*...*...* Trees 3 *...*...*
「じゃ、今日は6時頃に正門で待っていて」
「はい。かしこまりました。梓馬さま」

 俺は運転手の田中にそう言いつけると、コートを手に星奏学院の正門をくぐった。
 今日は香穂子のピアノレッスンの日だった。
 去年の冬のコンサートがすんで、真剣に音楽の道に進みたいという香穂子に、俺は自分の楽譜を手渡した。

『わ、本当にいいんですか? 柚木先輩にとって大切なものだったんでしょう?』
『いいから』

 愛着のある、捨てようと思って捨て切れなかった楽譜が、香穂子の指でもう一度開かれる。
 幼い筆致で書かれた注意書きと、色褪せた譜面に、少しだけ好きなことを手放した時の痛みがよみがえった。
 ── だけど。

『柚木先輩。ありがとうございます。── 私、大切にします』

 そういって笑う香穂子の顔を見て。
 拙いまでの音が、この1年で、見違えるくらい美しくなるのを聞いて。

 こういう巡り合わせも悪くないと思った。
 なにより、真剣にピアノに向かう香穂子が愛しく思えた。
 香穂子が愛らしくピアノを弾く様は、少しずつ俺の傷を癒してくれるようにも感じる。

 俺は練習室に入ると手にしていたコートを置いた。

 俺が受験の時よりも、今年は冬が早いのかもしれない。
 脳天気なあいつのことだから、体調とかそういうのにそれほど気を遣っている様子もないが……。
 声楽を受験するわけではないが、体調を万全に整えることは演奏家の義務だ。
 少し、そのあたりも牽制しておいた方がいいかもしれない。

「さて、と……」

 星奏の附属大は、毎年の出題傾向が似ているため、10曲程度のピアノ曲を押さえておけば、ほぼ受験には問題ない。
 とはいえ、香穂子のピアノのレベルは、それほど優れているわけではない。
 けれど、3年に入ってからの練習の成果が徐々に現れているのだろう。
 最近では、こちらが唸りたくなるような音を響かせてくることも多くなった。

「まだ、早いか」

 道路の混み具合で遅れることも見越して少し早めに大学を出てきたが、まだ練習室の予約時間まで15分ある。
 かといって、カフェテリアや購買に脚を運ぶと、やっかいな連中に取り囲まれるのもわかってるからな……。

 俺は大学で来週提出予定のレポートの文献を探しに図書館へ向かった。
 一般教養の分野で取っている授業の一つに経済学の講義があった。
 音楽の道へ進まなければ、確実に歩んでいたであろう分野であることと、
 18世紀初頭のイギリスの進出と、柚木家の流れが、思いもかけず同じ符丁を踏んでいることが俺の興味にも繋がって、
 俺は経済の本が並んでいる書架へと進んだ。

 高校時代もここは穴場で、空いている席が多かったからな。時間を潰すにはちょうど良いだろう。

「……おや?」

 ふと2人の生徒の影が目に入る。
 1人は、決して見間違えることのない女の子と、そして、……隣りにいるのは誰だ?
 ふわりとした、色素の薄い髪に見覚えがある。
 ── 志水、か。

「香穂先輩、分かりましたか?」
「んー。もう少し待ってて、志水くん。あ、えーっと、ここだ。
『教会と音楽は切っても切り離せない歴史があります』、っと……」
「そうですね。宗教音楽は、賛美歌から始まり、最近はゴスペルがその流れを継いでいます。
 黒人が歌うブラックゴスペルの響きがホワイトゴスペルと違うのは、歴史背景がそうさせるのだと言う人もいます」
「へえ……。そうなんだ」
「もっと、歴史全体の背景を知らないことには、確かなことは言えないと思います」
「そうだよね……」
「あっちの書架にも、きっと香穂先輩に役立ちそうな文献がありますよ。一緒に行きましょうか」

 2つの白い制服が肩を寄せ合っている。

 横顔だけ見える香穂子は、真剣な面持ちで志水の話を聞いている。
 志水の赤らんだ頬は、その分野への興味にも、そして、香穂子への興味にも取れるほど熱を持っている。

 ……俺が香穂子と出会ったのは高3の始まりの頃だった。
 春のコンクール、冬のコンサートを経て。離れがたくなって。ずっとそばにおいておきたいと思った。
 けれど、時間は必然的に俺と香穂子の間を過ぎていって、俺は大学、香穂子は高校、と、俺たちの入れ物は別々のモノになった。

 俺と香穂子とにもう少し時間があったなら。
 そして、高1のときに1つ年上の香穂子と出会えていたのなら。
 今の、香穂子の隣り、志水の代わりに俺がその場所にいて。

 ── 俺も、もう少し早く、香穂子に甘えるということを覚えていたのかもしれない。

「……でも、どうして突然、この分野が気になったんですか?」

 志水が不思議そうに聞いている。
 俺は香穂子の返事を聞く前に、そっとその場を離れた。
*...*...*
 俺は予定より5分早めに練習室に向かった。
 高校生レベルの書物だったが、欲しかった情報が得られたのは悪くなかった。
 レポートというのは自分の知識をひけらかすモノではなく、ある程度平易な表現でわかりやすく伝えた方が高得点に繋がる。
 そういった点で、高校生レベルの専門書も、なかなか興味深いものがある。

 廊下と練習室を隔てる磨りガラスに大きな影が映った、と思ったら、軽いノックの音のあと、香穂子が飛び込んできた。
 手には、さっき図書館で見ていたのとは違う本と、楽譜、ヴァイオリンを持っている。

「こんにちは。柚木先輩。今日もよろしくお願いします」
「ああ。さっそく始めるか」
「はい」

 俺はさりげない風を装って尋ねた。

「ああ。さっき、図書館でお前を見たよ。志水くんと一緒だったね」
「あ、はい! そうなんです。わかりましたよー。いっぱい!」

 志水と2人でいるところを俺に見られたことで、少しはバツが悪そうな顔でもするかと思ったら、香穂子は得意満面な表情で振り返る。

「あ、あのね……。以前、柚木先輩と、教会の音楽についてお話していたのが気になって……。
 教会関連の本を探していたら、志水くんにばったり会ったんです」
「へぇ、そう?」

 香穂子は恥ずかしそうに、少し赤くなった額を撫でている。

「棚の上ばっかり見上げて歩いてたら、志水くんにぶつかっちゃいました。えへへ」

 ああ。確か先週話したことがあったな。
 教会の賛美歌。ゴスペルの響きは、時代を超えて人種を越えて、人を癒す効果があると知られている、と。
 それらの音楽を聴いたとき、人種を越えて、人の脳波には、ある共通な波線が浮かぶという。

『音楽的に興味深いね。これを機に『音楽心理』という研究分野も出来たらしいよ』
『そうなんですか……。すごく面白いお話ですね』

 香穂子はそう言うと、ふと思い出したように、『アヴェマリア』のさわりをピアノで奏でて、満足そうに微笑んでいた。
 ── あの、話か。
 香穂子はカバンからピアノ譜を取り出すと、スカートをプリーツを整えて椅子に座った。

「何の本を探しているの? って話になったので伝えたら、志水くんも興味があるって言ってくれて。
 だから一緒に探してもらって、それらしい本を2人で読んでいたんです。
 ……ちょっとだけですけど、分かったこともあるんですよ!」

 香穂子の目は今も書物の中の文字を追っているかのように輝いている。

「続きも、頑張って調べてみようかと思います。柚木先輩、どうもありがとうございました」
「……これじゃ意地悪もできやしない。まったく……」
「はい?」
「いや、こっちの話。じゃあ始めようか」
「はい……。じゃ、始めますね」

 10本の白い指が、白い鍵盤に並ぶ。

 俺は思いついた題名を言う。
 出題傾向にある10曲のうち、任意に選んだ3曲を弾く。
 香穂子は全て暗譜している。香穂子のピアノは、あとはどう表現力をつけていくだけか、の状態にきているからだ。
 大学にも香穂子のヴァイオリンに関心を寄せている教授もはる、という話だったし。

 ここまでこれば、あとは内部進学ということもあって、余程のことがない限り、受験は通るだろう。

(……ん?)

 香穂子のピアノの持ち味はヴァイオリン同様、清麗系の爽やかな曲調だ。
 だけど、明るい華やかな曲もそこそこに弾きこなしていた。

 今日の俺の選曲が、たまたま行進曲系統の華やかなものだとはいえ、香穂子の作る音はあまりにも覇気が無く、頼りない。
 寂しげな、悲しみがこもっているような音が広がっていく。

「止めて、香穂子」
「はい?」
「今日はどうしたの。そんな情けない音を出して」

 ピアノを奏でるための技術が成熟していても、それを司る人間の演じ方次第では却って評価はマイナスになる。
 さっきまでの香穂子の態度に、悲しげな様子は見受けられなかったが。
 ── 一体どうしたっていうんだ?

 香穂子は、ピアノの手を止めると、ほ、っと深いため息をついた。

「音は正直だね。お前がどんなに元気なふりをしても、なにを考えているのかすぐに伝えてきてしまう。なにがあったの」
「いいえ、……なんでもないです」

 2つの手は頑なにスカートの上で握られている。
 俯いている顔からは表情は読み取れない。

 濃いまつげが作る、頬の上の陰影がまた少し大人ぽさを身に着けている気がする。

 ……まったく。

 音だけじゃなく、態度までが、頼りない。
 これでは、さっきの志水だけじゃなく、他のどんな男だって、つけいる隙がありそうだ。
 ── 俺が香穂子にしている、どんなことでも、簡単にやり遂げられてしまいそうな気がする。

 俺は、香穂子の手を取った。
 楽器のために短く切りそろえられた爪は、俺が大学で見かける華やかな指とは違う清潔感がある。

「いいから言ってごらん?」

 香穂子は俺の追及から逃げられないと思ったのか、小さくため息をつくと俺の目を見た。

「はい……。あの、柚木先輩は、なにか、私に内緒にしてること、ありますか?」
「……付き合っているから、って、お前が俺の全てを把握できるわけではないし、逆もまた然り、だろう? どうしたの? 突然」
「……もうすぐ、言ってくれる、きっと言ってくれる、って思っているんですけど……」
「だから、なに?」

 香穂子の煮え切らない態度を不思議に思いながらも、俺は先を促した。
 グランドピアノの上、セピア色の楽譜が俺たちを見ている。
 香穂子の顔の横にその楽譜を並べたなら、途端に色褪せて見えるんじゃないかと思うほど、香穂子の頬は白かった。

「ごめんなさい。須弥ちゃんから聞いたんです」
「……いいよ、続けて」
「……あのね、柚木先輩が経済の大学を、再受験する、って……」


 俺は目を見開いた。
←Back
→Next