*...*...* Trees 1 *...*...*
「ではまた。大変ご迷惑をおかけしました。書類、お受け取りします」「いや、柚木くん。一度お家の方ともう少し話し合いをしておくべきかもしれないね」
「はい。よく相談しておきます」
大学1年の冬。
俺は久しぶりに星奏学院の職員室のドアを開ける。
星奏の職員室は、南面に面して、教室と同じくらいの大きい窓が はめ込んである。
そこから差し込む光は暖かく、校舎の中にいると季節を忘れてしまいそうな暖かさに包まれている。
俺は、1年前の自分と何ら変わりない優等生然とした笑顔を浮かべると、お世話になった先生に挨拶をした。
手にした封筒を乱暴に扱おうとして、もう一つの手がその動作を止める。
書類。── 星奏学院卒業証明書。大学入試に必要な書類、か。
全く、お祖母さまもご健在、だな。強引なところは以前と全く変わりがない。
一時、ちょっと体調を崩された頃はあったが、元気になるとすぐこれだ。
俺は廊下を歩きながら、昨日のお茶の風景を思い出していた。
『梓馬さん、今、梓馬さんが通っていらっしゃる大学のことですが』
『はい。なにか?』
お祖母さまは、か細い指でティーカップを手にすると、ため息をついて俺を見た。
『全くあなたという人は……。
星奏学院入学の時におっしゃっていた、経済か法律の道を、という進路を私の断りもなく変更なさって。
挙げ句に、将来の見通しも立たない音楽学部に進まれるとは。
── 今からでも遅くはありません。経済の大学を再受験なさってはいかがかと』
『は?』
『梓馬さんの実力なら、今からでも大丈夫でしょうと、星奏学院の先生方もおっしゃっていらっしゃいましたよ』
俺は表情を変えることなく目を伏せると、祖母の襟元を見つめた。
ということはなにか? もう、祖母は勝手に学院に連絡をした、と。そういうことか。
祖母は勢いよく立ち上がると、俺を見下ろす格好で命令する。
『梓馬さんの、入試に必要な書類を再発行していただくように手続きをしておきました。
早速、明日学院に取りに伺いなさい。よろしいですね』
元々、お祖母さまは俺が音楽の道を選ぶのを快しとしていなかった。それは理解していたが……。
まさかこんな思い切ったことをなさるとは、ね。
(ちょうどいい。香穂子の顔を見てから帰るか)
俺は、香穂子に手早くメールすると、携帯をポケットにしまった。
人前で小さな画面を操作する姿は、あまり見ていてきれいな仕草ではない。
それに、今日は確か香穂子のヴァイオリンの個人レッスンのある日だ。
もしかすると、師事している先生の関係で、もう学院を飛び出しているかもしれない。
廊下を歩いていた女の子が、驚いたように立ち止まると周囲を取り囲んでくる。
「柚木サマ。こんにちは! お久しぶりです!」
「やあ、みんな。元気で過ごしてる?」
「はい! それはもう!!」
久しぶりに音楽科の後輩に会釈される。
人垣は人垣を生んで、遠くの方からも強い視線が投げられてるのがわかった。
……久しぶりとはいえ、こういうのは面倒だな。
生徒全員が制服を着込んでいる中、タダでさえ私服の俺は目立つ。
なるべくならあまりウワサにならないうちに退散したいものだが……。
かといって、人目を避けてこそこそと歩き回るのも俺の美意識に反する。
俺は、近くの女の子に笑顔で急いでいる旨を告げると、去年まで通っていた学舎の廊下を歩いた。
手にしている書類を、どう処理するかを考える。
……全く、ね。やっかいなことを言い出されたものだ。
と、そこへ、思考を中断するような元気な声が飛び込んできた。
*...*...*
「って、あれ? 柚木? ホントに柚木なの?」「やや! 柚木先輩じゃないですか! お久しぶりでーす」
肩越しにかかった大きな声に振り返る。
2人とも、印象的な点を3つ挙げよ、といわれたら、必ずエントリーするのが、この声の大きさかもしれない。
俺は笑顔で振り返った。
「火原。そして天羽さん。確かに久しぶりだね。こんにちは。
在校生の天羽さんはともかく、火原はこんなところで何してるの?」
久しぶりに見る火原は、ちょっとだけ大人っぽくなったような気がする。
って、話し方は全然変わらない。作り出す雰囲気も。
── 俺の中で、あっという間に時間が戻っていく。
「じゃーん。おれはね、オケ部の後輩指導に来てるんだ。
今、王崎先輩、海外に行っちゃってるからね。その代わりっていうか」
「ああ、そうなの?」
「王崎先輩から、教師になるなら、なおさら、指導力をつけておいた方がいいよ、なんて助言もらっちゃってさ〜。
今、頑張ってるとこなんだ」
「うん、火原らしくていいんじゃないかな? で、天羽さんは?」
「あ、私ですか? あのですね、オケ部で新年定期演奏会があるんですよー。
今日は曲名の取材を兼ねて、火原先輩にひっついているんです」
天羽さんはそこでいったん話を切ると、俺の顔をまじまじと眺めた。
「どうかしたの?」
「……あーっと。すみません。、思い出してました。去年の冬のみんなのアンサンブル。
あのおかげですよ。こうして星奏のみんなが音楽に関心を持ってくれるようになったのは」
「そうそう! 去年はすっごく楽しかったよねー!」
火原が相槌を打つ。
音楽科と普通科を分離しようという吉羅理事長の意見を打破するために臨んだ最終コンサート。
緊張で目尻がきつく上がった香穂子の顔も浮かんでくる。
『緊張します、私……っ』
あいつのあんな顔を見たのは初めてだった。
いつも気が付けば話題の中心にいて。
こいつに努力という言葉は本当は無縁のモノで。
軽々と障害を飛び越えていくように見えた女の子が、こんなにも緊張しているなんてね。
『今までのお前のままで大丈夫だろ。お前の一番良いところを観衆に見せつけておいで』
『……はい!』
春のコンサート。秋のコンクール。
最初は、どうして周囲の人間は、こんな茶番のような余興に、これほど真剣になれるのだろうと思った。
そこそこ。適当。自分の持ち場を過不足なくこなせればいいと考えている俺がいた。
全ては化かし合い。虚構なんだと。
そう言い聞かせる自分とは真逆の方向に、香穂子はいて。
いつしか俺も香穂子の指し示す方向に進んでいた。
── 音楽を愛していたから。
適当に受け流すモノとしては、音楽は大き過ぎる存在だった。
その渦に飲まれるようにして、今、音楽の道を進み始めた俺がいる。
共に奏でた仲間と会うのが、やけにしっくりと馴染むのは、彼らが自分の中の葛藤を音にする過程を知っていてくれるからかもしれない。
「んー。後輩たちを指導してて思うよ。去年おれたちがやったコンサートは最高だった、ってさ」
「ふふ、そうなの? 火原」
力んでそう告げる火原の顔が面白くて、俺は小さく微笑んだ。
火原は、真剣な面持ちで頷いている。
「えーっと、今のオケ部の子が悪い、とか言ってるわけじゃないよ。どこの子も演奏センスはすごくいいし。
だけどね、自分でやるのと、見てるのでは、気分の盛り上がり方が違う、っていうか……」
「火原。ちゃんとわかってるよ」
火原は今オケ部で演奏しているフレーズを口ずさむと、何かを思い出したのか俺を見上げてくる。
「あーっと、それに、それにね。
香穂ちゃんと、月森くん、土浦くんの2年生コンビは最高だったなー。
ほら、3人ともカラーが違うのに、ミックスするときれいな色になる、っていうか、ね?ねえ、柚木もそう思うでしょ?」
「ああ、そうだね」
俺は香穂子の音色を思い浮かべる。
── それは多分。
香穂子のヴァイオリンは、全く相容れない月森と土浦の音色の間、2人の音の良いところを引き出すような音を作っていたからだろう。
香穂子の音色はいつも優しい。
尖ったところがない、浜辺の砂のようだと思うことがある。
手にする。頑なに指をすぼめる。漏らさないようにする。
けれど、そんな努力もむなしく、砂は指の間をこぼれ落ちる。── そんな音だ。
香穂子の音をこれからもずっと聴いていたい。
香穂子と、そして音楽と一緒に。
そう思って大学の進路を決めた。
俺はさっきの職員室でのやりとりを思い出す。
手にしている無機質な封筒は、さっきまでの会話が事実だと知らしめてくる。
── 面倒だが、こういうのは早いほうがいい。さっさとケリをつけないとな。
俺の意志は変わらないことを、もう一度伝えて。
そして、一番やっかいな通過点、お祖母さまにも納得してもらう、ということを行わなくては。
天羽さんはふと、不思議そうに俺の顔を見つめた。
「えーっと、そう言えば、柚木先輩は星奏になにか用事があったんですか?
香穂だったら、今日はヴァイオリンの個人レッスンの日だー、とか言ってあわてて帰っちゃいましたよ」
「ああ。お気遣いありがとう。今日は職員室にちょっと用があってね。でももう終わったから」
「あ、そうだったの?」
火原は屈託なくうなずくと、オケ部の後輩を見つけたのか、俺に目配せをして走っていく。
天羽さんは、以前よりもどこか親しそうな態度で俺の近くに寄ってくる。
きっと香穂子から聞く俺という存在が、天羽さんにとって悪くない印象なんだろう。
香穂子には、そういうところがある。
── 誰もが、ほんの一片は持っているであろう、善良なところを、知らないうちに引き出してしまう、力。
「香穂、頑張ってますよ〜。って、あの子、音楽科に転科しちゃったから、今は、なかなか会えないけど。
昨日も購買で見かけたかな? 水分補給〜、とか言って、飲み物、買い込んでたんですよ」
「ふふ? そうなの? ……あの子のことだから、飲み物以外に、お菓子も買い込んでいたんじゃないのかな?」
「わ、やっぱりバレてるよ、香穂……」
天羽さんはお菓子のことは香穂子に口止めされていたのか、照れくさそうに笑っている。
「え? なになに、なんの話!?」
再び俺たちの近くにやってきた火原も笑う。
音楽が縁で知り合った人間。
これからも自分の前に、1本の道が出来ている。香穂子が隣りにいる。
── そう思えることは幸せだった。