「ふむ……。今日の香穂さんの演奏はどこか、心ここにあらずと言った風情だったね」

 彼女の演奏が終わったあと、父さんは僕に低い声で耳打ちをした。
 周囲の人間は、香穂さんと衛藤くんの演奏にスタンディングオベーションで応えている。

「ふふっ。そうかな? 軽やかで素敵な演奏だったじゃない」

 父は、口元に小さな微笑を浮かべながら言葉を続けた。

「いや。練習不足だとかそういう問題じゃない。また表現力の問題でもないんだ。
 ただ時折、共演した男性とソリが合わない、というのか……。もっと言えば、ちょっと男性の方が好戦的だった」
「まあね。父さん、覚えてる? 昔ヴァイオリン教室で一緒だった、衛藤桐也、ってヤツだよ」
「ああ。最近もその名前を見たことがある。確か、海外のヴァイオリンコンクールで優勝した生徒じゃないかな」
「あたり」

 父は口元に微笑を残したまま、それでいて鋭い眼窩で僕の目の奧を覗き込んだ。

 幼い頃から僕はこまっしゃくれたことをいう子どもだったらしい。
 イタズラをしては、上手く母を言い含めてその場を逃げていたけれど。
 あまり度が過ぎると、父は母に相談した。
 そのとき父は今と同じ表情で、僕を見つめたモノだった。

『なあ、葵。男同士、真剣に話をしようじゃないか』

 父の顔はそう言っている。

「私は、お前が演奏前、香穂さんの気を乱すようなことをしていないことを祈るよ。
 なにしろ女性は繊細だ。ちょっとしたことで調子が狂う。私は、それが女の脆さであり、可愛げだと考えているけれどね」
「父さん……」
「無理をさせたところで、所詮その行為は男側の自己満足に過ぎないよ」

 観客は、熱も冷めやらずといった表情で、帰り支度を始めている。
 僕は喧噪に紛れると、まっすぐ香穂さんの控え室に向かった。  
*...*...*  Embrace 4  *...*...*
「加地くん、今から楽屋? 香穂子すっごく良かったよねえ〜」

 周囲に不愉快さを与えない程度に小走りにホールのスロープを通り抜けているとき、
 つい、と上着を引っ張る力に気づいた。東雲さんだ。うしろには眠そうに目をこすっている谷もいる。

「ふふっ。同感。君もそう思った?」
「もちろん! ねえ、加地くん、今から香穂子の楽屋に行くんでしょう? あたしも一緒について行っていいかなあ?」
「そうだね……」

 もちろん僕は1人で行きたいと思っていた。
 さっきの僕はなんてことをしたのだろう、と悔恨の念ばかりがよぎって、彼女の曲を上の空で聴いてしまった。
 彼女は怒っているに決まってる。そして、1番僕の聞きたくない言葉をも口にするかもしれない。
 そんな死刑宣告を聞くのは僕1人で十分だ。

「東雲〜。加地、微妙な顔してるじゃん? 日野に会うのは明日にしたらどうだ?
 あ、そうだ。こっからすぐ近くに、東雲が行きたいって言ってたクレープの店、あるぞ?」

 僕の顔色を読み取ったのだろう。谷が東雲さんの手を引っ張ると、僕に目配せしてくる。
 僕も軽く目で相づちを返した。

「うーん……。そっか−。女の友情ってクレープよりも安いのかなあ。じゃあ、香穂子にはメール打っておく」
「そうしようぜ。じゃあな、加地」
「ありがとう。2人とも気をつけて帰って?」

 ホールの華やかさとは裏腹に、楽屋へと続く道は静まりかえって、自分の足音だけが鳴り響く。
 楽屋に近づくにつれ、罪悪感は深くなっていく。

 さっきは興奮して彼女の気持ちなどこれっぽっちも考えてなかった。
 繋がってさえいれば、彼女は僕から逃げていかない。
 僕は衛藤くんより、他のどの男より、彼女の近くにいる。
 それだけが、僕のよりどころだった。

 だけどこんな僕を、香穂さんはどう思ったのだろう。

 この先の角に香穂さんの楽屋がある。
 勢いよく角を曲がったそのとき、僕はこのとき1番会いたくない人間に出くわした。
 ──── 人生、逢魔が時、とはよく言ったものだよね。

「……衛藤くん」
「なんだ、あんたか。確かココは関係者以外立ち入り禁止、だったハズだけど?」
「そういうことなら、僕は彼女の関係者という位置づけになるから問題ないはずだ」
「へぇ。たいした自信だな」

 こんなヤツにかまってる時間はない。
 こいつの脇をすり抜けようと1歩脚を進めると、目の前の男は僕の進む方向へと身体を移動させた。

「ねえ、あまり僕を怒らせないでくれるかな? 時間がないんだ」
「あんた、演奏前、香穂子になにしたんだよ」
「……その質問に答える義務は、僕にはないと思うけど」

 憎々しげな目がまっすぐに僕を貫いてくる。

「あんただって、一応演奏者の端くれだろ? 演奏前の時間がどれだけ大事な時間か、ってわかるだろうが」

 僕は背中に伝っていく冷や汗に気づかれないように笑顔を取り繕った。

「彼女の演奏は相変わらず素晴らしかったよね」
「は? 俺にそんな言葉が通用すると思ってるのか? 散々だったよ。音は飛ぶし、そのたびに香穂子は目で謝ってくるし。
 取り繕うのに必死だったよ。今日は暁彦さんも来てるから、気の抜いたことできないし」

 僕は手で衛藤くんの肩を制すと、その横をすり抜けた。

「心配してくれてありがとう。僕は彼女の様子を見に行きたい。だから君はここで失礼してくれるかな?」
*...*...*
 改めてドアを仰ぎ見るとそこには『日野香穂子様』と印刷されたカードが貼り付けてある。

 印字された香穂さんの名はどこかしら誇らしげで、それはさっきの舞台の上での彼女にそっくりで僕まで嬉しくなる。
 でも今は……。
 さっきは自分の気持ちだけしか頭になくて、僕は香穂さんに淫らな行為を押し付けてしまった。

 ──── 彼女は、許してくれるだろうか。

 氷のように冷え切ったドアノブは、そのまま彼女の心のようで、僕は開けるのにひどく躊躇する。
 パンドラの箱、なんて言葉が浮かぶ。今、僕がこの扉を開けることは福音? それとも……。
 ドアノブを握っている手首をゆっくり翻す。鍵はかかってないらしい。
 顔の幅だけそっとドアを開けると、鏡の前、八重咲きの白い薔薇が僕の方を振り返った。
 有罪の宣告を聞く被告人はこんな心持ちなのだろうかとふと我に返る。

「あの、香穂さん。さっきは……」

 僕はこの年にしては、たくさんの言葉も知っている。
 どんなときにどんな言葉を使えば、人が気持ち良くなれるかもわかっているけど。
 知識は所詮知識でしか無くて。
 今、この瞬間は、どんな言葉を伝えれば、彼女の心の殻は壊れてくれるのだろう。

 さっきの僕の行為を正当化してなんて言う気はさらさらない。
 だけど、許して欲しい、って勝手なことを思う自分もいる。

「違うの、私……」

 香穂さんは何度もイヤイヤを繰り返すように、首を横に振っている。

「許してくれ、とは言えないこと、わかってる。さっきのことで、香穂さんから別れを口にされても仕方ない、って思ってる。
 だけど、君を傷つけたことだけは謝りたいんだ」
「加地くん、あの、ここに座って?」
「香穂さん……」

 香穂さんは自分が座っていた椅子に僕を誘うと、そっと僕の肩に触れた。
 その仕草はとても母性に満ちていて、僕は魔法にかかったかのようにその椅子に座った。
 その頃の母さんはお菓子を作りに凝っていて、美味しいにおいがしてくると、こうして僕をダイニングに誘ったものだった。
 どうしてだろう。今こうして香穂さんにされるまでまるで忘れていた情景が、溢れるように浮かんでくる。

 僕は香穂さんの顔も見ることができず、ずっと足下を見ていた。
 白い飛沫が蒸発したような床は、さっきの愚かな痴態をイヤでも思い出させて、僕はますます居心地が悪くなる。

「……え?」

 ドレスの裾が僕に近づいてくる、と思ったら、香穂さんの腕が僕の頭を抱きかかえていた。

「私、加地くんが好きだよ」
「香穂さん……。どうして? 僕はこんな風に君に優しくしてもらえるような人間じゃない」
「──── 不安にさせていたのかなって思ったの。
 今まで私、加地くんに言ってもらった分の半分もお返しできてなかったな、って思ったの」
「香穂さん……」

 僕は信じられない思いで、目の前の香穂さんの腰に腕を回す。
 華奢な身体は温かくて、彼女が今、僕と同じ時代に生きていることを伝えてくる。

「加地くん……。は、恥ずかしい、て思っちゃいけないんだよね……」
「え?」
「う、ううん? 頑張る。えっと……」

 彼女は何度か独り言を言ったあと、そうっと僕の前髪をかき上げると、額の端っこに口づけた。



「──── 好きだよ。加地くんが、大好き。だから、安心して」