*...*...* Embrace 2 *...*...*
「ウメさん。……今日はここにいたの?」

 今週いっぱいは中間試験の最中だからか、日頃、賑やかな声がする森の広場は閑散としていて、いつもより広く寂しげに見える。

 ウメさんも、人恋しかったのかな。
 私を見つけると、ニャンと小さな声を挙げてゆっくりとしっぽを2回振った。
 その仕草は去年の今頃よりどっしりと落ち着いていて、ウメさんがお母さんだったことを思い出させる。

 だからなのかな。
 私は何かあるたびに、ウメさんに話を聞いてもらっている気がする。

 王様の耳はロバの耳。
 じゃないけれど、私がこの森の広場の主にいろいろなことを告げることは、穴を掘った地面にささやきかけるのと同じ。
 誰の耳にも入らない。── だから、私の悩みごとは本当の秘めごとになる。

 とはいえ、明日のテストが全く気にならないというわけではないから、私の手はお守りのように古文の教科書を握っている。
 理系の教科よりは、かなり気が楽、かも。

「ねえ。ウメさん。ウメさんのダンナさんは、優しいネコちゃんだったの?」

 ウメさんは、子猫を産んだとは思えないようなすっきりとした足取りで私の膝で丸くなった。

「私の好きな人はね……。優しいことは優しいんだけど、その、なんて言うんだろ……」

 ウメさんからは、小さな体温と一緒に、規則正しい心臓の音も聞こえてくる。
 私は弦の調子を見るように人差し指でそっとウメさんの首を撫でた。

 金澤先生と話をしていて、思うことがある。
 金澤先生は今のことは話してくれる。私と出会ってからの1年と少し。その前後の話を良くしてくれる。
 そして、私が今、高校生だからかな。高校時代の話もしてくれる。
 あと、私と金澤先生の共通の知り合い、だからかな、吉羅さんのお話もよくしてくれるって思う。
 以前は坊ちゃん然としてたが、環境が人を作るっていうのはあながちウソではないらしいよな。
 今じゃすっかり悟りすましてて、理事に見えなくもない。30そこそこで理事なんて、あいつも出世頭だよな。
 あいつも、伸びやかないい音を出すヴァイオリニストだったんだが、今はカネが恋人なのかねえ、とか。

 だけど、ところどころ、不自然だな、って思うこともあったりする。
 その、高校を出てから、その、イタリアに行ったときのこと、そして日本に帰ってきたときのこと。
 そのあたりの話は、丁寧に迂回してる、と言ったらいいのか、あまり話してくれない。

 その……。先生は、どんな人とつきあったのかな、とか。
 先生は私より、ずっと大人なんだもの。
 今、私にしてるようなことを、他の女の人ともたくさんしてきたのかな、って。

 馬鹿みたいだ。見えない過去に嫉妬して勝手に苦しんでいるなんて。
 今の金澤先生は、昔の金澤先生をいっぱい つなぎ合わせてできているの、わかってるのに。

「香穂さん」
「あ、加地くん?」

 突然背後からの声に振り返ると、そこには加地くんが立っていた。
 逆光で表情はよく見えない。
 だけど声は優しくて、そのことに少しだけほっとする。

「香穂さんは、試験勉強、大丈夫なの?」
「あはは……。今は現実逃避なの」
「ふふっ、僕も。まあ明日残っているのは文系の教科だけだしね。やってもやらなくても同じ。
 今更焦るのも滑稽かな、って思ってさ」
「羨ましい……。加地くんらしい」

 私は隣りの男の子を改めて見つめる。
 けっしてレベルが低いというわけではない星奏に、あっさり編入できたのも、そもそもすごいって思ってたけど。
 加地くんって、ちょっと普通の高校生とは違う。
 大人びたところをいっぱい持ってる人だって気づいたのは、席が隣どうしになってすぐのことだった。
 考え方が、行動が、理解の仕方が、高校生の私より、ずっと先に行ってる、って感じることが多いんだもの。

 加地くんはするりと私の横に座ると、手を伸ばして膝の上にいるウメさんを撫でた。

「香穂さんは本当にすごいね」
「え? いきなりどうしたの?」
「高3になって。僕は君が土浦みたいに音楽科に転科するのだと思っていたんだ」
「ん……」
「だけど、君はそういういわゆる社会的なシステムの枠に入らない……。
 いや入る必要のない人なんだって、僕は改めて気づかされたよ」
「ううん? 私、そんな深い理由があったわけじゃないの」

 高3に進級するとき、吉羅さんから音楽科への編入の打診があったのは事実だったけど。
 私は、私のペースで音楽を楽しみたい、って思ったし、今の仲良しの子と離れるのもイヤだった。

 そして、もっと言うなら……。
 こんなことを言ったら、もっと音楽を真剣に考えている人たちから非難されてしまうかも、だけど。
 ── 私は、金澤先生の近くにいられたら。
 金澤先生と私との間に、音楽、という話題があったら、それで幸せだ、って思えたから。
 音楽科普通科の入れ物はどうでもよかった、って言ってもいいくらいなんだもの。

 加地くんは、そこでふと、言葉を選ぶように唇を舐めた。

「君が音楽科を選ばなかったとき、僕、これでも密かに『勝った』って思ったんだよ。
 先輩たちは卒業した。月森は海外へ。土浦は音楽科だ。
 これでもう僕は香穂さんの1番近くにいることができる。もう、僕は誰にも負けない、ってね」
「うん……。いつも近くにいてくれるよね。ありがとう。いっぱい勉強も教えてくれて」
「── それって、素直にそう言ってるんだよね。だから、僕としても余計手出しができないっていうか。
 僕も誤算だったよ。君のまわりには、学生しかいない、って思い込んでいたんだから」
「はい?」

 ときどき、加地くんはよくわからないことを言う。
 手出し? って、加地くんはなにが言いたいんだろう……。学生しかいない、って?

 ウメさんは、眠気が覚めたのか、器用に顔を手でこすると、今度は思い切り大きな伸びをした。
 加地くんはそんなウメさんの額を長い指で撫でている。
 誤算? ……私のまわり? なんのことだろう。
 加地くんは私のどんな表情も見逃すまい、というような鋭い目つきで私のことを見ていたけど、やがて小さく首をすくめて笑った。

「ふふっ。閑話休題。ねえ、香穂さんは、谷崎って読む? ちょっと昔の作家だけど」
「ううん? えっと、加地くんが読む、っていうと、明治の作家さんなのかな?」
「ご名答」

 加地くんは、今心惹かれてる、という作家さん、谷崎潤一郎について熱っぽく語り出した。
 耽美主義の代表の人だ、ということ。女性を語らせたら、当代1の人だったということ。
 複雑な人間関係を糧として文学を育てた人だったということ。
 理路整然として、それでいて温かな言い回しの文体の作家さんだということ。
 そうだ。私、考えてみたら、加地くんの勧めてくれた本、って全部読んでるかも。

「── 僕は残酷な人間だと思ったよ。『痴人の愛』を読んだとき、僕はヒロインと君を重ねて読み進めていったんだから」
「あ、私、『痴人の愛』は読んだことがある。一部分だけだけど教科書に載っていたよね」

 確か主人公は、カフェの女給をしていしたヒロインを見初め、家に引き取る。
 初めは上手く行っていた2人だったけど。
 やがて力関係が逆転して、ヒロインのいいなりになった主人公が破滅してしまう話だ。

 ヒロインは肉感的な美しい人、って話だったから、どうしたって私とは似ても似つかない、と思うのに……。
 どうして私とヒロインが重なるんだろう?

 納得がいかない表情を浮かべていたのだろう。
 加地くんはひどく暗い目をして笑った。

「僕はね。君の近くにいる男も、君の虜になって破滅してしまえばいいのに、って思ったんだよ。
 そして、その後でもいいから僕の1番になってくれればいいのに、って。本当、人間って残酷だよね」
*...*...*
「香穂ー。久しぶりだね。あんたと話したいこと、いっぱいあったんだ。あんたのことも気になっていたし」
「うん。私も」

 この日は珍しく天羽ちゃんと一緒に帰る約束をした日だった。
 月に1度か2度。報道部の〆切日の翌日、が多いような気がする。

 試験期間だから、別の日にする? と聞いてみたけど、天羽ちゃんは文章を書くテストは勉強しなくても大丈夫なんだ、と軽く笑って、
 予定通りにしよう、という約束になった。

 天羽ちゃんと一緒に帰って、いろいろな話をする。
 いつもなら冬海ちゃんが加わることが多いんだけど、この日は夏の定演の練習があるとかで、
 何度もごめんなさいを繰り返していたっけ……。

 みんなと一緒にやるアンサンブルが不安で。とにかく時間さえあれば練習ばかりしていた冬を思い出す。
 練習をしていれば『なにもしない』、という不安からは逃れられることができたけど。
 そんな私を天羽ちゃんは半ば強引に放課後遊びに行くことを提案してくれた。

 そのときは、遊んでいる自分に罪悪感があったのは事実。
 だけど思い切り楽しい時間を過ごした翌日、その前まで上手く弾けなかったフレーズがさらりと弾けたとき思ったんだ。
 ── 好きな人と過ごす時間って、必ず音楽にも反映されるんだ、って。

「香穂。この店だよ!」

 この日、天羽ちゃんは報道部の後輩が見つけてきた、という先週開店したばかりのジェラートのお店に連れて行ってくれた。
 壁には大きなポップが踊っている。

「なんでも後輩の話だとさ、コーンの部分、っていうの? ワッフル生地が最高なんだって!」
「そうなんだ−。これから暑くなるし、私リピーターになっちゃいそう」
「そうそう。冷たい食べ物ってどれだけでも入っていくよねえ」

 ショーウィンドウの中には、色とりどりのジェラートが並んでいる。
 店員のお姉さんが かぶっているベレー帽も、夏らしく、白地に紺のリボンが可愛らしい。
 店の中にはちょっとした食器も一緒に販売もしているみたい。
 ほっこりとしたベージュのマグカップ。なんだか、金澤先生が気に入りそうなデザインかも。

「で、香穂、どれにする?」
「どうしよう……。どれも美味しそうですぐには選べないよ〜」

 ジェラートはどれも淡い色ばかりで、1つ1つが宝石のような儚げな色をしている。
 『白桃』と『ピオーネ』。白桃はオパールのような、そして、ピオーネは、5月の葉桜のようなペリドットだ。

「なに? 香穂。この2つで悩んでるの? いっそ両方頼んじゃえば?」
「うーん……」

 私はそっと まわりのお客さんたちを観察する。
 あっさり系のジェラートだから、多目でも食べることできちゃうんだろうけど……。
 残したときカバンに入れて帰れないのが、ジェラートの良くないところだって思う。
 だからと言って、私の食べかけを天羽ちゃんに食べてもらうわけにもいかないし。

 友だちと恋人との違い。
 それは食べきれなかった食べ物を何のためらいもなく差し出せるかどうかだ、って最近知った。
 もし、今、隣りに金澤先生がいてくれたら、私、ぜったい『白桃』と『ピオーネ』どっちもオーダーするに違いないもん。

 天羽ちゃんはシンプルな抹茶のアイスを頼むと、早速ほおばっている。
 私もあわてて『ピオーネ』をオーダーした。
 店員さんはてきぱきとジェラートを盛りつけ、白い歯を見せて手渡してくれる。

 天羽ちゃんは1番角のテーブルに腰掛けると、早速私の耳に顔を寄せた。

「ねえねえ。あんまり学院では聞けないんだけどさ、香穂。金やんとのこと……。上手く行ってるの?」
「ん……。上手く行ってる、って思いたい、かな?」
「思いたい?」
「うん……。なかなか自信が持てなくて」

 乃亜ちゃんや須弥ちゃんの話を聞いてると、なんのためらいもなく『好き』って言葉を伝えあってるんだな、って思うことがよくある。
 だけど……。
 私と金澤先生の間では、そんな言葉、言われたこともないし、言ったことも……。ほとんど、ない。
 それに人目もあるから、そんなにしょっちゅう外でデートもしたこと、なくて。
 会うのは、学院か、金澤先生のアパート、だもの。

 その……、少し、淋しいかも。

 私がぽつりぽつりと話すと、天羽ちゃんは元気づけるように何度も大きく頷いた。

「まあさ−。金やんも香穂を大切に思ってない、とかじゃなくてさ。ただ、立場上の問題なんじゃないの?
 あと半年もしたら、堂々といろんなところに2人して行けるって」
「うん。そうだといいなあ」
「だけど、生きてるのは、今、この時間なんだから、今を楽しくしなきゃね。あ、そうだ、香穂ちょっと待ってて」
「え? うん」

 早々にジェラートを食べ終わった天羽ちゃんは、紙ナプキンできゅっとクチの端をぬぐうと、席を立つ。
 そして私がピオーネをようやく食べ終えたころ、紙袋を手にして戻ってきた。

「ほら、香穂に元気づけ。これでさ、ちょっとでも金やんとの時間を充実させてよ」
「えっと、なあに? これ……」
「あんたさっき穴があくほど、このマグカップ、見てたでしょ? ペアで買ったからさ、金やんのアパートでこれを使う、ってのはどう?」
「そ、そんな! もらえないよ……、誕生日でもないのに」
「いいのいいの。バイト料が入ってこの天羽さん、ご機嫌なんだから。── それに」
「天羽ちゃん……」



「親友のあんたが笑ってくれてた方が、私も嬉しいしね」
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