*...*...* Trees 2 *...*...*
 普通科で2年、音楽科に転科して8ヶ月。
 同じ学年の子なら、全員の顔と名前が一致する、っていうのは私の密かな自慢だったりする。
 この前、ちょっと鼻をうごめかして、土浦くんにそう自慢したら、

『って、俺とお前、同じ条件だと思うけど』

 って思い切り笑われた。そんな冬の日。
 お昼ほどレパートリーはないけれど、最近は簡単な飲み物とデザートを出す、ということが人気を呼んで、放課後のカフェテリアはいつも誰かが行き交って話をしている。

 ヴァイオリンの練習って見かけ以上に、結構お腹が空く。

『見てくれに気を遣わない人間は、聴かせる音も質が落ちるぜ』

 食欲旺盛な私を、柚木先輩はそう言って笑うけど、お昼を食べてから夕方7時くらいまで練習するとやっぱりお腹、空くもんね。
 それに、楽器を奏でるってかなりの体力を使うのか、ここのところ、少し食べ過ぎたからといって、太ることはなくなっていた。

「あ、香穂! 元気でやってる?」
「うん。須弥ちゃんも?」

 普通科の時、ずっと仲が良かった須弥ちゃんと乃亜ちゃんが、親しげに私の肩を叩く。
 音楽科で、仲良くしてくれる友達は見つけたものの、私にとって普通科の時に仲良くしてた須弥ちゃんと乃亜ちゃんは特別な存在で。
 カフェテリアや特別校舎なんかで会えるとすごく嬉しかったりする。
 人なつっこい乃亜ちゃんは早速私の腕に手を掛けてきた。

「日野っち。ねね、知ってた? 昨日、柚木先輩が学院に来たの」
「あ……。うん、メール、もらったの」
「あ、そっか〜。じゃあ、香穂はとっくに知ってるのか。そうだよね、付き合ってるんだもんね」
「え? なんのこと?」

 隣りにいる須弥ちゃんは、腰に手をあてて呆れた顔をしている。
 乃亜のミーハーぶりにはついていけないよ、って顔に書いてある。ふふ、なんだろ?

 乃亜ちゃんは、声のトーンを少し落として、私たち3人だけに聞こえるような声で言った。

「なんと! 柚木先輩、今年、再受験するらしいよ? 経済学部か法学部、受け直すんだって!」
「え?」

 なんのことだろ……。私、そんなこと、一度も聞いたことない。

 この前会ったときも。
 ちょうど有名な楽団のコンサートチケットが手に入った、ということで、演奏会のあとだったけど。
 今までと全然変わらない様子だった。弦の動きと、管の関係について、とか、話してたっけ。

 もうすぐ私が受験だってことをいつも柚木先輩は気遣ってくれる。
 いつも何気ない会話の中に、音楽史のエピソードや、楽典の知識を織り込んで話してくれて。
 笑って言ってた。

『── お前が俺の大学の後輩になること、楽しみにしてるぜ』

 えっと、なのに、その先輩が、……再受験? 経済? 法学?
 どうして……。

「日野っちは音楽科に転科しちゃったから なんだけど、普通科で盛り上がってる人たちも多いよ〜。
 これで柚木先輩と同じ大学に行けるかも、って。しかも同級生になれるって!」
「ま、柚木先輩って、すごい家の御曹司なんだよね? だったら、音楽より、経済とかも役に立ちそうってこと?」
「って、乃亜。あんた谷くん待たせてるんじゃなかったっけ? 急がないと間に合わないよ〜」
「うわー、そうだった! じゃあまたね、日野っち」
「あ! う、うん……。ありがとう。じゃあね」

 2つの背中は楽しそうに小走りでカフェテリアを後にする。
 乃亜ちゃんのふっくらとした指には、お菓子がいっぱい詰まった紙袋が引っかかってる。
 多分、また谷くんと勉強しながらつまむんだろうな。

 って……。

 いつもだったら笑い顔になるはずの頬は、さっきの言葉が引っかかって、ひっそりと下がっていく。
 私は自分の教室に向かいながら、さっき2人が言ってたことをもう一度思い返した。

 受験? 柚木先輩が?
 春のコンクールと秋のコンサートを経て、1年。
 一緒に音楽を目指そう、って言ってくれてたのに。
 本当は、違うのかな? お祖母さまの言うことが絶対で、やっぱり、音楽の道は諦めちゃう、ってこと……?

 私の足は知らないうちに私を校門まで連れて行く。
 柚木先輩が卒業するのと同時期に、私は月森くんから紹介してもらったヴァイオリンの先生に個人指導を受けている。
 今日のレッスン時間は4時から。

 先生の家は電車を乗り継いで行かなくちゃいけないから、今から急いで駅に行かないと間に合わないかも。
 身体はいつもの手順で動きながらも、私の頭はぼんやりと乃亜ちゃんの言ってたことを繰り返す。

『柚木先輩、今年、再受験するらしいよ?』

 そうなの? 本当、なの?

 音楽科に転科して8ヶ月。
 元々の知識が全然違うクラスメイトと紛れて勉強している中。
 いつもわかりにくい優しさで応援してくれたのは柚木先輩だった。

『お前が、俺のピアノの楽譜を使うのなら……。巡り合わせとしては悪くない、か』

 そう言いながら、週に1度は時間を作って、星奏の練習室でピアノを見てくれてた。
 ちょうど音楽科に転科した春から練習を始めたから、か、
 なんとか受験の時期までに、附属大学の受験レベルまではもっていくことができそうだった。
 最近は余裕が出てきたのか、時折柚木先輩は、私のヴァイオリンを弄ったりする。

『ヴァイオリンは門外漢だけど……。って、お前に指図できないのもつまらないからな』
『はい?』
『お前を見ていて、大体指の使い方は覚えたから。なんとかなると思うぜ?』

 去年の春、柚木先輩は2つの大学に合格した。
 1つは、柚木先輩のお祖母さまが希望していた、経済の大学。
 そしてもう1つは、柚木先輩が希望していた、音楽の大学。

『お前はどっちがいいと思う?』
『そ、それは……』

『── なんてね。俺が素直にお前の言うことを聞くと思った?』

 口では意地悪なことを言いながらも、柚木先輩が手に取ったのは私がずっと望んでいた、音楽大学の合格通知だった。
 ── どれほど、嬉しかった、かな……。

 今でも、あの時の図書館の風景は、私にとっては特別な場所になって、胸の中にある、のに。

 どうして、だろう? 今年また大学を受け直す、ってことはお家の事情もあるのかな。
 もしそうだったら、そうで。── どうして柚木先輩は私にそのことを話してくれないのかな……?

 頑張って歩いていた脚は、いつか路上の隅っこで止まって。私はヴァイオリンを手にぼんやりと考え込んでいた。
*...*...*
「って、香穂! なにこんなとこで突っ立ってるんだ?」
「あ、土浦くん」

 ポン、と、勢いよく肩を叩かれて顔を上げると、そこには音楽科の制服がしっくり馴染んだ土浦くんが立っていた。

「俺は南楽器のオヤジさんにちょっと用があってな。
 うかうかしてると今日は雨が降るぜ? 今朝、ピアノの音、変だったから。
 って、お前、今日、ヴァイオリンの個人レッスンの日だったか?」
「うん……」
「どうしたんだ? お前」

 煮え切らない私の返事に、土浦くんは不思議そうに背中を屈めた。
 胸元にきっちり収まったタイ。この色を見ると、いつも月森くんを思い出す。
 けれど2人の醸し出す雰囲気は全然違ってて。
 同じ制服を着ているのに、全く違う制服を着ているようにも見えてくるから面白い。

「どうした? 顔色が悪いぞ?」
「え? そう?」
「お前、入試も近いってんで、ピアノ、根詰めすぎてるんじゃないか? あまり無理するなよ」
「ん……」

 私は土浦くんの顔の中に答えがあるかのように、ぼんやりと見つめ続けた。
 思えば、音楽がきっかけで、私は土浦くんに出会って。
 コンクールとコンサートを経て、2人で音楽科に転科して。
 そして今はクラスメイトとして、音楽付けの毎日を送っている。

 ── もし、音楽がなかったら。

 私は同級生として、顔も名前も一致しないまま、そのまま卒業していっただろう。
 そしてこれは私と柚木先輩との間も同じことが言えるんじゃないかな。
 リリと音楽が私と柚木先輩を取り持ってくれて、今、私はこうしてここに立ってる。
 けど、また、柚木先輩が音楽から離れていくのなら……?
 柚木先輩と私の間も、あっという間に脆く壊れちゃうのかな……。

「おい、香穂?」
「ねえ、土浦くん……。もし私と土浦くんの間に音楽がなかったら、私たちって、今はどうなってたかな?」
「って、こりゃまた唐突な質問だなー」
「うん。ごめんね。なんとなく聞いてみたくなっちゃった」

 私は土浦くんを心配させたくなくて、笑顔を作った。
 けど、無理に作った顔は、更に土浦くんの眉毛を顰めさせただけだった。
 う……。こ、こういうこと、さらりとできたら大人に近づいた、って言えるんじゃないかな……。

「ってかさ。お前も煮詰まってるんだろ? いいぜ。歩きながら話を聞いてやるよ」

 土浦くんはそれ以上何も問いただすことなく、私の隣りをゆっくりとしたペースで歩き出すと、ぽつりぽつりと話を始めた。

「つーか。考えられないよな。お前と会って、ピアノがこれ以上なく愛しくなって。また、始めただろ。人前で弾き続けることを」
「うん……」
「俺は、今は、これで良かった、って思ってる。
 先は長いし、いろいろあるかと思うが、悩んでるヒマがあったら突き進め、ってさ、あいつが言うんだよ」
「え? あいつ?」

 第一印象はちょっとコワめな人だけど、気さくなさっぱりとした性格は、音楽科女子の中でも人気が高い。
 音楽科のみんなと土浦くんの間には、私と柚木先輩の関係みたいに、音楽の架け橋にできるわけ、で。

 あれ?
 もしかして、私が気づいてないだけで、土浦くん、彼女さんとか、いるのかな……?

「ん? どうした?」
「ん……。ごめんね。土浦くんが『あいつ』っていうから、勝手にドキドキしてた」

 正直に話すと、今度は土浦くんの頬が赤くなったのがわかった。

「って、おい。誤解すんなよ?」
「はい?」
「『あいつ』っていうのは、10年前の俺のことだよ。くだらないプライドのおかげで、俺は10年遠回りしたんだからな」

 10年。
 お互い18歳の私たちにとって、10年という時間の長さはすごく大切な意味を持つ。

『音楽をやるならハタチまでだ、ってこと。若さってのが武器になる世界なんだよ』

 音楽科へ転科した私たち2人を気遣って、ことあることに金澤先生はそう言って笑う。

 土浦くんは、もう取り戻せない時間の中を泳いでいるかのように、真剣に音楽に向かっている。
 そっか……。彼女さんとか、作る機会、ないかも……。
 土浦くんは私の笑顔に、やれやれといった表情を浮かべて笑った。

「ったく。そういうことだけは機転が利くんだからな、お前って」
「もう。『だけ』ってなあに?」

 つられて私も笑う。
 笑いながら考え続けた。

(── ちゃんと、話してくれる、はず)

 意地悪で、毒舌家で。助言はむしろ情け容赦がなくて。
 キツいことばかり言う人だけど、私は、柚木先輩について、一つだけ信じてることがある。
 それは『信頼』って言葉に置き換えることもできると思う。

 なにか、あったら。

 ── 彼は、ちゃんと話してくれるはず。私を置いてけぼりにはしない人だもん。
 だから、進路のこと、柚木先輩が何か言い出すまで、私はあの人のこと、信じて、待っていよう。
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