃなかったのか?
 ── 一番あいつの近くにいる俺が、あいつを信じてやれなくてどうするんだよ。

「……っと。本当にどこ行ったんだ、あいつ……」

 肩で思い切り息をする。
 音楽科に転科してから、やっぱり運動不足なのか。
 今までどうってことない距離だったものがやけに遠く感じる。

 それとも。
 俺は、自分の知らないうちにかなりの距離を走っているのかもしれない。香穂を探すためだけに。

「……ん?」

 頬に冷たいモノを感じて空を見上げると、そこには細かい氷のような破片が舞い降りてきた。

「香穂! どこだ!?」

 俺の声に、周囲のカップルが怯えたように振り返る。けど今は構ってなんていられない。

 今、あいつを見つけなかったら、後悔する。
 あいつがこれが原因で大学に受からなかったら、死ぬまで、じゃない。死んでからも後悔する。

 幼い頃に奏でたエリーゼのために。
 飛び込みで参加したコンクール。
 そして、俺に、音楽科に転科することを決心させたコンサート。
 ── ほらな、俺の人生の転機には必ずお前がいるだろう?
 だから、香穂。
 お前の転機にも、俺はお前のそばにいたいんだ。


 それくらいのわがまま、言わせてくれてもいいだろう?


「……香穂」

 白い息が一瞬のうちに凍って天に向かって溶けていく。
 その先を見据えるようにして目で追うと、港の見える公園の埠頭の先、まぶしいほどのクリスマスツリーの前、見覚えのある後ろ姿が肩を怒らせて立っていた。
 シルエットの視線の先は、一心にツリーのてっぺんを見つめている。

「……ったく。心配させるなよ」

 香穂の肩を背後から抱きしめる。
 血液まで冷え切っているんじゃないかと思わせる薄い肩は、何かに取り憑かれたようにツリーの一番先にある星を睨んでいた。

「香穂?」
「── 土浦くんの音って、ツリーのてっぺんにある星みたいだ」
「は?」
「私が、どんなに努力しても。……手を伸ばしても届かないよ、ほら」

 香穂は思い切り背伸びをして、星の形に指を広げている。

「届かないよ……」

 くぐもった、低い声が降ってくる。
 柔らかく照らされた横顔。それだけでは泣いているかどうかはわからない。
 ── けど。
 ツリーの光が何倍にも拡散したかのような瞳は、今まで見たことがないほど綺麗に見えて。

「── バカ」
「はい?」
「こうすりゃいいんだろ?」

 俺は、小さな子を抱きかかえるようにそっと香穂を持ち上げた。

 もっと、頼ればいい。お前が俺を必要だと思う間は。
 ケンカも目一杯すればいいんだ。そしたら、その後、お互いの言葉で話し合えばいい。
 そこから得られるモノもきっとあるだろ?
 逆に、……つまらないだろ? 数学みたいに簡単に答えをはじき出せたら。
 オヤジさんの顔が浮かんでくる。
 悩んで、突き進んで、見つけた答えは、きっとお前の音色に照り返す。
 そしてまた、俺が驚くような音で、応えてくれるんだろ?

 香穂は小さく悲鳴を上げた後、俺の顔を見て安心したかのように微笑む。
 そして、ツリーの上に向かってそっと手をさしのべた。

「── 届いた、ね?」
「当たり前だろ?」

 香穂は愛おしそうに星を撫でると、俺を見て笑う。
 つられるように俺も微笑むと、そっと香穂を地面に降ろした。
 俺は手にしたコートを香穂の肩にかける。こいつに今、風邪引かすワケにはいかねえからな。

「おっきい、土浦くん」

 香穂子は、ぶかぶかになっている袖をふわりと揺らして微笑んだ。
 華奢な骨格は、コートの上からでも分かる。
 俺は香穂の、そんなあどけない仕草を見て目を細めた。
 俺の腕の中で、泣きそうな声を上げているときの香穂を思い出す。

 なんていうか、その……。
 オンナ、なんだよな。
 打たれ強くて、底抜けに明るくて、負けず嫌いで、活発で。
 だけど、オンナで。

 ── そして、俺は、男で。

「そろそろ帰るか? オヤジさん、もう帰ってる頃だろ。お前の好きなココア淹れて待ってるぞ、きっと」
「うん!」

 いや、男と女ってだけじゃない。
 音楽を共に目指すヤツで。戦友、で、そして恋人で。
 ── かけがえのないヤツ。
 ったく。なんだ。こうやって気持ちが高ぶってるときってどうするんだ?
 普通のカップルなら、キスしたり、好きだよ、って伝えたりするのか?

「ん? どうしたの? 土浦くん」

 言葉やキス。
 そんなもんじゃ足りない、って思うとき、これからの俺はどうしたらこの想いを伝えられるんだ?
 俺は少し下にある香穂の肩を自分の脇に抱きかかえた。

「わ。く、苦しいよ、土浦くん……っ」
「俺なりに親愛の情ってもんを表現してみたんだよ。な、香穂……?」
「なあに?」


 クリスマスツリーの灯りが遠ざかる。けれど、胸の中には今見たてっぺんの星が満ちている。
 ── こいつとならやっていける。
 こいつと音楽があれば、何も要らないんだ。俺は。

「お前、ずっと俺の隣りにいろよ。な?」
「あはは、1年前の今日も土浦くん、そう言ってくれたね」

 俺は、自分があまり代わり映えのしない言葉を告げたことを知って、苦笑する。
 なんだ。偉そうなことを言うわりに、変化のないのは俺の方かも、って?

「土浦くん……?」

 だけど、香穂の答えは去年とは違った。
 去年は耳の先まで朱くして絶句していたのに、今年は満面の笑みで俺のマフラーを引っ張る。

「ね? 耳、貸して?」
「ん? なんだ?」



「── 大好き」



 飛び込んできたのは、俺への肯定の言葉と頬へと落ちる柔らかいキス。


「── これからもずっと一緒だよ。ね?」
「香穂……」
「そばにいたいし、そばにいて欲しいよ。── 私は、土浦くんに」


 コンサートを終えたときのような、高鳴る感情が浮かんでくる。
 香穂は、言葉少なになった俺の手を引っ張ると、自分の道を切り開くかのように、一歩一歩、先を歩いていく。



 また俺たちの、新たな1年が始まる。
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