*...*...* Enbrace 3 *...*...*
 窓の外に、絵に描いたような入道雲が広がっている。
 こんな暑い日はさすがの香穂子も涼しいところで練習するんじゃないか、って、俺は教室を飛び出すとまっすぐに講堂に向かった。
 最近、音楽科の実技のテストが近いからだろう。

 『練習室がなかなか確保できないの。毎日のように使っても音楽科の人に悪いし……』

 そんなことを言っていたから、俺の勘が正しければ、講堂か、音楽室か。そのどちらかだ。

「ん? なんだ、この音は」

 手始めにまず、空調の効いた講堂に入り、香穂子の朱い髪を目で追う。
 その前に俺の耳は、流れてくるヴァイオリンの音を探していた。
 こんな音、作るヤツ、星奏にいたか?
 もちろんこれは、香穂子の音じゃない。そしてクラスメイトの音でもない。
 それよりも、もっと熟されてて、ただただ優しい。
 それでいて、内に秘められた技巧は、隠しようがないのだろう。
 周囲を包み込むような、暖かな音色が満ちている。

 ── 誰なんだ? 一体。

 改めて朱い髪を探すと、やっぱり俺の勘は正しかったらしい。
 せっかく上手くなったんだ。もう少し、人が集まりそうな広い場所で練習すればいいのに、と俺は思うけど、
 香穂子はいつも舞台の上のピアノの近く。
 ぱっと見た限りでは見つけられないような、袖の端っこで、入り口から背中を向けて、俺が見たこともないヤツと話をしている。
 男の顔はよく見える。
 蒼い髪。音楽科の制服。それにえんじ色のタイ。ってことは香穂子と同じ3年生か。
 その端に、くたびれた白衣がはためいている。

 そもそも音楽科は人数が少ないこともあって、俺は1週間で1年全員の顔は把握した。
 1ヶ月くらいで音楽科全体も理解した。
 今、香穂子に向かって微笑みかけている顔は初めてだ。
 いや、どこかで見たことがあったような気がする。どっちだ。

 気配を感じたのだろう。香穂子はふと俺の方を振り返ると軽く手を挙げて合図を送る。
 それに釣られるようにして、えんじ色のタイと白衣は俺の方に目を当てた。

 ── こんな苛立つ思いは久しぶりだ。
 そして初めてじゃない。確かこの思いは……。

 波止場の風の冷たさが頬によみがえる。寒い季節。
 そうだ、これは、香穂子の決してうまいとは言えない音を聴いて、腹が立った中3の冬だ。
 聴いていたいのに、聴いていると、自分の今まで正しいと思っていたルールが覆されるような不快感だ。

「香穂子。誰? 紹介してよ」
「おーおー。そういえば。お前さん、月森に会うのは初めてなんじゃないかー?」

 この男の音の余韻に浸っているのだろう。
 金澤先生は眉尻を下げたまま、顎をしゃくって香穂子の隣りにいる男を指し示した。

「あー。こっち、月森連。今、星奏にいたらちょうど3年か。
 今ウィーンに留学中で、夏休みだからってちょっと日本に戻ってきてるんだ。
 それで、月森。こっちは、1年の衛藤桐也。ヴァイオリン専攻。
 吉羅とも言ってたんだ。こいつは、月森の次を担うジーニアスだってな」

 聞き覚えのある名に俺は、月森さん……、でいいよな。先輩だし。……の顔を凝視した。
 月森、月森って、確か。

「月森って、月森蓮のこと? 以前ビデオで見たことがある。もう少し小さい頃だったけど」
「えーっと……。そ、そう! その月森くんだよ?」
「って、お前さん。仮にも先輩の名を、モノの名前みたいに呼ぶな、って」

 音楽家一家に育った月森連。環境は俺と遜色ない、って思ってた。
 それに、なんていうのかな。
 ビデオで見た月森さんは、技巧だけが飛び抜けていて、あまり温度のない演奏スタイルも俺に似ていた。

 なのに、さっき聴いた月森さんの音色は、聴き終えた今になっても、ノルスタジックな感情を引き起こす優しさに満ちている。
 香穂子がもう少し技術を磨いて。その先にあるような懐かしみのある音。
 ビデオの中の彼と別人、とまでは言わないけど、なんていうんだ? もっとまろやかな音色、と言ったらいいのか。

「そうだ。衛藤。お前さんと月森の音楽環境ってどこかよく似ているし。
 月森の話でも聞いて、見聞でも広げてみたらどうだ〜?
 天才同士って、互いに研鑽し合ってこそ、価値があるってもんよ」

 金澤先生はそう言い捨てると、今日は本当に用事があるのだろう。
 『やれやれ。5分後に始まる会議の資料をコピーしなきゃならねえよ。
 この星奏学院で使う紙だけで、毎年何本の木を切ってるんだろうな』
 などとぶつぶつ言いながら講堂を後にした。

 俺は改めて、月森さんを見つめる。
 静かな眼差しの中にある自信の色。
 それに、香穂子との距離。
 俺が星奏に入った頃、もうすでに月森さんはこの学院にはいなかった。
 だからなのか?

 俺は、他の誰よりも、香穂子と親しい位置にいる、ってことを疑ったことはなかった。
 なのに。
 香穂子と俺。香穂子と月森さん。
 香穂子と月森さんの距離の方が、俺のソレよりもほんの少し近いことが、腹立たしい気持ちを強くしていく。

 俺はさっき感じた気持ちをそのまま告げる。挑発の意味もあったのかもしれない。

「なんていうの? 思ったより甘っちょろい演奏をするんだな、月森さんって」
「え、衛藤くん? あ、あの……?」

 香穂子がぎょっとしたように俺を見上げる。
 だが、月森さんは澄んだ目で俺を見つめ返した。

「君は衛藤というのか。……ああ。昨年の国際コンクールで入賞したのは君か。名前に聞き覚えがある」
「ああ。多分ね。ちょっと変わった名前だし、それ多分俺で当ってる」
「そうか。……録音だが、君の音も聴いたことがある」
「それはどうも」
「あ、あの? 衛藤くん……」

 育った頃の土壌がどんな風に自分の根っこを作っているのか。
 クローンの自分がいて、1人は日本だけで、そしてもう1人は、今の俺みたいな帰国子女で。
 なんて植物みたいに育ててないから、断言することはできない、とは思うけど。
 日本ってやたら、年功序列を気にする。
 1つでも年齢が上なら。たとえ実力がなくても敬いの心を持つ、なんて。
 それに今は、音楽の高みを目指す同士、というなら、なおさら、本当の気持ちはそのまま告げた方がいいに決まってる。

 そんな俺の態度について、時折香穂子は言いづらそうに、意見するときがあった。
『私はいいの。だけど他の先輩に対しては、そんな冷たい態度を取らないで』
 見ている私が辛いから。と。
『国民性の違いなんだと思う。
 だけど、そんなささやかなことで、衛藤くんのファンが減ったらつまらないもの。だから、……ね? お願い』
 まったく香穂子って、俺との付き合いはまだ浅い、っていうのに、俺を操縦する方法はしっかり把握してるんだよな。
 なんて。だけど、そんな香穂子の気遣いが、すごく嬉しかったクセに。
 ── 今日はどうにも止められない。

 でも、さんざん俺が挑発したはずの月森さんは始終静かなままだった。

「……まるで1年前の自分を見るようだ」
「月森さん?」

 講堂の柔らかい光に透けた月森さんの髪は、優しげなブルーに輝いている。
 ああ、こういうのを、『pigeon blue』っていうんだ。
 なんて俺はこの場に関係のないことを思ったりする。
 それにしても、どうして、『鳩の青』なんだろう。
 『pigeon blood』が、『鳩の血色』、強いてはルビーの赤を連想させるとしても、
 鳩の青なんてまったく意味がわからない。
 だけど、今月森さんから流れ出る空気は、どこにもとげとげしさがない。
 鳩の身体のような丸い形をしている。

「── 君もやっぱり、技術だけがすべてだと思うのだろうか?」
「そうだろ? ヴィブラートも倍音も。G線の細かなピッチだって。
 技術が完璧じゃなきゃ、どんな音楽だって弾きこなせない」
「それは俺も認めるところだ。だが、例外もある」
「例外?」
「君も知っているのだろう? 日野の音を」
「こいつの?」
「そうだ」

 月森さんは簡潔な言葉で話し始めた。
 自分も以前は俺のように、技術至上主義だったこと。
 香穂子の音を聴いて、感じることがあったこと。
 押し付けるだけが音楽じゃない。ふと感じたらそこにある。それも音楽の1つではないかということ。
 『愛して、伝えろ』
 それは俺が以前アメリカにいたとき、師事していた先生と同じ言葉だった。

「月森さん、あんた今度の秋の国際コンクール、出るんだろ?」
「……ああ。そのつもりだが、なにか?」
「俺も出場する。気持ちだとか、心だとか。そんな甘いこと言ってるあんたの結果が楽しみだ」

 俺は練習室の予約を取ってある、と、誰に対してでもなく口にすると、負け犬のようにその場から走り去った。

「ごめんね。月森くん。私ちょっと……っ」

 背中に、慌てたような香穂子の声がする。
 逃げるように講堂を飛び出すと、香穂子の小さな手が肩に当たった。
 人通りの少ない廊下で、俺はその手を振り切ると、香穂子をにらみつけた。

「……わかってる。月森さんのいうことは。俺だってそんなことくらいわかってるんだ」
「衛藤くん……」
「だけどさ、フェアじゃねえだろ? 心ってなんだよ。感情って、気持ちってなんだよ!
 技術は、わかりやすい目安があるだろ? 倍音が完璧にできる、っていうのは、誰が聴いたって、
 はっきりわかるんだよ。だけど、感情、ってなんだよ」
「衛藤くん! ね。落ち着いて、話、しよう?」
「うるさい。ついてくるなよ」

 いきなり、周囲を振り切るように走り込んだせいで、心臓が耳のそばで鳴っているかのようにドクドク言っている。
 俺は1番近くの練習室に飛び込むと、ずるずると壁に背中を預ける。
 なにを今、俺は興奮しているんだ。いや。興奮じゃない。動揺か。
 香穂子の音楽の本質を聞いたときとデジャブする。

 なんなんだ。
 月森さんの演奏は、俺の担任が絶賛していることもあって、図書室で何度か、コンクールの録音を聴いたことがあったけど。
 さっき聴いた音とはまったく違う。
 技巧、ピッチの正確さ。円熟味。どこを取っても申し分ない実力で、確かに他の参加者の実力を飛び越えていた。
 だけど、実力は俺とほぼ互角だ。
 今の俺と月森さんが同じコンクールに出たら、絶対負けない、って自信もあったのに。



 荒い息を繰り返している俺の身体を抱える腕に気付いたのは、しばらく経ってからだった。
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