*...*...* Trees 1 *...*...*
「── 桂ちゃん……。桂ちゃん!!」


 遠い場所で、誰かが僕を呼んでいる。
 窓を開ける音。
 僕の周りを取り囲む、ぬくぬくとした空気が、ひんやりとした北風に浸食されていく。
 ── なんだろう。もう少しで、気持ちの良いフレーズに出会えたかもしれないのに。

「桂ちゃん! いい加減にしないと、もう、叔母さん、お姉ちゃんに言うわよ!!」

 ……お姉ちゃん。
 そう、僕にも姉さんがいることにはいるけど、あの人は、洋服を作っていればそれで幸せという人。
 僕のこの様子を見ても、なにも気に掛けないと思う……。
 お姉ちゃん。……誰のことなんだろう……。

「まったく……。桂ちゃん、昨日、明け方近くまでセロ弾きのゴーシュさんみたいに、ずっとチェロ弾いてたでしょう。
 桂ちゃんのチェロは素敵だから、叔母さん、それで睡眠不足になるってことはないのよ。
 ただ、桂ちゃんの体が心配なの。ほら、起きて? 今日は桂ちゃんの好きなキャベツとタマゴのスープ、用意したから」

 ぽんぽんと早口で言われて、僕の頭はようやく覚醒する。
 この前うっかりこぼしてしまったタマゴのスープ。
 朝飲んで学院に行くと、なんとなく身体中が暖まるような気がした。
 あのスープは、叔母さんの味の代表だと思う。母さんとは違う味。

 ぽっかりと開いた僕の目は、ようやく叔母さんと、明るい空の色を捉えた。
 ……ああ。朝、なんだ。

「……叔母さん、おはようございます」
「はいはい。おはよう。目が覚めた?」
「……はい」
「すごい髪型よ? いそいで顔洗って。ほら、ご飯食べてらっしゃい」

 半身を起こした僕を見て、叔母さんはそそくさと布団を上げる。
 僕が2度寝をしたら、起こすのにもっと手間がかかるのを、叔母さんはもう知ってる。

 母さんの妹である叔母さんの家に下宿を始めて、もうすぐ2年。
 僕の気持ちが音楽だけに向かうように、風邪を引いてチェロを練習時間が減らないように。
 そうやって叔母さんはいつも気を遣って、僕に美味しい朝ご飯を出してくれる。

 ── そうだ。
 僕が叔母さんの作るキャベツとタマゴのスープのことを話したら、香穂先輩、1度食べてみたい、って言ってたっけ。

 ああいうスープっていうのは学院に持って行けるのかな。冷めたら、どうなるんだろう。

 香穂先輩が甘いデザートを食べているときの顔を思い出す。
 元々下がり気味の眉毛がもっと下がって。眉毛とは反対に、口角は上がって優しい笑みを作る。
 ヴァイオリンをあごにはさんでいるときの表情とは違って、ただただ、溶けそうな顔。

 ちょっと照れながら、僕のスプーンから甘いモノをぱくりと食べる香穂先輩は、本当に可愛くて。
 だから、キャベツとタマゴのスープを食べたときの顔も、見てみたい。そう思って。

 食べたら、きっとこう言うのかな。

『志水くん。すっごく美味しいよ。もう1回食べる!』

 香穂先輩のそんな顔を見るたびに、僕の中には、少しずつ温かいフレーズが降り積もっていく。
 ……あ。そうだ。タマゴのスープ……。── どうしたら、学院に持って行けるのかな……。

「桂ちゃん!! 畳の上でまた寝直さないーーー!」


 再びウトウトとしかけた僕の肩を、叔母さんは今度は情け容赦なく揺らした。
*...*...*
「きっとまた大きくなったよね。そろそろ、この春には巣立ち、かな?」
「本当なら、とっくに巣立ちしていなくてはいけない時期だそうです。金澤先生が、心配していました」

 気持ちの良い放課後。
 もうすぐ本当に寒い冬がやってくるんだ、と、ときおり通り抜けていく風と、数少なくなった木々の葉が教えてくれる。

 僕は、香穂先輩とつきあい始めた冬という季節をけっして嫌ってはなかったけど。
 やっぱり昼寝をするには、春か秋。暖かさが身体中に染み込んでくる季節の方がしっくりくると思う。
 もうすぐその季節は終わりを告げる。

 昼寝が出来る季節が好きだ、という、僕の表情が面白かったのだろう。
 香穂先輩は、笑って言ったものだった。

『だったら、なおさら、今の時間、大事にしたいよね』
『香穂先輩……』
『私も志水くんのチェロと自分のヴァイオリンがどんどん広がっていく季節が好き。
 だけど、── 止められないから』
『はい?』
『もうすぐ、私が卒業しちゃうことも、志水くんの音が聴けなくなることも……。止められないから。
 ── だから、目一杯、今、志水くんと一緒にいたいと思って』

 さわやかなまでの音色は、香穂先輩の持ち味で。
 それは僕とつきあい始めてから1年、変わることがなかった。
 だから、なんとなく僕は、これから続く僕の学院生活の隣りにずっと香穂先輩がいてくれるのだと錯覚していた。

 けれど。

 ── 香穂先輩は、僕よりずっと大人で。
 そして僕は、香穂先輩の存在自体に甘え続けている子どもなのかもしれない。

 香穂先輩と僕は森の広場へ脚を進めると、そっと、草むらの中を覗き込んだ。
 きれいに3色に染め上げられた『カホ』は、のんびりと自分の脚を舐めて。
 全身真っ白な『ケイイチ』は、いつもの通り、ごろりと腹を出して眠っている。

 この子たちが生まれて1年。
 生まれたての面影はまるでどこかへ消えたような、もうオトナのネコと変わらないようなゆったりとした雰囲気を漂わせている。

 ……金澤先生が、せっせと餌付けしたせいなのかな。
 ふくふくと幸せそうに寝そべっている2匹のネコ。
 このネコたちを見てると、僕と香穂先輩自身のことをそのまま映しているようで嬉しくなる。

「あれ? 志水くん。ちょっと待っててね」

 香穂先輩は、弾かれたようにケイイチの鼻に指をあてると、慌てて前足の脇に手を滑り込ませた。

「どうしたんですか?」
「この子、具合が悪いような気がする……。急にこのごろ寒くなってきたからかな?」

 よく気をつけてみると、ケイイチの胸はいつもよりも激しく波打っているように見えた。
 うつろに開けた目は、いつものビー玉のような透き通った目ではなく、朱く、充血している。

「香穂先輩……」
「ごめんね、私、ちょっと、ケイイチを病院に連れて行く。今日の練習、また明日にしてもらってもいい?」

 香穂さんは片手にヴァイオリンを持つと、もう片方の腕にケイイチを乗せて、僕を見上げた。

「いいですよ。僕も一緒に行きます」

 ……なんだろう。この感じは。何か思い出せそうで思い出せない。
 香穂先輩の横顔を見ながら、僕は心に引っかかる事象を必死で思い出そうとしていた。

 幸いなことに、ケイイチの状態は軽い風邪の前駆症状ということだった。
 2、3日、薬を飲んで、温かいモノを食べていれば治ると聞いた香穂先輩は、ほっと顔を綻ばせた。

「志水くん、良かったね!」

 香穂先輩は、病院からもらったバスケットにケイイチを乗せて、満足そうに微笑んでいる。

 ── なんだろう。この、心の中に小さな灯りがともったような感覚は。
 これで、きっと寂しくない。ひとりでいても寂しさなんて感じない。
 ケイイチも同じだったんだろう。ぴくりとも体を動かすことなく、安心しきったように眠っている。

「香穂先輩……?」
「ごめんね。今日の練習、できなかったね」

 すまなそうに謝る香穂先輩と、ケイイチを見ているうちに、僕の中にある挿絵が浮かんだ。

「香穂先輩はセロ弾きのゴーシュみたいな人です」
「え? えーっと……」
「……叔母が僕のことを何度もゴーシュだ、ってからかうものだから、この前、本を買ってきたんです。
 香穂先輩はその挿絵のゴーシュに、そっくりです」

 指揮者に叱られてばかりの、オーケストラの団員であるゴーシュ。
 そんな彼を元気づけようと、神様は彼の元に動物たちを送った。
 だけどその動物たちは、風邪は引く、リズムも取れない、かえって足手まといの仲間だった。

「でも……。ゴーシュは自分の練習時間を放り出してでも、動物たちを助けたんです。
 熱を出した野ねずみを看病して。リズムの取れないカッコウに4拍子から教えて。
 そんな様子を見て神様は、ゴーシュに音楽の才能をプレゼントした、っていうお話です」

 お話としてはよくできてるとは思うけど、僕にはよくわからないことがあったりする。

 技術力と練習量というのは、必ず比例する。
 僕の周りの人たちは、どうしてもっと楽器を可愛がってあげないんだろう、と思う。
 もっと、楽器に対して真剣な態度で臨めば、楽器もそれなりの言葉を返してくれるのに。

 だけど。

 香穂先輩の技術、というのは、練習量に比例していないようにも思える。
 僕より、かなり短い練習時間……。香穂先輩は今も普通科のクラスに在籍しているし。
 だから、僕より練習量の少ないクラスメイトより、さらにヴァイオリンに向かう時間は少ないと思う。
 それなのに……。

 ── どうして香穂先輩の音は、ずっと僕を惹きつけて止まないのかな。

 素直で、清らかで。
 先輩の音を聴くたびに思う。自分の音の足りないところ。
 家に帰って、一人になって、もう一度思い返す。真似て練習してみる。
 けれど、香穂先輩の音は、どんなに努力したって、習得できるものではない、ってことを知らされる。

「ん? 志水くん、どうかした?」

 再び森の広場に戻ると、香穂先輩はそっとケイイチを地面に降ろした。
 薬を飲んだせいだろう。ケイイチは小さくあくびをしてカホの隣りに体を滑り込ませると、そのまま目を閉じた。
 濃い夕焼け色の空は、西に一番星を映して、だんだん暮れかかろうとしている。

「香穂先輩……」

 ケイイチの様子を満足そうに見つめている香穂先輩を、背中越しに抱きしめる。

 ── 分かってたはずなのに。
 香穂先輩はあと数ヶ月で卒業して、僕は、1人、この学院に残る。
 目で追って。耳を傾けて。
 本当に香穂先輩が卒業した、と僕の身体が認識をするのには、かなりの時間が必要だと思う。

 ── いや、それも違うかな。
 もし香穂先輩がこの学院からいなくなっても。
 僕は目には見えないモノを見て、耳には聞こえないモノを聴けるようになるのかもしれない。

 変わり続けることは悪いことじゃない。

 この1年を思い浮かべる。
 僕はずっと、音楽をやってきて。これからいつまでも変わらず音楽を続けていくだろうとは思っていた。
 だけど、1年前の堅苦しい僕の音色と、香穂先輩を近くに感じ出してからの音色はこんなにも違う。

 ……だから。


 香穂先輩がいなくなった学院で、僕はもう一度、何かを得ることができるのかな。


 香穂先輩は、ただ黙って僕の手を握り締めていた。
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