最近は、とうの昔に忘れたと思っていた感情が、自分の中をせわしげに動いているのに気づくことがある。
ふと、声が聞きたいと思っているタイミングで、電話がかかってきたり。
同じ言葉を言いかけて、思わず顔を見合わせて笑ってしまったりする。
シンクロ、っていう感覚は、ますます相手のことが好きになる効果もあるらしい。
(さてと。あいつは今日はどこにいるかな)
空を見て、風の向きを感じて。俺は日野の今日の練習場所を当てる。
俺だけのゲームを始めたばかりの頃、俺の当てる確率は4番打者程度のもんだったが、今では7割くらいか。
そんなことも、今のささやかな楽しみなんだよな。
梅雨の合間の7月の空は、これから始まる夏のことしか考えていないようなすっきりとした色をしている。
*...*...* Embrace 1 *...*...*
「ほーらな。目下9連勝ってところか。俺もなかなかやるなあ」「あ。金澤先生!」
俺は屋上に向かうドアを勢いよく開ける。
思ったよりも風が強い。
階段の影、俺の思い描いていた女生徒は慣れた手つきで譜面台を組み立てていた。
「えっと、9連勝、ってなんですか? 野球のお話?」
「あ? いんや。こっちの話。お前さんは気にしなくていい」
「はい……」
きょとんとした顔で俺を見るも、なんとなく状況を察したのだろう。
日野はふっと恥ずかしそうに視線を足元に落としたあと、フェンスの向こうに見える海に目をやった。
この星奏学院は、街にも自然にも恵まれた場所だと思う。
アールデコ調の重厚感のある設備。あちこちに点在する自然。
遥か遠くには、海と空が見える。2つを隔てているのは横一本の白い波だ。
「── ここ、私の好きな場所なんです」
「ここ? 屋上が、か?」
「はい。屋上の中でも特にこの場所が。その、景色も好きで、それと、……ほら、見てください」
日野が指さすところに目を向けると、そこには拙い字面が踊っている。
『絶対優勝するぞ!』
『優勝するのは俺だ』
まったく。
若気の至りでマジックで書いたはいいが、その後10年以上も存在し続けるなんてあの頃の俺は考えたこともなかった。
吉羅の字と、俺の字。
その間に残る小さな字。これは美夜の筆跡だ。
吉羅をからかって遊んでばかりだった俺は、よく美夜に優しくたしなめられたものだった。
『姉さんは、どうしてそんないい加減な同級生をかばうの?』
『暁彦。先輩に対してそういうことは言わないのよ? ……ごめんね。金澤くん』
ってまだ幼さが残る吉羅の声も思い出せる。
にしても、どうして今のあいつはアソコまでガチガチの堅物になっちまったんだろう。
「なんだかね。この場所で練習してると、金澤先生と吉羅さんが私の同級生のような気がしてくるんです。
あと……。1度も会ったことはないけど、吉羅さんのお姉さん? 彼女も一緒に弾いてくれてるかなあ、って」
「……そうか」
「1番集中できる、っていうのかな。今日1番の音が出せるの」
日野はヴァイオリンを肩とあごで挟むと、幸せそうにペグの様子を確かめている。
── 去年の春から、もう、何度日野のこんな姿を見ただろう。
最初は危なっかしいばかりだった。
コンクール取りまとめの役を押し付けられ、ウンザリしてた。
その上、楽器も触ったことない女生徒にヴァイオリンで出場させるなんて、リリも俺と同様いい加減なヤツだと思った。
だが。
日野はリリさえも想像していなかったしなやかさを備えて、今ここにいる。
「……おや。日野君か。金澤さんも。楽器の音がしなかったから、今日はこの場所は私の貸し切りかと思っていたよ」
「よお。吉羅。珍しいなお前さんがこんなところに」
ちょうど死角になっていたのだろう。
カツリと革靴がコンクリートを蹴るような音がすると振り返ると、
そこにはこの暑い時期にも関わらず びっちりとグレーのスーツを着込んだ吉羅が立っていた。
元々落ち着きのあるヤツだと思っていたけど。
理事に就任してからもうすぐ1年。今じゃ俺よりもずっと老成しているようにも見える。
世間ってのは残酷だからな。
案外俺と吉羅、2人で並んで店に入ったら、今じゃ確実に扱いが違いそうな気がする。賭けてもいいくらいだ。
「3人でここで会うのは久しぶりですね。……卒業式以来だろうか」
「おー。そうそう。お前が見て欲しいものがある、って俺とこいつを誘ったんだった」
「いや。私は金澤さんを誘ったつもりだったのですが」
そう言って吉羅さんは、懐かしそうに壁の字に目を当てた。
「……たまに来るんですよ。1人になって考えたいときに。
日野君にとっても、ここがとっておきの場になったのなら嬉しいと思うがね」
1人になって考えたいとき。か。
そうだよな。理事だか理事長だか、って言っても仕事の大半は、あの小うるさい理事たちを言いくるめ、言い負かすこと。
それに加えて、学院のクオリティを上げるための、説明、宣伝。
いくら才能がある吉羅にしたって、たまにはなにもかも放り出したい、と思う時もあるだろう。
吉羅は、懐かしそうに俺たちが昔書いた落書きを見つめている。
「私と金澤先輩は、いろいろなことで好みが似ていてね」
「はい? 好み、ですか?」
「おいおい。吉羅。こいつに余計なこと吹き込むなよ」
軽くけん制をかけたものの、吉羅はまるで俺の言ってることが聞こえないかのように、淡々と話し始めた。
「若い頃は些細なことで張り合ったものだ。音楽の好み、服の趣味。そして、気になる女の子のタイプまでもね」
「は、はい……」
日野はなんて相づちを打ったらいいのかわからないのだろう。複雑な表情で俺の方を見上げてくる。
「日野君。金澤さんでは、いろいろ至らないところもあるだろう。何か困ったことがあれば速やかに私の方に申し出てくれたまえ」
「ありがたい申し出だけどな。今のところ、その仕事は俺で全部足りてるよ」
「……なるほど。そういうこと、ですか。よくわかりましたよ」
吉羅は得心顔で頷いている。
「おい、吉羅……」
「だが、たとえ日野君が金澤さんの想い人だ、と仮定しても、
星奏の広告塔である彼女に、私も少しくらいの親愛の情を示すのは、構わないと思いますよ」
余裕に満ちた笑顔でそう言われて、俺は初めて、吉羅が俺と日野の関係を計っていたことを知った。
しまった。俺はわざわざ吉羅に一杯食わされたってことか。
吉羅は、ふっとため息をつくと、ドアの方へ足を進めた。
「最近日野くんの音には艶が出てきたと思っていたが……。理由があったわけですね。金澤さん」
*...*...*
「金澤先生。あの……。今、お邪魔してもいいですか?」「なんだー? 猫のカホコみたいにおずおずと。いいから入って来いよ」
午後6時を過ぎた頃、今度は日野が俺の居場所を探し当ててやってくる。
音楽室の、さらに奧の音楽準備室。
一応それなりに防音効果もある。
それをいいことに、俺はこの春吉羅に頼み込んで、ピアノ1台分の予算をこっちに回してもらった。
練習室のピアノより、ずっとダウングレードのアップライトピアノだ。
値段と価値は比例する、とは思っているけれど、ある値段を超えたところからは、価値は持ち主が決める、って思っている。
つまりは、俺が可愛がれば、ピアノの方も、それなりの音で応えてくれる、ってことさ。
日野は俺のピアノを弾く姿を珍しそうに見ている。
「一応音楽科卒だしな。現役のピアノ科にはかなわないが、今でもこれくらいは弾ける」
「すごい……。圧倒されそう」
「音楽の基礎はピアノにある、っていっても過言じゃないだろ?」
日野がコンミスをやりきった市の音楽祭のことを思い出す。
こいつのオケは、数ある団体の中でも大盛況で。
舞台の上で、喝采を浴びる日野は、誰よりもまばゆく輝いていた。
そのとき思ったんだ。
── 俺も、こいつに誇れる自分でありたい、と。
吉羅の理事長就任式で、俺のことをさんざん罵倒していた理事たちに今度会ったとき。
足早に走り去る俺じゃなくて、今の自分をありのままに話せる俺になりたいってな。
俺は、ピアノのそばにそっと寄り添って耳を傾けている日野の横顔に目を当てる。
まったくこいつの影響力ってのは、すごいよ。
このグータラな俺から、こんな力を引き出すなんてな。
「……ご静聴感謝いたします、ってか。今日の練習はここまで」
「ブラボーです」
日野は上気した顔でパチパチと手を叩いた。
「いや。こんなの、お前さんのヴァイオリンと比べたら、月と何とか、だろ?」
「そんなことないです。素敵でした……」
「まあ今日は、聞き手が良かった、ってことにしておこうか?」
俺は横着に腕を伸ばすと、日野の腰を絡め取る。
椅子は2人分の重さに耐えかねるように、鈍い音を立てた。
「その、なんだ? お前さん、ってさ、今、困ってることとか、悩んでることってあるのか?」
「どうしたんですか? いきなり……」
「いや。その……さ」
言いかけて、口をつぐむ。
日野は突然の俺の行動にワケがわからないといった風に、俺の膝の上、身体を縮ませている。
言われてぱっと思いつかない、ってことは、日野はさっきの吉羅の言ったことなんて、気にも留めてない、ってことか。
── だが、やっぱり面白くない。
元々、あいつは高校生の時から、まじめくさってカタブツで面白くないヤツだった。
だけど、誰よりも情が深くて、強くて。
そういうあいつを俺も心の奥底ではアテにしている。それもわかってて。
そう。俺自身が1番よく知ってるんだ。あいつは強敵だ、って。
今は、俺へのほんの少しの遠慮があるだけ。
もしあいつが本気で日野のことを奪っていこうと考えたなら、もっと堂々と、正攻法で向かってくるに違いない。
日野のあごを持ち上げ、口づけながら考える。
あいつが本気を出したなら、俺は吉羅を負かすことができるのか……。なんてな。