*...*...* Trees 2 *...*...*
『香穂先輩。おはようございます。冬海です。
 今日、お昼ご一緒してもいいですか? あ、あの、よろしければ、天羽先輩も一緒に』
『冬海ちゃん、おはよう。了解です。じゃあ、天羽ちゃんには私から声をかけておこうか?』
『嬉しいです。じゃあまたお昼に。よろしくお願いします』

 師事しているチェロの先生の公演につきそう、ということで、志水くんが学院を休んでいる日。

 朝1番に冬海ちゃんからメールが届いた。
 お昼前の授業が思ったより早く終わった私と天羽ちゃんは、あらかじめ冬海ちゃんの好きなメニューを選んで、カフェテリアのテーブルについていた。

 どんよりとした雲が空一面を覆っている。

 これじゃせっかくの料理の色も綺麗に見えないかも。
 そう思っていたら、ちょうどここで自習をする子にとっても不便な暗さだったのかな。
 いきなりパチパチと照明がついて、カフェテリアは一気に明るくなった。
 それと同時に、入り口横の小さなクリスマスツリーもくるくると回り始める。
 献立を真剣に見つめていた、不機嫌そうな男の子の口元が緩む。
 ── いいな、いいな、クリスマスって。

「クリスマスっていいよね〜。私、大好き! なにか素敵なことがありそうな気がして」
「そうだねえ。私も取材取材って言ってないで、クリスマスくらいぱーっと楽しもうかな」
「うん。あ、良かったら、天羽ちゃんと冬海ちゃんと私の3人で、クリスマスパーティでもしない?」
「って、あんたには天使がいるでしょうが」
「ん。でも、1日は志水くんと過ごして、もう1日は、女の子ばっかりで過ごそう? ね?」
「ま、それもいいか。冬海ちゃんに聞いてみよう? ……それに私たち、受験勉強もそこそこ頑張らないと、だよね」

 天羽ちゃんはそう言って眉を顰めている。
 音楽は趣味で続けて。
 あとは、自分の行ける範囲の中から大学を選ぼう、とする私と違って、天羽ちゃんの志望校はレベルが高い。

『でもさ、ジャーナリストになるには、一番手っ取り早い方法なんだよ。あの大学に行くってことは!』

 夢を持つと、自分では想像もつかないような力が生まれるのかな。
 春の頃の成績がウソのように、今はバッチリ合格圏内に入ってるんだよ、って笑う天羽ちゃんは本当にすごい人だと思う。

「あ、こんにちは……。遅くなりました。ごめんなさい!」
「ううん? じゃあ、早速食べよう?」

 長くなった前髪を揺らしながら冬海ちゃんが走ってくる。
 その仕草は女の私から見ても、本当に可愛くて。季節外れの白い花が飛んできたようにも思えた。

「楽典の授業が思ったよりも長引いてしまって……。
 志水くんのクラス、先にその授業やってた、って聞いていたから、借りればよかったんですけど。
 今日、志水くんお休みだったので」
「うん。個人レッスンの先生が公演だから、付き添います、って。だから今日はお休みなんだ」

 冬海ちゃんは、行儀良く椅子にこしかけると、膝にハンカチを置いている。

「本当に志水くん……。博学なんです。多分、音楽科2年の中で、1番物知りだと思います。
 弦だけじゃなく、管にも詳しいので、みんな当てにしてるんですよ?」

 冬海ちゃんは、私と志水くんが付き合ってることを知っていて、会うたびに、さりげなく志水くんのお話をしてくれる。
 学科も違う。学年も違う。
 ましてや志水くんは自分のことをあれこれと自分から言うタイプじゃなかった、から……。
 私は、冬海ちゃんの心遣いが嬉しかった。

「冬海ちゃん……。あの、ありがとうね。いつも」
「ううん、そんな……。あ、そういえば、この前、面白いことがありました」
「え? なになに? なにか、ネタになりそうなこと?? なんだったら報道部の後輩に言って、記事にしてもらうけど」

 ぱくぱくと、あっという間に昼食を平らげた天羽ちゃんは、興味津々に身体を乗り出した。

「あ、いえ……。記事にはならないかもしれません。す、すみません」
「いーよいーよ。そんなに堅くならないでさ。話してみてよ」

 冬海ちゃんは、グラスの水を一口飲むと、ゆっくりと話し始めた。

「あ、あの……。この前の放課後、クラスメイトと、あの、駅前の噴水の話になったんです」
「ああ、あの、祈れば叶う、っていう、アレ? ウワサがウワサを呼んで、あの噴水、今、コインがいっぱいだって聞いたよ」
「はい。その噴水の話です」

 私は思い出す。
 確か、卒業してしまった柚木先輩と、冬海ちゃん、志水くん。
 そして、月森くん、っていう、今考えてみれば、めったにグループになることのないメンバーで行った、駅前の噴水。
 あの時の私は噴水にコインを投げ入れて、コンサートが成功するように、って祈った。

『神さまに願い事をするときは、ウソの願いごとをしてはいけないって言われています』

 そう志水くんは言ってたけど。
 あれ? あのとき、志水くんはどんなお願いをしたんだろう……。

「それで、ですね……。みんな、それぞれに自分の願い事を言い出したんです。そのとき、志水くんが……」
「なになに? あの子のことだもん。きっとチェロがどう、とか言ったんでしょう?」
「えっと、その……」

 冬海ちゃんは、そこで一旦言いよどんだ。目元がふわりと赤くなっているのがわかる。
 天羽ちゃんは、記事になりそうにないかも、と心の中で思ったのか、さっきよりもややリラックスした雰囲気で紅茶をすすっている。

「ん……。1日が36時間になりますように、とか? 36時間もあれば、志水くん、チェロを弾く時間を増やせるもの」

 本当に……。
 付き合ってから、知ったこと。
 志水くんは、心からチェロを愛おしく思ってて、愛おしく扱ってる、ってことだった。
 もし、なんらかの理由で、チェロか自分か、どちらかが傷つかなくてはいけない状況になったとしたら、
 志水くんは、自分の身体よりも、チェロがケガをしなくように、とチェロを庇うと思う。
 そんな持ち主の気持ちを、賢い楽器が気付かないハズがない。
 志水くんのチェロは、1年前よりもさらに豊かさを増した音色を響かせている。

「えと、あの……。志水くんの願い事は、『特にない』、でした」
「そっか。ってあの子も、周囲の雰囲気、読まなきゃ。私だったら、なんでもいいからそういうときは無難なこと言うかなー。
 大金持ちになりたい、とかさ」
「あ、あの。ごめんなさい。天羽先輩。あの……、まだ、続きがあって」
「うん、いいよー。私、聞いてるから、続けて?」

 本当にごめんなさい……、と冬海ちゃんは、前置きして。
 私たち3人にしか聞こえないような、すごく小さな声で話し始めた。

「あ、あの……。志水くんの願いはもう、叶ってるんですって。だから、祈ることはなにもない、って。
 ── チェロと香穂先輩がいてくれればいい、って言ったんです……」
「は、はい??」
「って、冬海ちゃん、ちょっと待った! って、志水くん、そうやってクラスメイトにカミングアウトしちゃったの??」
「い、いえ。あの、カミングアウト、っていうか、もっと、自然に……。なんでもないことのように、言ってました」

 わ……。
 恥ずかしい、という気持ちが、言葉より先に、身体に表れたような気がする。耳が熱い。
 うう、なんとなく、そのときの状況が手に取るようにわかるような……。

 あの、ふんわりとした空気の中、志水くんは当然の摂理のように、何かの公式のように、すごく当たり前のように、言ったんだ。
 ── だ、だけど。

 そういえば、この前、ちょっと聞きたいことがあって志水くんの教室に行ったことを思い出す。
 休み時間に眠っていることも多い、志水くん。
 彼を呼び出すのだけは、どうしても志水くんのクラスメイトの誰かを呼ばなくてはならない。
 あのとき、ツン、と澄ました様子で志水くんを起こしてくれた女の子はやっぱり……。
 志水くんと付き合っている私のことを、あんまり好きじゃないんだろうな、って思う。

 私は頭を抱え込んだ。
 私、ますます、音楽科棟に、行きにくくなっちゃうよう。

「あー。香穂?」
「はい?」

 天羽ちゃんは紅茶を勢いよく飲み干すと、呆れ気味に私の顔を見つめた。

「あんた、クリスマスは2日間とも、あの天使と過ごしなさい? 私は冬海ちゃんと2人、しっぽりやるから」
*...*...*
 放課後の練習室。

「間に合いました。先輩」

 突然ドアが開いた、と思ったら、志水くんの頭がひょっこり覗いた。
 走ってきたのか、息が上がっている。
 手にしているのはいつも使っているチェロじゃない。重い色のバロックチェロだった。

「志水くん……。あ、あれ? 今日公演だ、って聞いてたからてっきりそのまま帰宅しちゃうのかと思った」
「いいえ。先生の音を聴いていたら、先輩の音に会いたくなったんです。だから……」

 志水くんは目を輝かせて、私のヴァイオリンを見つめた。
 新しい音に出会ったときの明るい顔。きっと志水くんは今日の公演から、なにか得るところがあったのだろう。
 普段眠そうな瞳が、大きく輝いている。
 こういう瞬間って毎日のように現れるモノじゃない。すごく貴重な瞬間だってわかってるだけに、私は急いで譜面台を立ち上げた。

「えっと、じゃあ、志水くん? 今日は何を合わせよう? んー。ボッケリーニか、何かにしようか?」

 私は数センチの厚さの楽譜集の中から、黄色の付箋紙の貼ってあるページをめくる。
 志水くんは目を見開いた。

「……どうして香穂先輩は、今僕が思っていたことがわかるんですか?」
「え? ああ。えっと、志水くんのチェロを見たから、かな?
 バロックチェロ、だよね? 今日はゆったりとした重い曲が弾きたいのかなあ、って」
「── ありがとうございます。香穂先輩」
「ううん? 全然」

 志水くんは私といると、いろんな音が浮かんでくると言う。
 どうしてそうなるのか、というのは私にはわからないけれど、
 曲が浮かんだ、と言って、目を輝かせては五線紙に向かう志水くんが、私はとても好きだった。
 だったら……。
 休みの合間を縫って、こうして、2人で音を合わせることは、志水くんの笑顔を見ることに繋がるのかな、って思える。

「あ、ごめんね。ちょっと待ってて?」

 私はカバンの中から茶色のゴムを取り出すと、耳の上の髪の毛をまとめた。
 ふわりとレイヤーの入った髪型はとても気に入っているけれど。
 1時間、とかそれ以上の時間、ヴァイオリンを弾き続けるためには、やや鬱陶しい髪型かもしれない。
 弓を引くたび、楽譜を見るたび、ばさりと視界に入ってくる。
 特に新譜を見ているときは、音譜と髪の毛が一緒になって、どの音階か見えなくなっちゃうんだよね。

「……香穂先輩」
「ん? ごめんね。すぐできるから」
「動かないでください。── これ」

 ふいに背後から、摘み上げた髪に触れられる。
 自分がやっているのとは違う。優しく丁寧な指遣い。
 ── そう、これは志水くんがチェロ弦をいじってるときと同じ。優しげな仕草。
 まとめられた髪に微かな重みを感じる。
 鏡がないからわからない。
 けど、頭を揺らすと、それはしゃらしゃらと雪が降り積もる時のような音がした。

「ああ。やっぱりよく似合う。── 可愛いです」

 私は頭に手を遣ると、髪の毛をまとめているひんやりとした塊を確かめた。

「えっと、……バレッタ?」
「はい。そうです。香穂先輩、僕と練習をするとき、そうやって髪の毛をまとめるでしょう?
 駅前のショーウィンドウで、それを見かけて……。
 香穂先輩に似合うだろうなと思ったら、どうしても欲しくなって買ってしまいました」
「ありがとう……。ね、見せてもらってもいいかな?」
「はい。どうぞ」

 志水くんの了解を得て、私はゆっくりと留め具を外す。
 重みのあるそれは、ガラスでできた雪の結晶のモチーフが重なったデザインのバレッタだった。

 ところどころに、小さな色ガラスがきらめいている。
 ……って、色、ガラス? かな? 本当に……。って、あれ?
 このモチーフ、どこかで見たような気がする。そう、あれは、須弥ちゃんが見せてくれた雑誌の中の特集だった。

『すごく可愛いよね、けど、すっごく高いよね〜』
『なに? 乃亜のところなら、谷くん、なんだって買ってくれそうじゃない? 未だにアンタにぞっこんだもん』
『でも、大学生さんならともかく、受験生にこの値段は出せって言えないようー』

 って、笑ってたデザインと、同じ……? もしかして、このバレッタ、本物の宝石が使われていたり、するのかな……?

 私は雪の結晶を握りしめた。

「あ、あの! 志水くん……っ」
「はい。なんですか? 香穂先輩」
「あ、……と、まず、お礼言わなきゃ、だよね。どうもありがとう……。嬉しかった」

 私がそう告げると、志水くんは嬉しそうに頬を緩めた。
 もともと女の子のような曲線でできた目鼻立ち。優しい顔が、さらに優しく溶ける。

 コンクールが終わって、1年経った今でも、この笑顔は変わらない。
 神さまは彼の成長を、少年の一番美しい時期に留めたのかも知れない。

 志水くんの笑顔は、私と練習室中を暖かくしてくれた。

 ……と、そこで私は手の平の重みに我に返る。
 け、けど、待って。えっと、これって……。

「あ、あの。それで、すごく言いにくいこと、なんだけど……」

 志水くんは、部屋の中央に椅子を持ってくると、チェロケースを広げている。

「あまり時間がありません。……今、浮かんでいる音を早く追いかけないと」
「そっか、そうだよね。けど、あの……」
「はい? 香穂先輩、どうしましたか?」

 わたわたと言いよどんでいる私に、志水くんはようやく振り返った。

「あの、このバレッタ、すごく高かったんじゃないかなあ、って、思って……」
「ああ、そうですね。叔母が僕の通帳を渡してくれました。香穂さんにならいいでしょう、って」
「は、はい?」

 ちょっとふっくらとした、志水くんの叔母さんの顔が浮かんでくる。
 もし私が、学校の関係といって、地方の親戚のウチに預けられることになったら、どうなるんだろ、って考えたことがある。
 志水くんほど可愛がってはもらえなかったかも……。
 志水くんも、叔母さんの作るご飯がすごく美味しいから、って、朝会うと、いつも朝ご飯に並んだおかずについて話してくれる。

『今度、香穂先輩も一度、僕の叔母さんの朝ご飯を食べに来てください』

 って……。
 で、でも。ちょっと待って。あの、このバレッタ……。通帳ってことはやっぱり、本物の宝石なの……?

 志水くんは私が握りしめていたバレッタをそっと取り上げると、ピアノの上に置いた。
 黒い光沢の上、まばゆいほどの光を放つ結晶がゆらりと揺れる。
 志水くんはそれを満足げに見つめた後、私の顔を見て言った。


「……あとでまた、僕がつけてあげます」
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