*...*...* Embrace 4 *...*...*
どれくらいの間そうしてたんだろう。私はマグカップを拒絶されたことよりも、目の前の金澤先生の行動にあわてていた。
腕の中の金澤先生は泣き疲れた子どもみたいな悔しげな顔をして、私の胸に口づけたり額を擦りつけたりしている。
ときどきチクチクするのは、彼のあごが当たっているから?
金澤先生とこうしたあとは、いつも身体のいろいろなところが こすれて赤くなる。
だけどその痛みは、金澤先生と過ごした時間は私の想像じゃない。事実なんだよ、って教えてくれるみたいで、
私は、いつも傷が治らなければいいと思う。
治らないうちに、また新しい傷がつけばいい、とさえ思うのに。
今日はなんだか様子がおかしい。
なんだろう……。マグカップを見せるまでは、普段と変わらなかったから、やっぱりマグカップが理由なのかな。
まるで自分のことのように、マグカップを買ったことを喜んでくれていた天羽ちゃん。
天羽ちゃんの笑顔に押されて、私、金澤先生がこういうことイヤがるかも、って考えもしなかった。
せっかく買ってくれたのに。今度会ったとき、謝らなきゃ。
ごめんね。一緒に考えてくれたのに、って。自宅で大事に使うから、って。
「金澤先生……」
先生は私の声も聞こえないかのように、私に頭を預けている。
拒絶以上の哀しさがそこにはあった。
どうしよう。今の私は先生に何ができるっていうんだろう。
本当に男の人の身体って大きい。
背の高い人だってことは知っていたけど。
思えばずっと私は抱きかかえられてばっかりで、こうして先生を胸の中に抱いたことなんて1度もなかったんだ。
私の腕なんかじゃ納まりきらない肩の広さ。
時折 ゴクリと動く、喉の骨。── ここに先生の音楽がある。
話しかけるとしても、なにを言えばいいかわからなくて。
私はただ、私がここにいることが伝わればいい。それだけを思って先生の髪をなで続けた。
(今の先生が好き)
先生の昔。気になるけど、もういい。マグカップも、もういい。
先生の未来。先生はふと私を遠い人のように見ることがある。だけど、それももう、構わない。
今の続きに明日があって、明日の続きが未来なんだもの。
今が、続けば、それでいい。『今』がずっと続きますように。
やがて金澤先生は私の腕の中でうっすらとまぶたを開ける。
こんな風に金澤先生を見下ろすことは初めてで。
見上げてくる顔がすごく可愛い。 10以上も年が離れてる人にこんな風に感じる自分も不思議だ。
「昔の女は昔の女。お前さんはお前さんだってのに、なに馬鹿な感情に浸ってるんだろうな、俺は。
ったく女々しいよな〜。こんなマグカップ1つで、グダグダいう男なんてさ」
「いえ。あの……。ここ、金澤先生の家なんだもの。ごめんなさい」
「いや、お前さんが謝る必要なんてこれっぽっちもないだろ?」
「はい……」
「まーた、朱くしちまったなあ」
先生は私の胸元に目を当て、ぺろりと生き物みたいな舌で、順番に舐めていく。
そのたびに身体がぴくりと波打つ。
止めようと思っているそばから止まらない震えを、先生は満足そうに見て笑った。
「久しぶりのことってのは、リハビリが必要なんだよ。どんなことでもさ。ってまだ、若いお前さんにはわからないか。悪かったな」
「ううん。そんな」
「マグカップ、ありがたく受け取っておく。お前も1人でいるときには、遠慮なく使えや」
「あの……、本当に、いいの?」
「お? お前さんのフォローが良かったのか。もう1回できそうだな、こりゃ」
金澤先生は照れくさそうに微笑むと、反り上がったものを下腹部に押し当ててくる。
「金澤先生?」
「うん?」
膝裏にたくましい腕が入り込む。
次に襲ってくるだろう快感に、私は知らずため息をつく。
こんなに乱れる私を、先生、どんな風に思ってるんだろう。恥ずかしくて泣きたくなる。
だけど、またワケがわからなくなってしまう前に、これだけは伝えなきゃ。
さっき金澤先生を強く抱いているときの気持ち、そのままを。
「私……。先生のどんなことを知っても、きっと先生が好き」
「日野?」
「自信があるの。すごく無鉄砲な自信」
「ははっ。お前さんらしいな。……行くぞ」
メリメリと自分の中に熱いものが ねじ込まれていく。
さっきまでとはまるで違う堅さに、身体が勝手に波打つ。
先生はどうにか私の中に収まると、ドクドクと波打っている中に驚いたように眉を上げた。
「ん? 入れただけでイったのか? まったくお前は」
「ごめんなさい。……止められなくて、私……」
短距離走をしたときのような浅い息を繰り返す。
よくわからないけど……。
こういうタイミングって、男の人と女の人、2人一緒の方がいい、んだよね。
私だけ、っていうのは、恥ずかしいし、情けない。消えたくなる。
不安も、重なる。
── 私の身体は、一体どこまで行き着いたら底が見えるんだろう?
ぼんやりと私の上にいる金澤先生を見上げると、先生は喉の奥で小さくうめき声を上げた。
「お前さん、なんて顔してるんだ……」
「先生?」
凄みを増した視線が顔中に落ちてくる。
唇が近づいてくる、と思ったら、今までしたこともないような深い口づけをされているのに気づいた。
歯の1本1本をなぞられ、息苦しさに大きく開いたら、舌までも絡め取られる。ますます結合が深くなる。
息ができない苦しさに胸板を押し上げると、ようやく先生は唇を解放してくれた。
「こういうのを『愛しい』っていうんだろうな」
*...*...*
「ん……?」けだるい身体をようやく起こすと、そこには、電子ピアノに向かっている金澤先生の背中があった。
かすかに聞こえる冷房の音。
冷房が苦手な私を気遣って、いつも私が来ると設定温度を高めにしてくれる。
まだ熱さが残っているのか、金澤先生は、トランクスを身につけただけの格好でピアノを弾いていた。
両手が動くたびに、先生の大きな背中もゆらりと揺れる。
がっしりとした肩とそれを支える一本の背骨が、『T』の字を描いている。
声をかけることも忘れて、私はただ、彼の背中に見入った。
ピアノの旋律に乗って、低い声が聞こえてくる。
この曲……。何度か、金澤先生の鼻歌で聞いたことがある。
バッハの、『主よ、人の望みの喜びよ』だ。
『神は我々に魂と命を与えてくれた。神に私は感謝する。神と共に今私はここにいる』
子守歌のように、低く静かな曲調。
オリジナルはもっと厳かな凛々しい感じだから、これは先生がアレンジしてくれてるのかな。
今、浮かんでくる気持ちをなんて表現していいのかわからない。
寂しさ、じゃない。これは断言できる。
だけど、嬉しさ、とはちょっと違う。手放しで はしゃげる感情じゃない。
きっと、そうだ。心が痒い、ってこういうことをいうんだ。
私はシーツの音を立てないように起き上がると、『T』の形の背中を思い切り抱きしめた。