*...*...* Trees 4 *...*...*
『僕のミューズ』

 ずっとそう言ってくれる人がいた。
 どうしてだか、わからない。言われ続けて1年経った今でもわからない。

 去年の春のコンクール。リリから魔法のヴァイオリンをもらって、私の音楽が始まった。
 途中で、魔法のヴァイオリンは全ての効力を無くして。それからは普通のヴァイオリンで音を奏でて、1年と半年。

 不思議だった。

 ヴァイオリンを持っていなかったら、ただの普通の女子高生だった私が。
 ヴァイオリンを肩に載せた瞬間、道行く人が振り返る。立ち止まる。
 弓を動かし始めれば、聴衆の脚は、その場に縫い取られたように、動かなくなる。
 音が途切れたときには、拍手をくれる。
 自分じゃすくい取れないほどたくさんの喝采を受けて、私は、初めて舞台の上で涙を流した。

 でもそれ以上に。
 私は、1人の男の子に、たくさんのインスピレーションを贈ってあげられたことが嬉しかった。

 かつん、と、日頃、履き慣れていないヒールが、大理石の床の上、冷たい音を立てた。
 去年のコンサートの時、顔見知りになった牧師さんが、柔和な笑顔で頷いてくれる。

「この教会を、ですか。いいですよ。午後4時からミサが始まりますのでね。その前でしたらお使いください」
「あ、ありがとうございます……」


 宗教なんて何一つ信じてなかった私は、今日クリスマスの日に、志水くんと初めてのコンサートをやった教会の中にいる。

 教会の奥に、ちんまりと控えめに飾ってあるクリスマスツリーは、背後にあるステンドグラスが作る美しさに彩られて。
 却って街中にあるクリスマスツリーよりも崇高な雰囲気を漂わせていた。

 教会の神父さんが立つ高台の少し前、私は、手にしていたヴァイオリンをそっと肩に載せる。


『すみません。── しばらくの間、僕を1人にしてくれませんか?』

 そう言われて。ぱたりと会わなくなって1週間。
 元々、普通科と音楽科。
 しかも学年も違うということで、それこそ、会おうと努力をしなくては会えない距離に、今更ながら気付いた。

 寒さのせいかな。指が震える。
 神頼み、じゃなくて、ヴァイオリン頼み、な状態の自分がおかしい。
 肩に乗せたヴァイオリンに、私と志水くんの未来を願うなんて。


 ── ねえ。もう一度、初めから始めよう。
 できるかな。私たちに。それは私の独りよがりなのかな?

 去年のクリスマスコンサート。12月24日に向けて、私たちは真剣に音楽に向かった。
 練習の合間に、志水くん、たくさんの音を作っては、五線紙に書きためていったね。
 ノートがすぐなくなっちゃう、って言うから、100冊まとめて注文したら、お店の人に笑われたって。

 そのときの、志水くんの顔、私、今もおぼえてるの。
 風が揺らした、志水くんの髪の色も。

 志水くんの弓が引かれる。
 音が広がり出したそのとき、学院中のファータが、志水くんに寄り添ったの、覚えてる?
 私、覚えてるんだ。ううん、忘れられないんだ。

 荘厳な光が一筋、志水くんの髪を照らした。
 と思ったら、みるみるうちに光は満ちて、溢れて、志水くんの全身を映した。
 そのとき思ったんだ。
 もし、音楽の神さまという存在を信じる人がいるとすれば、きっと同じ情景を一度でも身体で感じたことがある人だって。
 志水くんは、志水くんのままでいい。
 泉は枯れたんじゃないよ。いつか、もっと豊かで甘い水を湧かせるために、今、思いを溜めているところだから。

 ひとりよがりでごめん。けど。
 ── 私は、まだ、志水くんはこれからだ、って信じてる。そう、願ってもいいかな?

「……どうか、あの人に、届いて」
*...*...*
 午後3時に教会にやってきた。リミットは4時まで。

 1曲の演奏に大体、5分が必要だとして……。えっと、祈るために私に与えられた曲数は12曲、か。

 私は、振り返って、ステンドグラスのてっぺんにある柱時計に目をやる。
 あと15分。3曲だ。

 乱れた髪を振り払うかのように、髪を揺らす。
 雪の結晶をモチーフとしたバレッタも揺れる。
 いつもヴァイオリンケースの片隅にそっと入れておいた、志水くんからのプレゼント。

 志水くん……。
 もし、私が特別な魔法をかけて、あなたのミューズになったのなら。
 私はその方法を思い出して、もう一度志水くんのミューズになれるように魔法をかけ直すだろう。

 ……だけど。

 何の方法も知らない私が、もう一度あなたのミューズになるのは、難しいことなのかも知れない。
 人の努力とかひたむきさ、とかは全然関係なくて。人の気持ちはただただ流れていくのかもしれない。

 だとしたら、志水くんのミューズでなくなった私は、志水くんを1人にしてあげなくてはいけないのだと思う。
 ── できるかな、私に。

 2曲を弾き終えて、私は強張った指をそっと撫でた。── ラスト、1曲。

 想いを載せて、奏でよう。
 志水くんの曲が完成したときに集結したファータたち。私はあの風景を今も忘れることができない。

 だから。
 薄暗い客席。私の背後を包むステンドグラス。
 ── どうか、志水くんの未来が、あんな風に光に満ちあふれていますように。

 私は弓を引く。想いを届けるために。


 ── そのとき。
 細い細い隙間が開いた。光が差し込んでくる。それはだんだん大きくなって、ステンドグラス以上の輝きを増した。
 黒いシルエットが見える。
 首を傾ける仕草。ふわりと柔らかい髪の影から、私は知る。



 ……志水くん。



「ど、どうしてここにいるの? あれ? 私……」
「ぼんやり街を歩いていたら、土浦先輩から連絡をもらいました。急いで教会に行くようにと」
「志水くん……」

 確か、2日前にメールで聞かれた、クリスマスの予定。
 私は、ただ、教会で演奏してる、とだけ書いて返信をした。
 誰と演奏する、ともいつ演奏するとも告げなかった。

「土浦先輩。僕と香穂先輩のことを心配してくれてたんです。以前、ちょっと音楽のことで相談したことがあって」
「ん……」
「もう一度、聴かせてください。香穂さんの、アメージンググレイス」

 志水くんは真面目な面持ちになると、私の正面の椅子に座った。

「う、うん……。じゃあ、聴いててね」

 私は、ヴァイオリンの弦を見つめる。チェロ弦とは太さも長さも違う弦。
 だけどね。
 いつも思っていたよ。奏でる気持ちは志水くんと同じだよ、って。

 ステンドグラスの光の中、志水くんの髪が七色に輝く。
 弦の音が立ち消えていく。
 男の人にしては小さな志水くんの手。その両手が、大きな温かい拍手を生んだ。

「志水くん……」

 志水くんは立ち上がって、私の手を取った。

「どんなにつらくても……。僕が僕自身の音楽を生み出すことができなくなったとしても。
 ── 僕はあなたを好きになって良かった。そう思えるんです」

 光は解け合って志水くんと私を包みこんだ
 この世に天使が本当にいたら、それは志水くんなのかもしれない。

「香穂先輩はいつも僕に何かインスピレーションを与えてくれる。
 こういうときキリスト教の人たちは、神に祈るんです。シーザスクライストって。
 けれど、僕は日本人で、特に宗教も持っていなくて。……だから、僕にとっては香穂先輩がミューズなんです」

 流れ落ちて止まらない涙が、柔らかい唇で吸い取られる。
 私、志水くんの近くにいてもいいのかな? ずっと、って。
 志水くんのミューズになれなくても、それでも。

 ── 私は、永遠を願ってもいいのかな?


 志水くんは、私の手からそっとヴァイオリンと弦を取り上げると、近くのパイプオルガンの上に置いた。
 そして少しだけかしこまって、私の手を握ると、そのまま胸に抱き寄せた。

「一緒に、いきましょう。そばにいてください。僕のそばに。
 先輩も僕も音楽が好きで。音楽のことをもっと知りたい。
 その気持ちが重なったら、きっと新しい音に出会えると思います。
 だから……。今は、音楽を生み出せない僕でもいいですか?」


 最初に見たのは、志水くんが初めて作曲をしたときに、志水くんの身体を包み込んだファータたちだった。
 それが今、私のまわりに、見えてくる。ずっと、消えることなく。


 柔らかな髪を撫でる。

 祈らずにはいられない。ずっと。── ずっと、そう。
 私のことじゃない。私たちのことを、でもない。私が願う、唯一のこと。それは……。


 今、私を優しく抱きしめているあなたに、ずっと音楽の神さまのご加護がありますように。
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