*...*...* Embrace 1 *...*...*
「よぉ。えっとう! お疲れー」
「おう! お前も気をつけて帰れよ」
「今日は木曜日か。あと1日行けば休みが待ってるってか」
「まあ、そうだな」

 最近よく口を利くようになったクラスメイトの西川が、愛嬌のある丸顔をこっちに向けて笑いかけてきた。

 どんよりと湿り気を増した放課後。
 だけど日差しは夏よりも強いんじゃないかっていうほど、俺たちの肌に差し込んでくる。
 風にはいろいろな匂いがあるって知ったのは、いつの頃だっただろう。
 今日の風は、俺を瞬時にアメリカに住んでいた頃の俺を連れてくる。
 もうすぐ日本に来て、1年が過ぎようとしている。
 あの頃の俺は、今の俺をどんな風に思っているのか。

「ったく。今日はこれから個人レッスンのある日なんだ。電車で2時間だぜ?
 行って帰ってきたら、今日も終わっちまうよ」
「お前が師事したセンセなんだろ? しょうがないじゃん」
「まあ、そうだよな。……いいよな。衛藤は」
「は? いいって、なにが?」

 西川は、手にしたヴァイオリンケースを持ち上げ、軽く指で はじいた。

「お前ってさ、ヴァイオリンに関して悩んだことなんか、なかっただろ?
 上手く弾けるようになりたいとか、技術をもっと磨きたい、とかさ」
「西川……」
「いや。なんでも。自分の決めた道だし、俺も頑張ってくるかな。じゃあお先!」

 風を孕んだクラスメイトの背中は、ヨットの帆みたいに丸く大きく膨らんで、やがて小さくなる。
 ── 俺が星奏に入って3ヶ月。

『どう? 星奏、楽しい?』

 香穂子は、おりに触れ俺にそんなことを聞いてくる。

 別に先輩風を吹かしているわけじゃない。ただ、純粋に心配なんだろう。
 ……ま、不安げに見上げてくる顔を見ていると、どっちが先輩なんだか、って気もしてくるけど。

 今までの俺は、周囲の人間をそれほど意識したこともないし、自分の意志のまま、思ったとおりの道を歩んできた。
 それが、ともすれば自己中心的に映ることもあるのだろう。
 俺の中にあるちょっとした出っ張りの部分を、香穂子はすごく心配してくれている。
 って、いつまでも俺をそんな風に子ども扱いするのは、あいつくらいなもんか。

 俺は、横目で正門前のファータ像を横目に見つめながら、練習室へと向かった。
 昨日香穂子とファータの話になって、どうしても銅像を見ておきたかったんだよな。

 ファータに、フェッロだろ? それに、ラーメ。
 なんかの弾みで行われる春の学内コンクールでは、コンクール出場の資格を得た人間はファータが見えるようになる、って
 香穂子は言ってたっけ。
 アルジェントの名前は、確かリリ。
 毎日のように通り過ぎている場所であっても、じっくりとファータ像を見るのは初めてだ。
 まぶしいほどの日差しの中、俺は目を細めて銅像を見つめた。
 よく考えれば、こんな目には見えないモノを崇めているこの学院はちょっと変わったところなのかもしれない。
 とはいえ、キリストだって、目には見えない、か。
 信仰って、案外そういうモノなのかもしれないな。

 じっくりと観察した銅像は、人間の形にトンボの羽が生えているようなものだった。
 まあ、ファータって言うからには妖精、ってことだし。それなりに可愛げがなくちゃいけないのかもな。
 ── だけど、こいつ、男なのか? それとも女? どっちなんだ?

 ファータだかアルジェントだかの存在は、従兄弟の暁彦さんも見えるらしい。
 時々、空に向かってなんかぼそぼそと反論していることがあったっけ。
 以前たまたまその様子を見かけた俺に、暁彦さん、珍しく顔を赤らめて、ろくにクチも聞かずに早足で通り過ぎていったのを覚えてる。
 もし、またなんかの折りに学内コンクールが開かれるとしたら、実力からしたら、俺は選ばれそうなものなのに。

 なのに、どうして俺にはファータが見えないんだろう。
*...*...*

「桐也。頑張っているようだな」
「ああ。暁彦さん」
「どうだね? 調子は」
「そうだな……。まあまあ、って言ったところかな」

 まだ練習を始めてそれほど時間が経っていない、っていうのに、練習室のドアをノックする人間がいる。
 誰かと思ってドアを開けると、そこには、相変わらず暑苦しそうなスーツを着た暁彦さんが立っていた。
 学校全体に衣替えという意識があるんだから。
 大人だって、教員なら、それを真似てもっと略装にすりゃいいのに、と思わないでもなかったけど、ここは敢えて黙ってみる。
 そもそも、俺が衣替えだとか梅雨だとかをしっかり認識したのは香穂子からの受け売りでもあったし、
 過去の俺を詳しく知っている暁彦さんなら、そのあたりのことを敏感に察知しそうな気もする。
 『ほほう。桐也は誰から影響を受けたんだろう』
 なんてね。

「お前も一人暮らしを始めてから2ヶ月か。そろそろ慣れた頃だとは思うが、お前の母さんも心配していることだろう。
 たまには私の実家にも寄るといい。私の母も喜ぶだろうから」
「いや、1人って結構快適だしね。No Problem だよ」
「……そうか」

 にしても、このまとわりついたら最後、決して離れようとしない湿気はなんだろう。
 練習室は空調が完備されていて、温度湿度とも完璧だ。
 なのに、廊下から入り込んできた湿気は、一瞬にして俺の指にしがみつく。
 俺は肩にヴァイオリンを挟んだまま、スラックスで手のひらをこすった。
 こういう時の調弦は難しい。あとであいつのヴァイオリンも見てやらないといけないかもな。

「ときに」
「は? なに? 暁彦さん」

 暁彦さんの目が強い光を帯びた、と思ったら、薄い唇から飛び出したのは意外にも香穂子の名だった。

「お前は日野君と仲良くしているようだが」
「ああ。まあね。それがどうかしたの?」

 なんとなく、長い話になりそうな気がして、俺はあごからヴァイオリンを外すとピアノの椅子に置いた。
 なんだっていきなりここで香穂子の話が出てくるんだろう。

「日野君は、あれでもなかなか見所のある生徒でね。私も常々気になってはいたんだ」
「へぇ。珍しいな。暁彦さんが、普通科の一生徒、それも大して上手くないヤツのことまで覚えているなんて」

 これから先はまだわからないけど。
 香穂子の今のヴァイオリンの実力は、さんざん贅沢な音を聴き慣れている暁彦さんを満足させられるレベルには達していない。
 だけど、俺は密かに確信していたりする。
 近い将来、香穂子はきっと上手くなる。この俺があいつの音を聞き逃さなかったように。
 他の人間も、何度でも聴きたい。そう懇願するソリストになるってね。

「いや、それは……」

 何気なく告げた言葉にもかかわらず、暁彦さんがぐっと言葉に詰まって、その先が言えないらしい。

「暁彦さん?」
「いや。有能な学生をパトロネージし、世間に送り出す。それこそが、この学院のプロパガンダであり、私のレゾンテートルでもある」
「レゾンテートル? なんだそれ」

 英語と日本語を強引につなぎ合わせたような暁彦さんの言葉に、俺はオウムのような声を挙げた。
 なんだ? この焦ったような、こわばった声。
 って、俺、なにか暁彦さんの気に障ることを言ったのかな。

「……すまない。練習中邪魔をしたようだな。失敬する」

 暁彦さんはクチをへの字に曲げたまま、大きな背中を向けた。
*...*...*
「よお。香穂子。頑張ってるみたいだな」
「うん。ありがとう〜。見て見て? 今日はたくさん進んだんだよ」

 6時を少し回った頃、俺は香穂子の音を見つけて、1番端の練習室に滑り込んだ。
 ちょうど練習もキリがついていたのだろう。
 香穂子は、譜面台に置かれていた赤鉛筆を片付けているところだった。
 高校生に鉛筆、ってヘンな取り合わせだな、と思わないことでもなかったが、
 香穂子は譜面に書き込むときは、昔っからあるような片方が青、片方が赤のデザインの鉛筆を使う。
 まっさらだった譜面が、俺の助言の書き込みでぺったりと朱くなる頃、香穂子は次の譜面へと向かう。
 大切そうに譜面を扱う様子を見ていると、なんていうか、俺の方まで嬉しくなる。

「衛藤くんの音も聞こえたよ〜。今度、パガニーニ、弾くの? あんなヴィブラート、私、まだ出せないよ」

 香穂子は楽しそうに俺の顔を見上げながら笑う。
 俺の技術を、認めるとき。そして、褒めるとき。
 なんていうんだろうな。香穂子は、人をうらやむ、ということをしてこなかった女なのかな、なんてことを考える。

 もし俺だったら、って思う。
 もし俺が同世代のヴァイオリン弾きの中で、負けている、って思う技術が1つでもあったなら、
 俺は、そいつの技術を盗み取るまで、そいつの指先を食い入るように見つめているに違いない。
 そう。5歳でヴァイオリンを習い始めて、13歳のころにはすべての技巧を覚えてしまったパガニーニのように。

 今の俺の技術には何一つ欠けているモノはない。
 だけど、どうしてかな。
 香穂子と出会ってからというもの、その事実は、とても自分を勇気づけ、とても自分を可哀想にさせる時がある。

「あんたの音が聴きたいな」
「はい?」
「なーんか、今日はそんな気分。なあ、いいだろ?」

 香穂子は不思議そうに俺の顔を見つめたあと、日差しの弱まりかけた窓を見、再び俺を見つめて言った。

「うん。いいよ? 今日は夏至だしね」
「夏至?」
「そう。あ、そっか、夏至って、難しい言葉だったかな? 日本でね、1年のウチで1番お昼が長くなる日のことをそういうの。
 『夏至』っていう字はね、『夏に至る』って書くんだよ? 面白いよね」

 もっとも知識がつく10代の前半を海外で過ごしていた俺は、日本においては当たり前である言葉や習慣を知らない。
 そのたびに香穂子は気負う風でもなく、わかりやすく説明してくれる。
 音は人なり、って真理なのかも、って案外思う。
 こいつの作る音同様に、性格も、素直で良いヤツなんだろう、って思えてくる。
 入学して3ヶ月経った今、ますますその気持ちが強くなる。

「じゃあ、行きます」

 香穂子は閉じられた譜面をもう一度丁寧に広げると、大切なモノを扱うかのような手つきでそっと弓を引き始めた。

 俺は音楽科だし。ヴァイオリンを弾くのは娯楽のためじゃない。勉強のウチの1つだ。
 だけど、香穂子は、『楽しいから』それだけの理由で、音楽を続けている。
 もしかしたら、『好き』っていう理由は、どんな岩でも打ち砕いてしまうパワーがあるんじゃないか、って思うようになったのは、
 ここ最近の話。
 こいつの実力を知った今になっても、俺の脳内には、『技術は感情よりも勝る』なんて言葉がチラチラする。

「ブラボー。まあまあ、ってとこなんじゃないの?」

 くるみ割り人形の一節、『こんぺい糖の精の踊り』を、香穂子は軽やかな指で奏でると、そっと肩からヴァイオリンを外した。

「ありがとう……。まだ、ちょっと練習が足りないかな」
「そうか?」
「楽譜を追うのに精一杯って感じなの。もう少し、気持ちを乗せられたらいいな……。わっ!」
「って、もしかして、例の客?」
「う、うん。そう。ごめんね、ちょっと待ってて? もう、ポリムちゃん! びっくりしたよーー」

 俺からしてみたら全く目には見えない存在のモノに香穂子は話しかけている。
 とはいえ、香穂子は自分と仲のいいファータは、すべてイラスト付きで、強引に俺にレクチャーしてるから、なんとなくわからないでもない。
 アルジェントリリ、っていうのが、あの正門前の妖精だ。
 それで、その子分に100人のファータがいる。
 ファータには、楽譜の世話を専門にしているフェッロと、表現力の世話をするラーメに分かれている。
 ポリムっていうのは確か、……そうだ。香水の香りをやたらとまき散らす、ファッカーみたいな女だ。

「そうなんだ……。ポリムちゃんはくるみ割り人形が好きなの? ……ん? バレエで見たから?
 あ、ありがとう……。じゃあ、また弾いてみるね?」

 なんつーか。電話をしている香穂子を見ているような気分っていうの?
 相手の声はまるで聞こえない。だから、俺は香穂子の相づちから、このポリムっていうヤツのセリフを想像しなくてはいけない。

 ── なんていうか。面白くない。

 元々普通科と音楽科に離れていて、それで、学年も違ってて。
 だから、こうして俺が香穂子に会える時間っていうのはほんの少しだっていうのに。
 なんてったって、このポリムとかいうフェッロは、香穂子を独り占めしてるんだ?

「香穂子、そろそろ帰るぞ? それで、ポリムとかいうヤツ。
 お前は俺の声、聞こえるんだろ? そろそろ俺に香穂子を返せよ」

 空をにらんでそう告げると、一瞬だけ、薄暗い練習室の中、金色の粉が降りかかったように見えた。
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