*...*...*  Embrace 3  *...*...*
 気持ちよく晴れた七夕。
 午後7時の西の空には、銀の皿のような三日月の上、宵の明星が光を添えている。
 これほどまでの天気に恵まれたなら、今夜、彦星と織姫は、1年ぶりの逢瀬を心行くまで楽しむのだろうか。

 この日は週末ということもあって、街の喧噪はいつも以上に賑わしく、いつになく恋人たちの行き交うさまが目につく。
 僕は父がいつも世話になっている花屋で、蕾の中の桃色が外側にいくにつれどんどん薄くやがて純白になるバラを買い求めた。
 僕の横には、同じく彼女のコンサートを聴きに行くという、谷と谷の彼女の東雲さん、上条さん。
 それに上条さんの彼、というポジションだ、と認識してていいのかな。
 音楽科の内田くんが上条さんに寄り添うように立っている。

 楽屋に花を差し入れするという僕に、4人は1度楽屋を見てみたいし、香穂子に直接メッセージを伝えたい、という。
 できれば香穂さんの楽屋へは、僕1人で行きたいところだったけど。
 考えてみれば4人のうち、3人はクラスメイト。
 ここであからさまに断るのも可笑しいと思い直し、一緒に行くことに決めた。

「ああ。関係者の方ですね。よろしいですよ。どうぞお入りください」
「ありがとうございます。さ、みんな、入って?」

 僕は警備員に香穂さんからもらった許可書を見せ、楽屋へのドアを開けた。

「へぇ〜。なーんか、格好いい〜。関係者、って感じだよね、私たち」
「まあなー。いいなあ、加地。こんな VIP な彼女を持つって、すっごくカッコよくない?」
「悪かったですねー。ごく普通の彼女で」
「い、いや、東雲、ごめん。そんなつもりじゃなくてさー」

 早速、谷と東雲さんは軽い口論を始めている。

「まあまあ2人とも。ふふっ。こんなところって初めてでしょう?」
「え? ああ、加地くんは、去年のコンサートで使ったんだっけ?」
「うん。まあね」

 さらりと受け流しながらも、密かに僕は動揺を気取られないように、わざと軽い声を挙げる。
 去年のクリスマスコンサートで使った控え室に続く廊下は、照明が消されていて使用している気配はない。
 今日の香穂さんの控え室は、この前よりもさらに上座。
 まさにVIP待遇の部屋だった。
 ということは当然、彼女と一緒に演奏する衛藤くんも、同じ待遇なのだろう。

 ──── わかっていたことなのにね。

 彼女のことを好きでいる以上、どんなに彼女の身体を自由にしたところで、僕は自分の劣等感から逃れることができない、って。
 香穂さんがプリンが好きだ、って言ってたことを思い出して、午前中、本物のプリンを作ってみた。
 プリンの上に乗っているカラメルを作るのがあんなに難しいなんて、思ってもみなかった。
 ほんの少しの水に、大量の砂糖。
 ゆっくりとかき回していると、鍋の端の方から褐色のカラメルができあがる。
 まさに、今の僕の心はあんな感じだ。
 どす黒い感情が、見る間に僕の心の大切な部分を浸食していく。

 内田と上条さんはまだ付き合いだしてから日が短いんだろう。
 内田が彼女の質問に答える形で話を続けている。

「私、こういうところ入ったことがなかったんだけど、結構地味なんだね。もっと、絵とか、花とか飾ってあるかと思ってた」
「どこの会場もこういう形が多いかな。出演者の感情を落ち着かせることを第一に設計されているからね」
「そうなんだ……。内田くんって物知りだね」
「い、いや。そんなに物知りってわけではないんだ。そうだね。僕の知識のほとんどが月森の受け売りだと言っていいかもしれない」
「月森くん? あの、今年の3月に留学した?」
「そう。……あいつ、音楽以外は不器用なヤツだったからなあ。元気でやっているかな」

 2組のカップルを引率するような格好になりながら、僕は目的の楽屋を見つけると、コンと小さなノック音を立てる。

「ん? こんな時間に誰だ? ……どうぞ? 開いてるから勝手に入れよ」

 改めて、ドアに貼ってある香穂さんの名前を確認する。
 どうして、香穂さんの楽屋から男の声がするんだ?
 5人で顔を見回すも、答えは出ない。
 だけど、僕の中で生まれた予感は確信になって、僕の黒い感情を育てていった。

「ま、入れ、って言われてるんだから、入っちゃっていいんじゃない? 香穂子ー。おめでとう!」

 東雲さんがドアを開けると、そこには僕が手にしている白い薔薇のようなドレスを着た香穂さんと、
 その後ろに今日香穂さんと一緒に演奏をする男、衛藤くんが座っていた。
 幼い頃とまったく変わっていない、強い眼差し。ややもすれば傲慢にも見える態度。
 挫折を知らない人間は、こんなにも他人に対して強い態度に出ることができるんだ、とちょっとだけ妬ましくなる。

「香穂さん。おめでとう。これ、たいした物じゃないけど僕からの差し入れ」
「加地くん、ありがとう。すごくいい香りがするね、この薔薇」
「香穂子ー。私たち4人からも、これ。クッキーの詰め合わせ。あんた疲れたときは甘いモノが好きって言ってたでしょう?」
「ありがとう……。乃亜ちゃん、須弥ちゃん。谷くん。……あ、内田くんも? 本当にありがとう」
「いや。僕も練習のあと、よく甘い物食べるんだ。今日は君の演奏を楽しみにしている。それと、衛藤くん、君の演奏も」

 内田は穏やかに視線を香穂さんから衛藤くんに移すと、邪気のない目で衛藤くんの顔を見つめた。

「は? 俺?」
「月森の再来と言われている君の演奏を、1度しっかり聴きたいと思っていたから」
「よく、そういうこと言われるんだけど。少なくとも俺は全然嬉しくないね」
「それはどういう……」
「月森蓮が立派なヴァイオリニストだっていうことは知っている。だけど、俺は俺、月森蓮は月森蓮だ。一緒にされたくない、ってこと」
「……そう。それでも、僕は君の演奏に期待している」

 内田くんはなかなかの人格者らしい。
 傲慢な後輩の挑発に乗ることなく、自分の意見を相手に伝えている。
 衛藤くんは毒気を抜かれたかのように目を見開くと、勢いよく椅子から立ち上がった。

「香穂子。あと1時間だ。俺は防音室で最後の調整をしてる。あんたも来いよ」
「う、うん。じゃあ、あとで私も行くね」

 内田も今が良いタイミングだと感じたのだろう。上条さんの背を押しながら俺たちを見回した。

「僕たちもそろそろ退散しようか。日野さん、ウォーミングアップ、しっかりね」
「香穂子。私、音楽のことはよくわからないけど、いっぱいいっぱい応援してるからね」
「あ、あたしもなんだかノドが乾いちゃった。ね、谷くん。みんなでロビーでちょっとお茶しない?」
「賛成。冷房が効きすぎってのもノド乾くよな。行こうぜ」

 4人は衛藤くんに導かれるようにして、香穂さんの楽屋を出ていく。
*...*...*
「みんな、行ってしまったね」
「うん……。びっくりしたけどすごく嬉しかった。あ、須弥ちゃんたちが持ってきてくれたこのお店のクッキー、すごく美味しいんだよ?
 あとで加地くん、一緒に食べよう?」

 後ろ手にドアを閉め、僕はまっすぐ香穂さんへと向かった。
 香穂さんは大きな鏡を覗き込むと目の端を押さえ、いよいよ本番だという覚悟なのか、ふぅ、っと大きな息をついている。

「加地くん。今日は本当にありがとうね。私、最後の練習をしてくる」

 香穂さんは、僕の不機嫌に気づかない。
 いや、気づいていて、素知らぬふりをしているのかな。
 どちらにしても、僕の抑えは効きそうにない。
 僕は、香穂さんが持っていたヴァイオリンを取り上げると、花束が置いてあるテーブルの端の方に追いやった。
 ガサリと鳴ったリボンが小さな悲鳴のように思えて、僕はそれを可哀想に思う。

「加地くん?」
「君が悪いんだよ。そんなに可愛い格好をして、僕を挑発するから」
「はい? 待って。止めて……っ」

 僕の行動が何を意味指すか悟ったのだろう。
 香穂さんはジリジリと部屋の隅に下がっていき、やがてこつんとヒールが壁にぶつかった。
 秋色のこっくりとした壁の上、香穂さんの白いドレスが標本のように張り付いている。

「大丈夫だよ? ……ただし、君がおとなしくしていたら、の話かな。
 可愛いドレスも破らないし、肌にも傷をつけないことを誓うよ」
「でも、私、少し練習したいの」
「君はまだあの男と2人きりになりたいの? こんなにも君を大切に思っている僕がいるのに」
「違う!」

 スカートの下、ふんわりと何枚のシフォンが重ねられているバニエをめくると、僕は改めて香穂さんの下着に見入った。
 薄い色のストッキングを何本かの金具が留めている。
 大人っぽい、僕が見たことがない下着が、もっと僕を挑発するかのように見返してきた。

「ふふっ。あの男のために、香穂さんはこんな可愛い下着まで身につけるの?」
「違うの。加地くん、あの……、落ち着いて? 演奏がすんだら、ゆっくりお話しよう?」
「いやだ。演奏が終わったら、もう、僕と君との時間は存在しないかもしれないのに」

 白いガーターベルトの下、彼女の大事な部分を覆っている華奢な下着に手をかける。
 そして香穂さんの腰を反転させると、自分の高ぶりを香穂さんに押し当てた。

「これ以上したら……っ。こんなことしたら、私、加地くんを軽蔑する」
「優しい君にそんなことができるのかな? 僕はね、一度捕らえたら離さない。見境もなくなるし、分別も失うんだ」

 僕は、香穂さんを可愛がることもせず、後ろからいきなり分身を突き立てる。
 化粧台の上、香穂さんの手が必死に理性をつなぎ止めるかのように握られている。
 いつもなら香穂さんの手が大切で、僕は自分の手をクッション代わりに重ねるところだけど。
 今日はそんな余裕はどこにもなかった。
 香穂さんは目尻に涙を浮かべて、僕の行為に耐えている。

「綺麗だよ。香穂さん。世界中の美しい言葉で、君を飾り立てたいくらいだ」
「こんなのは、いや……っ」
「そんなこと言って。目の前を見てごらん?」
「な、なに……?」

 香穂さんは僕の言葉にのろのろと顔を上げた。そこには、大きな鏡が僕と香穂さん2人の行為を忠実に映している。

「いや……っ。酷いよ、加地くん」
「とても綺麗だよ。君はいつもこんな顔で僕に抱かれてるんだ」

 今まで僕たちが作り上げてきた『慣れ』が、彼女をそうさせるのか。
 それともこんなシチュエーションに香穂さん自身も興奮したのか。
 いや、それは、僕自身の勝手な思い込みだろう。彼女は本当にいやがっていたのだから。
 だとしたら、身体の快感と心は関連付いてはいないのだろうか。
 人は、粘膜の摩擦だけで簡単に達することができるのか。
 ──── たとえ相手が愛する人ではなくとも。
 そうでも定義づけなければ、僕の身体で達してしまった彼女の身体を、どう説明すればいいのだろう。

 やがて彼女は大きく身体を震わせると、膝がガクリと重心を失い、前のめりなった。

「香穂さんわかる? 今、君は僕のでイッたんだよ?」

 僕は背中越しに、目の前の白い首筋に跡をつける。
 ここなら、香穂さん本人は、鏡を覗き込んだときに気づかない。
 それでいて、香穂さんと一緒にデュエットをする才能溢れる男は、気づく場所。

 僕自身を包んでいる場所が荒い呼吸をしているかのように、トクトクと収縮している。
 ──── 絶え間ない罪悪感と、その周囲に点滅しているほんのかすかな達成感。



 僕は自身の分身を抜き取ると、声もかけずに香穂さんの楽屋を後にした。
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