「梅雨の晴れ間、っていうのかな。こんな天気って……」

 放課後、まぶしいほどの太陽が森の広場全体に夏の日差しを振り落とす。
 森の広場が、いくら他の場所よりも気温が低いから、といっても、この暑さじゃ、カホコもケイイチも、すごくノドが乾いてるんじゃないかな。
 私の手にはヴァイオリンと、そして新発売のネコ缶が握られている。

 家でペットを飼ったことがない私にはわからないけれど、日頃余り水分を取らないネコは、夏の間、熱中症になることもある。
 だから、なんだろう。
 『水分補給にこのネコ缶を!!』
 ってペットショップでは、大きなポップと、ショッキングピンクのねこじゃらしというおまけまでつけて、このネコ缶を売り出していた。
 なんでも、このネコ缶は、水分比5パーセント増、だそう。
 夏季限定、っていうところが、お父さんの好きな缶ビールにも書いてあった気がして、少し可笑しい。

「……カホコ。どこにいるの?」

 今日1番涼しい場所はどこ? って、もし私がカホコなら、ひょうたん池を選ぶかな。
 そう思って池のあたりを見回しても、いつものほっそりとした2匹の後ろ姿はない。
 鳴き声も聞こえなくて、私は小声でカホコを呼んだ。

 子猫、ってすぐ大きくなるんだ。今じゃ、2匹は親のウメさんと区別が付かないくらいの大きさになってる。
 来年の春、私が卒業して、そして、衛藤くんが星奏の2年生になる頃、カホコもウメさんみたいにお母さんになるのかもしれない。
 
*...*...* Enbrace 2 *...*...*
「うーん! 気持ちいい」

 家から近い、っていうのを一番の理由に、選んだ星奏学院。
 だけど、今は、そんな安易な理由で決めた自分を恥ずかしく思う。
 登校するたびに好きになる。そして、毎日一箇所、自分の知らなかった場所を知るために、放課後いろんな場所に向かう。
 私は木漏れ日が細かい雨のようにキラキラしている木陰のベンチに座ると、ぼんやりとその影が作る形を見つめていた。

 2年生の頃、コンクールやコンサートを経て、先輩たちと一緒にいることが多かったからかな。
 とっておきの場所を見つけると、愛おしそうな表情をして、風景に目を当てていた先輩たちを思い出す。

『もし、俺にもかけがえのないものがあるとすれば、それは、この学校での生活だ』
『ずっときみやみんなと一緒に、トランペット吹いて楽しくやれればいいのに、って』

 まるで、たった今、聴いたかのように耳朶に残る言葉。
 苦しくなって、もう、ムリ、って思うくらい、深く息を吸い込む。
 ── 私も、あと1年もしないうちに、ここから離されていくんだ。
 その立場にならなければわからないことってある。
 淡々とした口調で告げていた、柚木先輩の内側にあった葛藤も。
 大切そうにトランペットを撫でていた、火原先輩の指先も。

「あ。いたいた。カホコ。ああ、ケイイチもいたの? わ、ウメさんまで」

 カンヅメから美味しそうな匂いはしない、というのに、まるで招き寄せられたみたいに、3匹は、私の前に駆けてくる。
 カホコは、私の手元を見つめて、ニャン、と高い声で鳴いた。

「いい子ね。ほら、ゴハンだよ〜?」

 指先に気をつけて、ゆっくりと缶を開ける。
 以前、プルトップを勢いよく引っ張り上げたら、指先を鋭く切ったことがあったっけ。
 切った部位はほんの少しだったし、元々あまり細かいことを気にしない性格だから、普段どおり練習をしていたら、
 衛藤くんにすごい勢いで叱られたのは、つい最近のこと。

『あんたさ。もう少し俺のことも考えたら?』
『はい?』
『あんたの音楽を聴いて、癒されたい。もっと聴いてみたい、って思う人間がここにいるってこと、忘れてないか?』

 そう言って、すごいチカラで私の手を引っ張る。
 重心を失った私は、衛藤くんの身体の中に閉じ込められてた。

 目の前の男の子は、再び出血し始めた私の指を口に含んだ。
 ちろちろと傷口を這う唇が、すごく官能的だ、とさえ思った。
 全身に回っていく熱。初めてのキスは少しだけ血の味がしたことを覚えてる。
 今思えば、お互いがお互いの一番だ、って気づかされた始まりだったのかな、って思う。

「香穂子。まったくあんた、どこ行ったんだと思えば、こんなところでネコと遊んで」
「衛藤くん」

 カホコは、まだ衛藤くんには慣れてないみたい。ぴくりと身体を震わせると、高く首を持ち上げて、不安げに私を見つめてくる。
 案外、どんな人でもウェルカム、のケイイチは、ぼんやりと衛藤くんを見上げたあと、ふたたびエサに飛びついている。
 ウメさんはといえば、そんなケイイチのしっぽがご機嫌に揺れているのを満足そうに見ながら、私の足元にどっかりと腰を下ろした。

「なんだ。あんた、ネコの賄い役をやってるのか? こういうことは、金澤センセの仕事じゃないの?」
「ううん……。あのね、この子の名前、カホコ、っていうの。こっちの子が、ケイイチ。
 それであそこで目を閉じてる子が、この子たちのお母さん。ウメさん、っていうの」

 衛藤くんは隣りに座ると、不思議そうに私の顔を仰ぎ見た。

「あれ? ケイイチって、どこかで聞いたことある」
「うん……。2年のチェロの志水くんの名前なの。彼が命名したんだよ。可愛いでしょう?」
「……なんか面白くないけど」
「はい?」
「まあ。いいや。ノーコメント」

 身体が触れあったから? ううん。あの血の味のキスからずっと、キスのない放課後が無くなったから?
 以前だったら、近くにいる衛藤くんとは、音楽か、会話。そのどちらかがなければすごく緊張して、沈黙が怖かったのに。
 今は、沈黙も小さな音楽のように私と衛藤くんの間にいる。
 そして、この空気をもっと味わっていたい。そう思えるのが不思議だった。

「お?」

 急に衛藤くんがヘンな声を上げる。
 と思ったら、ケイイチが、衛藤くんの足下に頭をすり寄せて甘えている。
 そして、ここが今日見つけたスイートスポットだと思ったのだろう。
 衛藤くんの靴の上に頭を乗せて、1つ大きなアクビをした。

「まったく……。敵わないな、こいつには」

 衛藤くんは真っ白なケイイチをそっと抱き上げると、膝の上に乗せた
 志水くん同様、おっとりとしたケイイチは、動じることなく素直に衛藤くんの腕の中に収まっている。

 志水くんの曲を聴いた人は誰もが志水くんに夢中になる。
 そして、彼の音楽に対する姿勢を知って、もっと彼のことが好きになるんだ。
 やっぱり、志水くんとケイイチって似ているのかもしれない。

「ね? いい子でしょう?」
「ったく。金澤センセだけじゃなく、あんたまでブリーダー稼業をしてるとは思わなかったよ」
「あ、そうだ。私が卒業したら、衛藤くんにブリーダー業、継いでもらおうかな?」
「ははっ」
「カホコはサカナ系、ケイイチはササミのタイプが好きみたいなの」

 『卒業』
 自分からそう言ったクセに、言ってて、鼻の奥がツンとする。
 何言ってるんだろう。
 夏休みにはまだ少し時間もある。それからだってまだ体育祭に文化祭。クリスマス。
 まだまだ、私に残された時間っていっぱいあるはずなのに。
 ── こうして、衛藤くんと2人で一緒に、ベンチに座って話すことも。

 黙って衛藤くんの膝の上にいるケイイチの身体を撫でていると、温かい体温が伝わってくる。

「俺、この学校に来て良かったよ」
「そっか。……よかったね」
「……あんたがいるしさ」
*...*...*
「……香穂先輩」
「あ、志水くん。それに冬海ちゃんまで。どうしたの?」

 突然、頭上から優しい声がする、と思って顔を上げると。
 そこには表情の読めない志水くんと、おろおろと口に手を当てている冬海ちゃんが立っていた。
 きっと、私と衛藤くんを見かけた志水くんは、衛藤くんの膝にケイイチが乗っかっていることに気づいて、まっすぐこっちに向かったのだろう。
 冬海ちゃんは、私と衛藤くんの間に流れる空気に、なにか感じたのかな。
 心配そうに志水くんの夏服をひっぱっている。

「今日は僕もネコ缶を持ってきました。カホコが喜ぶかと思って」
「そうなんだ−。私もさっき持ってきたんだけど、カホコ、まだ足りないみたいだよ? ほら、志水くんの手元、見てる」
「はい。カホコはよく食べますね」

 志水くんは慣れた様子でカホコの頭を撫でると、そっとネコ缶を開いた。
 うう、『カホコ』っていうのはこの目の前にいるネコのことで、私じゃないのに。
 『よく食べる』って言われると複雑だ。
 だって、ケイイチは。それに志水くんも、本当に食べる量は少ない。
 志水くんは音楽に。ケイイチは、毎日どんどん高くなっていく空に気を奪われているみたい。
 食べることは、どうしても後回しになってしまうのかな。

「ウメさんも、私が初めて会った1年前より、ずいぶん毛並みが良くなったように思います」

 冬海ちゃんは、ちょっと離れたところでしっぽを揺らしているウメさんに目を細めている。
 どうやら、衛藤くんの柔らかい雰囲気に、胸をなで下ろしているみたいだ。

 ほんの数ヶ月のことなのに、衛藤くんの印象はかなり変化した、って私も思う。
 出会ったばかりの頃の衛藤くんの音は、少しだけ月森くんに似ていた。
 文句なしに上手くて、だけど、上手すぎて怖い。
 近づいたら、知らないうちにこっちがケガをしてしまうんじゃないか、っていう鋭さがあった。

 だけど、今は。

 きっとクラスの弦のみんなから、いい影響をいっぱい受けてるんじゃないかな、って思う、丸い音が増えた。
 衛藤くんは自分の変化に、気付いているのかな?

「そういえば。僕、衛藤くんにお願いがあったんです」

 志水くんはカホコに当てていた視線を衛藤くんに向けた。

「志水さん、だよね? なに? お願いって」
「今度、僕のチェロと合わせてください」
「って、俺のヴァイオリンと志水さんのチェロを?」

 衛藤くんが少しだけ大きな声を出したにも関わらず、膝の上のケイイチはピクリともしないで眠り続けている。
 ケイイチはやっぱり志水くんによく似ている。
 驚いたように眉を上げた衛藤くんに、志水くんは微笑みながら手を伸ばした。



「そうです。僕は君の音に興味がある。だから、よろしくお願いします」
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