*...*...* Trees 3 *...*...*
 ……なんだろう。
 この気持ちはなんていうのかな。

 本当は柔らかな日差しが注ぐ時間帯なのに、僕はずっと暗闇を歩き続けている気がする。
 放課後の森の広場を、僕はペンと五線紙だけを持ってふらふらと脚を進める。
 何があっても手元に置いておくチェロは今、教室で眠っている。

 ── おかしい。僕がチェロを持たずに平気だ、なんて。

 浮かんでは消えるフレーズ。
 その音たちは、今までだったら、追いかける必要はなかった。
 そのまま、僕の中に立ち止まり、僕の中の一番大切な場所で、僕が来るのを待ってくれていたのに。
 今は、追いかけて、手にしても。書き留める前に、うたかたみたいに消えていく。

(香穂先輩……)

 その旋律を形にしたくて、香穂先輩の顔を思い浮かべる。
 透き通る声と、瑞々しい肌の感じを思い出す。── だけど。でも。

 そういえば、去年のクリスマスコンサートは楽しかった。
 コンサートの練習があんなに忙しかったのにもかかわらず、僕の作曲への思いは止めることができずに。
 眠っている間に浮かんだフレーズさえ、朝、全て思い出すことができた、のに。

「違うだろ〜、土浦。ここは、Fu----、って調子上り気味に棒を振るんだよ」
「って、金やん、本当ですか? 最初からそんなにヴィブラートをかけちゃ、ピッコロが立ち消えちまう」
「そこをどう表現するか、ってところが、指揮者さんの醍醐味だろうが。……って、よう、志水 久しぶりだな」
「お、志水か? 珍しいな。お前がチェロを背負ってないなんてさ」
「あ……。金澤先生、土浦先輩……」

 大柄な2人は、ちょうどそこで一息ついたのか、つかつかと僕に近づいてくる。
 僕は僕の身体に特に不便を感じたことがないけど。
 もし1日だけ、僕の身体と土浦先輩の身体が入れ違ったらどうなるんだろう、って考えることはある。

 大きい手。しっかりとした肩幅。
 土浦先輩は、もう3年前から、音楽科の制服を着ていたんじゃないかと思えるほど、白い制服が馴染んでいる。
 心持ちうつむき加減の金澤先生は、遠目で見た感じでは、土浦先輩よりも小柄に見える。

「このところ冷え込んできたから、お前さんもその、なんだ? そこらへんで眠りこけるなよー。ははは」
「そうだぜ、志水。お前のチェロ好きは、音楽科全員が認めるところだが、
 健康管理は音楽家としての最低の義務だぜ? お前のチェロのファンっていっぱいいるだろ?
 失望させないようにしろよ?」

 ……僕の、チェロのファン。
 確かにチェロはちょっと気むずかしい貴人のようなところはある。
 だけど。
 ある程度の先生について、ある程度の練習をすれば、誰だってある程度の技術を養うことはできる。
 それよりも、── 僕の存在意義、それは……。

「……音が」

 僕の口は、土浦先輩の言葉を飛び越えていった。

「は?」
「……音が、浮かばないんです。ファータも見えないし。僕のまわりのキラキラしたモノが、全然見えないんです」
「……って、なんだよ、それ」
「あーーっと。俺、そーいえば、ちょっとヤボ用を思い出したんで。あとは土浦、頼んだ!」
「って金やん、待てよ。逃げるのかよ?」
「いやあ。音楽科の中では超有名、だぜ? 土浦くんは面倒見の良い、いーい生徒だってな」
「っておい! ……ったく。行っちまいやがった……」

 金澤先生は、僕ににかっと笑い顔を見せた後、薄汚れた白衣をひらひらとさせながら、柊館の方へ向かう。
 とんがったように見える肩が寒そうで、僕はワケもなく身震いした。

「で、志水。見えない、って? あ、そこ座れよ。俺も座るからさ」

 土浦先輩は、ひょうたん池の近くのベンチを指さした。
 僕は言われるままに腰掛ける。

 ── こういう風に、何でもはっきりと物事を選択していく人。
 土浦先輩は、今、僕が感じているような、どんよりとした不安を今まで持ったことがあるのかな?

 僕は見えない糸で上着の裾を引っ張られるようにして、腰を降ろした。

「── はい。……音が、浮かばないんです」
「……って香穂はどう言ってるんだよ?」
「香穂先輩には言っていません。……香穂先輩はなにも悪くないですから」
「ってことは、ケンカした、とかそういうワケではなさそう、か。……ま、お前たちがケンカするなんて、想像つかねえよな」

 僕は、ぼんやりと目の前の木々を見つめ続けた。

 香穂先輩と付き合いだしてから、2回目の冬がやってくる。
 ときどき吹く強い風は、数少なくなった枯葉を揺らす。
 1枚だけ、必死に枝にしがみついている葉がある。
 どうか飛んでいかないように、と願った瞬間、その葉は、あっけなくひょうたん池の水面に落ちた。
 池の中の魚が、ぎょっとしたように、八方に散っていく。

 どうしたっていうんだろう。
 今までの僕だったら、この景色のどんな事象だって、豊かな音に変化させることができたのに。

 土浦先輩は、ほぅ、と大きな息をついた。

 去年やったコンサートの練習風景が浮かんでくる。

 今の自分の状況に対する適切な言葉が見つからない僕を、土浦先輩は、待てなくなって。
 それで一時期、練習が滞ったことがあったっけ。
 そのときは、香穂先輩が僕たちの間を必死に取りなしてくれたんだ。

『みんな、志水くんの性格、よく知ってるよ。分かってくれてる。だから、大丈夫。
 ゆっくり話してみよう? もし伝わらなかったら、伝わるまで。ね?』

 この1年、香穂先輩が僕の近くにいてくれたことで、僕は僕なりに僕の言葉でたくさんの事象を伝えることはできるようになった。
 ── だけど。

 香穂先輩がいなくなったら、僕はこれからどうすればいいんだろう。

 言葉の出ない僕を責めることなく、土浦先輩は立ち上がると、西の空に顔を向けた。

 冬の日暮れは早い。
 柔らかな夕映えの光は、土浦先輩の頬に長い鼻梁の影を落とした。

「ま、自分に同情するのは、志水の勝手だ。── だけどな」
「はい……」
「お前、言ったよな。香穂はなにも悪くないって。
 ……だったらさ、香穂を悲しませることだけはするなよ。あいつは関係ないんだから」
*...*...*
 僕がチェロを取りに教室に戻ると、そこには香穂先輩が待っていた。
 閑散とした音楽科の教室。
 いつもだったら恥ずかしいから、とめったに僕の教室には来たことがないのに……。
 今日は珍しく人少なな音楽科棟が、香穂先輩の羞恥心を少しだけ軽くしたのだろう。
 僕の席に座って、楽しそうに窓の外を見ていた。

「志水くんの席って、いい席だね。ほら、正門前のファータが1番素敵な角度で見えるよ?」
「香穂先輩……」

 香穂先輩は幸せそうな顔をして微笑んでいる。
 いつもだったら、僕の心の中に降り積もって止まない、愛らしいフレーズ。
 それが、心の底まで届かない。

 作曲というのは、よく知識の泉という例えられ方をする。
 こんこんと溢れるうちはいい。
 音楽を専門としている人間なら、大体の知識さえあれば、簡単な数曲は作曲できるという。
 僕の11番目にあたる、作曲『バロックチェロによる小夜曲』
 本来なら一番聴かせる音を作るべき、3章の音が浮かんでこない。

 音の代わりに、不安が胸に広がっていく。

(── 香穂先輩、が、遠い)

 香穂先輩が足りないから?
 以前は、香穂先輩の音を聴くだけで次々と浮かんだ旋律。
 それが今は、枯れ果ててる。
 ムリに音を作ろうとすると、粉々のフレーズになって、僕自身を傷付けてくる。

 香穂先輩。

 僕は、あなたが好きで。
 あなたのヴァイオリンが心から好きで。どうしようもなくて。
 僕の曲を聴く、あなたの笑顔を見るのが好きで。

 けれど。
 ── 作曲の泉が枯れた今、僕は香穂先輩と一緒にいる資格ってあるのかな。

「志水くん……? どうか、した?」

 僕のただならない様子に、香穂先輩は不安そうに首を傾けた。

「……こわいんです。香穂先輩の音に包まれて、僕の音が消えていってしまうのが。
 この1年はそうじゃなかった。香穂先輩の音を追いかけるようにして僕の新しい音も生まれた。
 なのに……」
「志水くん……」

 香穂先輩は痛そうに眉を顰めて、じっと僕を見守っている。

『香穂を悲しませることだけはするなよ』

 怒ったようにそう言っていた土浦先輩を思い出す。
 僕は、今、香穂先輩を傷つけている。

 本当に、僕はこの人が好きだったのに……。
 いや、キライになったわけじゃないのに。
 どうして、香穂先輩を見つめるだけで、こんなに悲しい気持ちになるんだろう。

 僕のミューズ。
 ずっとそう呼び続けてきた人。

 ここまえ考えて、僕は動揺する。
 ── どうして、香穂先輩へ向かう想いが、全部過去形になっているのだろう。




 僕は、香穂先輩から目を逸らして告げた。

「すみません。── しばらくの間、僕を1人にしてくれませんか?」
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