「ねえ、香穂子〜。たまには一緒に帰ろうよ。あの例のタコ焼き屋さん、新しい味が新登場したんだよ、知ってる?」
「ごめん。私、今週、掃除当番なんだ。……新しい味が登場したの? 乃亜ちゃん」
「うん。それも、『生クリーム味』! ホントに生クリームが入ってるの」
「タコ焼きなのに、生クリーム?」
 
*...*...*  Embrace 2  *...*...*
『義務教育じゃないんだもの。掃除なんて、授業料上げて、学院が掃除会社と契約すればいいのに』

 っていうクラスメイトもいるけど、私は掃除の時間がそれほどキライ、っていうワケじゃない。
 ううん、実は、結構好き……、な方かも。
 カバンだって、クツだって、丁寧に磨き上げた週明けは、ホコリが付いていた前の週よりも、もっともっと愛着が沸いてることに気づく。
 制服だって、そう。
 冬服はあまり洗わない、という友だちも多いけど、私は週末ごとに丸洗いしちゃうタイプだ。
 あまり洗うと色が抜けるわよ、とお姉ちゃんはあきれ顔だけど。いいんだもん。そうすることが好きなんだから。

「私、行きたい。ごめん、乃亜ちゃん。ちょっとだけ待ってて。急いで掃除、やっつけるから」
「了解〜。掃除終わるのって、15分後だっけ? じゃあそれくらいに正門前で会おうか。どう?」
「わかった。急いでやるね!」
「あはは。タコ焼きクンは逃げないから、頑張ってやっておいでよ。香穂子」

 私は乃亜ちゃんの声に押されるようにして、掃除道具入れにあるぞうきんとバケツを取り出した。
 毎週水曜日の今日は、黒板の水拭きの日。
 床掃除は、別の子がやり始めているし、私はこっちを片付けよう。

 ザブリ、と水をいっぱい含んだぞうきんは、緑色の黒板を黒い鏡のように光らせる。
 上から下へとまっすぐ水の線を書く。
 すべてを鏡に仕立ててから、最後にチョークが置かれている部分のホコリを拭き取れば完璧だ。

「香穂さん? 今日は掃除当番?」
「あ、加地くん。……うん。タコ焼きを目標に頑張ってるところなの」

 ちょうど体育から戻ってきた加地くんは、体操服が入っているスポーツバックを片手に、私に少しだけ不愉快そうな表情を向けた。

「……感心しないな。そういうの」
「え?」

 思ってもみない言葉に、私は驚いて加地くんを振り返る。
 えっと……。えっと、やっぱり不純だったかな。タコ焼き目当てに掃除頑張る、って。
 違う。
 もしかして加地くんは、ヴァイオリンの練習をしないで遊びに行く私が『感心しない』って言ってるのかな? どっちだろ。

「あのね、たまには練習もゆっくりにして、少し遊びに行きたいなあ、って……。最近乃亜ちゃんと遊んでないから」
「ん? ああ、違うよ。僕が『感心しない』って言ってるのは、こっちのこと」
「こっち??」

 加地くんは、せっせとぞうきんを絞る私を見て渋い顔をしている。

「なにも、香穂さんがそんなことをしなくてもいいんじゃないかな?」
「そう? だって黒板キレイになると気持ちいいでしょう? 見て?」
「これからは僕に言ってくれればいいんだよ。こういう誰にでもできる仕事は適当に僕が別の人に割り振るから」
「う、うん……」

 加地くんの目の色はどこまでも澄んでいて、そこに悪意の欠片は何一つ無い。

 わかってる、こと、だけど……。
 なんだろ。
 私が、良い、って思ってやっていることに対して、加地くんは、よく『やらなくてもいい』っていうことを言う。
 掃除も、そう。お料理も。
 お弁当を作る私に、指を痛めたらどうするの、って。だったら僕が作ってくるよ、って。

 そのたびに、私は自分自身が萎縮してしまう気がする。

 だけど自分の気持ちを伝えることは、加地くんの好意を壊してしまうような気がして、どうしてもできない。
 むしろ、こんなコトを思ってしまう自分が本当はとてもイヤな人間なのかも、って嫌悪するんだ。

 夏の風は、さっきまで黒々と光っていた黒板を不格好なストライプに染め上げている。
*...*...*
「乃亜ちゃん! お待たせ。ごめんね、待たせちゃって」
「香穂子、早かったじゃない。じゃあ、いざ、目指せ、タコ焼き!」
「うーん。考えただけでお腹空いてくるよね」

 梅雨明けも間近なのか、太陽は我が物顔で空一面に夏の日差しをぶつけている。

「香穂子、最近、練習頑張ってるじゃない。ちょっとリフレッシュした方がいいかなあ、って思って誘ったんだ」
「乃亜ちゃん、ありがとう〜。今日はちょうど衛藤くんも個人レッスンがあるって言って、私、フリーだったんだ」
「ふっふっふ。そのことはすでに須弥経由から情報入手ズミだったのだ」
「あはは。そうなんだ」

 週末には吉羅さんの発案で、私と衛藤くんの小さなコンサートが開かれる。

 そのための練習は9割方完成しているし、何しろこんなに良い天気なんだもの。少しくらい息抜きするのも悪くないって思える。
 2年生の頃はそれがわからなかった。
 練習しないことはすなわち遅れることだ、って考えていたし、遅れることはすなわちみんなの足を引っ張ることだ、って思ってた。
 だけど今は、思い切り遊んだ翌日というのは、自分が考えているよりも音は悪くない、っていうことを経験から知った。
 気持ちの豊かさが音に跳ね返されるんだ、って知ったのは3年生に入って少し経ってからのことだったと思う。

 須弥ちゃんも誘ったけど、内田くんと先約があると言っていたらしく、今はここにはいない。

 タコ焼き屋さんはかなりの盛況ぶりで、私たちは15分ほど待ってから、店内の一番奥のテーブルに座った。
 焼きたてのタコ焼きの上のカツオブシは、丸々としたタコ焼きの上、酔っぱらったみたいに踊っている。

「で? どう? 香穂子は加地くんと上手く行ってる? って、あの加地くんの尽くしっぷりを見てると、上手く行ってて当然か」
「う、うん……」
「いいよねえ。ルックス良し、家柄良し、成績良し。何もかも揃った人ってこの世の中にはいるっていう見本だよね」
「うん……」
「もちろん谷くんもいい人だけど。あたしがこうやって他の男子のウワサすると、すぐ怒るから困っちゃうんだ」

 私はそっと息を吐いて、手にしていた箸を下ろした。
 ──── そうなんだ。そんな風に見えるんだ。私と加地くんは。

「ん? どうしたの、香穂子」
「ごめん。こんなこと言って……。その、私、少し、重いの」
「香穂子?」
「その……。ごめん。加地くんの気持ちが」

 人に話す、ってことは、自分の気持ちを整理することにもつながるのだろう。
 クチに出したとたん、私の気持ちは、ふわふわとしたカタチの無いモノから、
 急にピントがあったメガネのように、しっかりとした輪郭のあるモノに変化した。

 私が加地くんを好き、っていう気持ちは変わらない。ううん。つきあい始めたときよりも好きになってる。自信がある。
 だけど、本当のことを言えば、少しだけ重たい、っていうのも事実だったりする。

 加地くんのような素敵な人が、最初はヴァイオリンが縁だった、としても、私のことを思ってくれる、って本当にすごいことだって思う。
 加地くんのスマートなエスコートぶり、とか、いろいろなことをさりげなく教えてくれる優しい性格、とか。大好き。

 十分優しくしてくれる。それは嬉しい。わかってる。だけど……。

 乃亜ちゃんは、黙ってる私の頭をよしよしと軽く撫でると、窓の外に目を遣った。
 透き通った目には、澄み切った夏の空が映っている。

「結局さー。友だち同士でどれだけ言葉を尽くして話し合ったとしても、当事者同士しかわからないこと、っていっぱいあるよね」
「乃亜ちゃん……。だって、谷くん、すっごくいい子じゃない」
「ほら。香穂子もそんなこと言う。それ言ったら、あたしから見た加地くんだって完璧だよ。香穂子の悩みはむしろゼイタクって感じがする」
「そうかな……」

 多分、って想像していたとおりの答えを乃亜ちゃんからもらって、私はもう1度ため息をついた。

「不安なんじゃないかなあ。加地くん」
「え?」
「香穂子ってどこか頼りないもんね。なんか、他の男にかすめ取られそう、っていうか。
 最近は、カッコいい後輩くんとしょっちゅう一緒に練習してるし」
「あ、えっと……。後輩って、衛藤くんのこと?」
「うん。そうそう。どこか硬派で、でもヴァイオリンの音は、足を止めずにいられない、っていうのかな。素人のあたしでもスゴイ、って思うもん」
「わかる。引き込まれちゃうよね」

 なんとなくだけどさ。と乃亜ちゃんは口をすぼめて話し続けた。

「あたしにはよくわからないけど、加地くんも楽器やってたじゃない。
 だけど、週末のコンサートは、あんたとその後輩くんのデュエット、なんでしょ?」
「うん……」
「ってことは、加地くんのヴァイオリンは、後輩くんのヴァイオリンには敵わない、ってことなんでしょう?」
「えっと、加地くんの楽器はヴィオラだよ。ヴァイオリンとよく似てるけど、違うの」
「そうなの? 私からしてみたら違いがよくわからないけど。
 とにかく、男って、どうでもいいところ気にするじゃない。加地くんとしては面白くないかも」
「そう、なのかな……?」

 乃亜ちゃんは白いノドを反らしてジンジャーエールを飲み干すと、店員さんを呼んでもう1杯同じモノを注文した。
 あなたはどうしますか? と店員さんに言われ、私は首を振る。
 あ、この前の加地くんのお父さんのパーティに行った時、加地くんに『飲み物の正しい断り方』を教えてもらったんだっけ。
 こう、慌てて首を振る私を、加地くんは少女みたいだと笑ってた。

 君の歳なら、もう、ウェイターにニッコリ微笑んで、グラスの口に手でふたをすれば良いんだ。
 君の白い手と笑顔に見とれて、彼らは何も言えなくなってしまうはずさ。……って。
 でもどう考えても、やっぱりその考えは加地くんの買いかぶりすぎ、なんだ、って気がする。

 早く飲んだら? と言わんばかりに、私のコップには水滴がびっしりと張り付いている。

「私、ちゃんと加地くんが好きだよ? 本当に」
「って、本人にキチンと伝えてないんじゃない? 加地くんと同じくらい、香穂子も加地くんを好きになればいいのかも」
「うん……」
「って、加地くん、香穂子に関してだけは、ラテン系の男だよねえ。近くにいるこっちが赤くなっちゃうくらい!」


 乃亜ちゃんの話を聞きながら、私はいろいろなことを思い出していた。

 初めて彼が入ってきたとき、あまりの痛さに息が止まるかと思った。
 恥ずかしいのばかりが先走って、誘われても素直に『うん』と言えない自分がいた。
 なのに……。
 忌々しいのは、そんな加地くんの身体に、素直に反応してしまう自分がいる、ってことだと思う。




 加地くんが何度も強く抱く日と、衛藤くんと一緒に練習をした日とが重なることを知ったのは、一体いつのことだっただろう。
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