香穂ちゃんと付き合い出して、初めての夏。

『ロマンチックが歩いてる、って感じだよな〜。火原の場合』

 なんて悪友の長柄には、よく悪態つかれてたけど。
 香穂ちゃんと一緒にいるようになってからのおれは、恋が片思いのまま終わらなかったことにすごく感謝してる。
 って言ったら大げさかな。

 だけど、本当にそんな言葉がピッタリくるような数ヶ月だった、って思うんだ。

 可愛くて。一生懸命で。しっかりしてるクセにどこか抜けてて頼りない。
 そんな彼女に会うたびに、おれはどうしていいかわからないほど香穂ちゃんが好きになる。

 ……と、そこまではいいんだけど。
 問題はそこから、なんだ。

 これだけおれが可愛い、って思ってる彼女のこと、他の男たちはどう思ってるのかな、って。
 みんなが香穂ちゃんのこと、狙ってるんじゃないか、って。  本当にふとした、何でもないとき。
 たとえば、雨上がりの空がすごくキレイだな、って思ったときや、夜、眠りにつく前の一瞬。
 今、隣りに香穂ちゃんがいてくれたら、どんなにいいだろう、って考えたりする。

「あーあ。離れたせいもあるのかなあ」

 午後3時。
 今日は高校のオケ部の練習を見に行くとき、おれは、スコーンと晴れ上がった西の空を見ながら息をついた。
 そりゃ高校のときだって、音楽科と普通科。頑張らなきゃ会えない距離、はあったと思う。
 だけど、移動教室のときはそれなりに会えたし、放課後も、香穂ちゃんの好きな正門前に行けば、会えた。
 会えなかったら、会えるまで探して回った。
 だけど今は、そんな簡単に会える距離にないもんね。  
*...*...* Embrace 1 *...*...*
「香穂ですか? あいつなら、図書室に行くって言ってましたよ」

 ふらりと入った校門で、まっさきに目につくヤツ。
 あんな背の高い音楽科のヤツ、って居たっけ? と思って近づけば、その男は土浦だった。
 あんなにも音楽科の制服を着るのを渋ってたのに。
 今見る土浦は、3年間この制服を着込んでたんじゃないか、って思えるほど、ぴしっと板についている。
 土浦、いい身体してるもんなー。足も長いし。こんな体型だったらどんな服だって似合いそうだ。

「そうなの? ありがと、土浦。今からソッコーで行ってみる」
「って、火原先輩。大学の方はいいんですか?」
「へ? 大学?」
「そう。金やんが心配していましたよ。大学入試、ギリギリで押し込んだから心配だ、なんて」
「うわ。そんなこと言ってるの? ははっ。受かれば順位なんて全然関係ないんだよー」

 クチでは笑いながらも、やっぱりおれの気持ちとしてはすっきりしないのも事実。
 だってさ、そんな話香穂ちゃんが聞いたら、なんて言うんだろ……、やっぱり良い印象持てないもんね。

「それと、都築先輩からも」
「へ? あの、指揮科の都築さん? あれ? どうして土浦が?」

 土浦はやれやれといった風に首を振っている。

「あ、俺、話してませんでしたか?
 俺、今はピアノ専攻として音楽科に入ったんですけど、ゆくゆくは指揮をやってみたいと思ってるんですよ」
「へえー」

 大きな後輩は、勢いづいて話し始めた。
 指揮が、オケの中でどれだけ大切なポジションか。そのために今、自分は何ができるか。
 オケのための総譜に目を通し始めていること。
 ピアノばかりじゃダメだと思い、ヴァイオリンをやり始めたこと。
 ゆくゆくは、管の楽器にも触れてみたいこと。手軽に始めるならフルートとトランペット、どちらがいいだろうか。

「すごいね。土浦も頑張ってるんだ」
「ええ。都築さんのおかげで、大学の図書も借りることができて、ありがたかったですね。俺は。
 ヴァイオリンもわからないところがあると香穂に聞きに行ったりして。
 アイツ、普段はぼーっとしてるクセに、ヴァイオリンのこととなると熱心に教えてくれますよ。
 ときどき一緒にデュオを組んだりもします」
「……ふうん」

 ……うーん。 どうして、おれ、今、こんなに面白くないんだろ。
 今の土浦の言葉の中に、香穂ちゃんに対する熱望、とか好意なんて聞き取れないのに。

 あ−。おれやっぱり余裕ない。
 もっともっと香穂ちゃんのこと、独り占めしたい。
 うう、悪友の長柄の顔が目に浮かぶ。

『そんなの、もっとお近づきになれば、そんな悩みも消えちゃうだろう?』
『お近づき? なに、それ』
『あー。まだ、お子ちゃまの火原くんにはわからないかー。その、なんだ。『イタしちゃえば』って言えばわかるか?』
『イタしちゃう……って……』

 悪友の下卑た笑みから、おれはこいつが何を言っているかがわかって。
 そして、それは、おれの、いや、おれたちの中で少し前にクリアしていることだったから、
 おれはかっと頭が熱くなるのを感じた。

『……お? おおおーー?? その、火原くん、そのリアクションはもしかして、もしかするのかな?』
『あー。もう、これ以上はノーコメント! 話題替えよう。ね?』

 そうなんだ。その、この前の中間試験の時だから、6月かな。
 その、香穂ちゃんとは、そのつまりなんだ? まあ、……そういうこと、になって。
 それからもその……。いや、おれは香穂ちゃんを抱くことが、すごく上手ってワケではなかった、とは思うけど、
 それなりに上手く行ってるって、おれは思ってて。
 香穂ちゃんも同じ気持ちでいてくれると信じてて。

 だけど、なんだろ。
 おれと香穂ちゃんの仲が完璧上手く行ってる、って信じることができても。
 香穂ちゃんに近づいてくる男ってやっぱり面白くない。
 それがたとえ、一緒にアンサンブルを組んだ仲間でも!

「火原先輩? どうかしましたか?」

 おれの笑いきれない顔を不思議に思ったのか、土浦は真顔になって先輩のおれを覗き込む。
 おれはムリに笑顔を取り繕うと、ダッシュで校舎の方角に走り出した。
*...*...*
「香穂ちゃん!」
「あ、火原先輩」
「良かった。ここにいたんだ」
「しーー。あ、あの、ここ、図書館ですよ?」

 会えた嬉しさからつい大きな声を出したおれに、香穂ちゃんは唇の前に人差し指を立てて笑っている。
 大きく下がった眉は、香穂ちゃんが笑うとつられるように大きく下がる。
 血色の良い唇の間からは白い歯がこぼれる。
 あー、もう。ホント、可愛い。
 もし、ここで、不満げにおれのことを見ている図書委員がいなかったら、香穂ちゃんに頬ずりをしちゃいそうな勢いだ。

「ねえ。香穂ちゃん、何してるの?」
「はい……。あのね、最近、オペラに興味があって」
「オペラ? あの、『リゴレット』とか、『椿姫』とか?」
「はい!」

 香穂ちゃんはおれが来る前に、関心のあるタイトルを見つけたのだろう。何冊か大事そうに胸に抱えている。
 少し色の褪せた表紙は、この本がかなり以前から星奏の主として頑張ってきたのかな、っていうくらいの古ぼけていたけれど、
 丁寧にメンテがしてあって、却って厳めしい雰囲気があった。
 背表紙には『館内』のマークがある。
 どうやら香穂ちゃんは、この借りることができない本を書き取るつもりらしい。
 図書館の奧にある閲覧室に向かうドアを開けた。

「どのオペラが良かったの?」
「んー。これ、です。『トスカ』かな」
「『トスカ』? あの、『愛に生き、歌に生き』が有名だよね」
「はい。第三幕、すごく素敵だな、って思って……」

 香穂ちゃんは、持っていた本を開くと、そのシーンのページをおれに向けた。

 『トスカ』か。

 確か、恋人マリオを理不尽な理由で殺されてしまう、女の人の話だ。
 知ったときはすごい悲恋だと思ったし、確かにヒロインのトスカに同情、は、したけれど。

 今、おれが生きている世界では、殺すも殺されるも無いよなー。
 なんてクラスメイトと茶化し合って、その場は終わってしまった……ような気がする。
 そんなおれを親友の柚木は、ただ困ったように笑って見てたけど。
 あれ? 今思えば、柚木のあの表情にはどんな意味があったんだろう。

「ごめんなさい。急いで歌曲だけ、書き写しちゃいますね。えっと……。
 『愛に生き、歌に生き』と、『妙なる調和』、それに、『星はきらめき』か……。
 あ、このオペラ、チェレスタが入るんですね」
「うん。トランペットも入るみたいだね」
「本当ですね」

 香穂ちゃんは、小さなメモに几帳面な字でコリコリと曲名を書き付けると、おれの方に向かって笑いかけた。

「好きな人のために死ねちゃう、なんて、まだ、私、ちょっと想像がつかないなあ……」
「香穂ちゃん?」
「……あ! ごごめんなさい。火原先輩のことは、その、……好き、ですけど。
 その、私、まだ『死ぬ』って想像つかないなあ、って思ってしまって」

 突然あたふたと早口になる香穂ちゃんが可愛い。
 おれはかぶりを振ると香穂ちゃんの頬にそっと手を伸ばした。

「おれも同じ。だって、まだ、おれ香穂ちゃんとやりたいこと、いっぱいあるんだ。
 『死ぬ』なんて考えないよ。死ぬ前に、もっともっと香穂ちゃんのこと、知りたい」
「火原先輩……」
「いろんなところ行って、いろんな思い出を作って。もっと香穂ちゃんにおれのこと好きになってもらいたいよ」




 そんなに大したこと言ってるつもりはないのに、どんどん香穂ちゃんの頬は熱くなる。
 おれはすばやく周囲を見渡すと、赤くなった頬に口づけた。
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