「ほう……。『ソルヴェイグの歌』を聴いている、と?」
「はい! 去年の秋に弾いたことはあるんです。なんだろ……。この春くらいから また弾きたくなって」
 
*...*...* Embrace 1 *...*...*
 西の空に一番星が張りついている。
 宵の明星、明けの明星といえば金星だ。
 それくらいの知識しかなかった私が、香穂子とつきあうようになってから、空に散らばっている星々の名前を覚えるようになった。
 香穂子もそれほどたくさんの星の名を知っているというわけではなかったが、学院からの帰り道に少しずつ覚えたのだという。
 星が瞬く夜は、自分にわかる光を見つけて、嬉しそうに指さしている。

 知っている情報というのは、自然と目や耳に、我が物顔に飛び込んでくるのだろう。
 昨日の耳にしたニュースでは、金星だと思い込んでいたあの星は土星だ、という話だった。
 もう少し真剣に目をこらせば、土星が従えている金の輪も見ることができるのかもしれない。

 この日、私は香穂子を愛車に乗せて、街の喧噪を通り抜けていた。
 週に1度か2度。こうして、練習を済ませた香穂子と、仕事を終えた私は、ともに外食に出かける。
 彼女の食欲は見ていてとても気持ちいいものであったし。
 また、私自身、香穂子の話を聞くのが、ほっとできる時間にもなっていたからだ。

「時を経ることで再び奏でたくなる音というのは存在する。いわば音楽の熟成期間、とでもいうべきか」
「そうなんですか?」
「技術に変化がなくても、表現力が飛躍的に伸びる。君はそういう時期に来ているのかもしれない」

 星奏学院の3年になった香穂子は、相変わらず熱心に、いや今まで以上の熱意を持って音楽に取り組んでいる。
 練習する場所が自宅では確保できないからだろう。
 放課後6時までは学院で練習。そして、週末は、ボランティアをしたり、公園で練習をしたりしている。
 時折、私のマンションに来て奏でることもある。
 才能のある人間というのは、拘束時間の量にはとらわれないのだろう。
 音楽科の人間よりもはるかに少ない練習量ながら、香穂子の実力は確実に伸びてきている気がする。

「ごちそうさまでした。とても美味しかったです!」

 血色のいい顔で、香穂子はお礼を言う。
 素直な態度は、次への約束へと繋がっている。
 ── 私は彼女の、こういう素直なところに心惹かれていると言ってもいいだろう。

 店を出ても、7月のこの季節はまだ物の輪郭がうっすらとわかるほど明るい。
 空には夏特有のすがすがしさを持った白い月が、ほっそりとした姿で空に寝そべっている。

「……それにしても、『ソルヴェイグの歌』か。なつかしいな」
「なつかしい?」
「私の家にレコードがある。小さい頃からよく聴いていた」
「レコード、ですか?」
「ああ。CDじゃない。レコードだ。君はレコードを見たことがあるのだろうか?」
「そうですね。……見たことはあります。学院の書架で。だけど1度も聴いたことはないです」
「そうか」

 ジェネレーションギャップ、とまでは言いたくないが、今時の女子高生ならそうかもしれない。
 いや。私と同じ年代でさえ、レコードを聴いたことのある人間というのは、確実にマイノリティなのだから。
 私は強引に車線を変更すると、最寄りのインターへとアクセルを踏んだ。

「ちょうどいい。明日は土曜日だ。今から私の家に寄るといい」
「あ、ありがとうございます! えっと、今からですか?」

 家という言葉を発したとたん、香穂子の頬が熱を持ったように赤くなる。
 今まで何度か、自分のマンションに香穂子を呼んだことがある。
 練習、と銘打っておきながら、片時も香穂子の身体を手放さなかったことも、覚えている。
 そのときのことが思い出されたのだろう。香穂子を包む空気は、ぴんと堅くなった。

「……安心したまえ。今日は、しない」

 右手を伸ばし、香穂子の腿の上に置いてそういうと、香穂子からはほっと大きなため息が漏れた。
*...*...*
「ここは?」
「私の実家だ。だから言っただろう? 大丈夫だと」
「大丈夫、って……」

 暗闇の中、邸を取り巻いている銀色に近い壁が ぽっかりと明るさを生んでいる。
 私がインターフォンに向かって話しかけると、もう数年前から通っているお手伝いさんの声がした。

「さあ、入りたまえ」
「はい……。お邪魔、します」

 いつものマンションに行くとばかり考えていたのだろう。
 香穂子は私に肩を押され、ようやく玄関に足を踏み入れた。

 日頃母が1人の時間が多いことを心配した父は最近、セキュリティ会社と契約を結んだらしい。
 自分の家に入るのも、インターフォンでの対応、門の解錠、そして、玄関のドアの解錠と、3つの行程を経なくてはいけない。
 香穂子はヴァイオリンケースを胸に抱え、私の一歩後をついてくる。
 小さな灯りがともった玄関には、お手伝いの三輪さんが転がるように駆け出してきた。

「暁彦さん、お久しぶりでございます。まあまあ、奥さまはたった今休まれたところですよ。お起こししてきましょうか?」
「いや、そっとしておいてあげてください」
「それにまあ。お客さまがいらっしゃる、ということでしたら、何かしらご用意でもしておきましたのに。
 ご主人さまは本日はまだ遅くなると連絡がございましたので、何も用意がしてございませんのよ」
「食事はすませてきた。どうぞ気遣いなく」
「あ、あら? お客さまでしたか」

 私の背にいた香穂子に気づいたのだろう。
 三輪さんは一瞬 はっとしたように息をのんだ。
 香穂子は、自分が訪問する時間ではないのだと思ったのだろう。
 すまなそうに三輪さんに頭を下げている。

「あ、あの! 夜分にごめんなさい。お邪魔します」
「── 似てらっしゃる」
「は、はい?」
「いえ。まさかそのようなことは……。  それにしてもまあまあ、せっかくお嬢さんがいらしてくださったのだもの。お茶だけでもご用意しますね」

 そう言うと三輪さんは顔を伏せてキッチンの奥に消えた。
 奥からは氷を割るような音が聞こえてくる。

 一体、彼女は何を言おうとしたのだろうか。
 恐怖のような、喜びのような。それらを必死に理性で押しとどめようとした三輪さんの表情が気になるが……。
 まあいい。今は香穂子のことを優先させるべきだろう。

「ありがとうございます。では、お茶の用意ができたら音楽室まで運んでおいてください」

 私はキッチンに話しかけると、再び香穂子の背を押しながら、まっすぐ屋敷の端へと向かった。

「音楽室、ですか?」

 香穂子は、不思議そうに私の顔を見上げてくる。

「あの厄介者のファータに見込まれた一族らしい一室だ。
 学院の練習室がもう少し広くなって音響設備を施した、という程度の部屋だ。
 そこにグランドピアノと、レコード。プレイヤーも、アンプも、一通りそろっている」
「そうなんですか……。吉羅さんのマンションにもそういうお部屋、ありましたよね。そんな感じかな?」
「あれは所詮、できあがった箱の中に後付けで取り付けたにすぎない単純なものだ。
 ここは、建設前の設計のときから配慮を加えてある」

 香穂子は、配慮という言葉の意味がわからなかったのだろう。続きを待つかのように小首をかしげた。

「ピアノもグランドとなると、かなりの重みが床に加わる。
 数年ならかまわないだろうが、
10年20年となると、床にゆるみができ、結果、ピアノを痛めることになる」
「はい」
「壁の防音加工よりも実は大切なことかもしれないな」
「はい……」
「あと、長時間過ごすために、人間の居心地の良さも確保しなくてはいけない。
 学院の設備も悪くないが、練習室の方角はいささか私には不満でもあったから」
「方角、ですか?」
「そうだ。予算の関係もあったのだろうが、北側に面した練習室は、冬場は最初指がうまく動かないだろう。
 この家では辰巳の角に音楽室をしつらえてある」
「たつみ の かど……?」
「東南の位置のことをそういう言い方をする。まあ、いい。こっちにおいで」

 廊下の明かりをつけ、香穂子を誘う。
 そっと手を引っ張ると、かすかなぬくもりが返ってきた。

「わ……。見たことない機械がいっぱいです」

 暗闇の中、部屋の明かりをつけると、しばらく閉めきってあったにも関わらず、部屋からは冷気が広がってくる。
 壁には、姉の遺品でもあるヴァイオリンがまるで昆虫標本のように並んでいる。
 すべての分数ヴァイオリンが並んでいるその一角は、時が止まったかのような静かな迫力があった。

 どんなときも完璧な空調を、と強調していた父の横顔が浮かんでくる。
 微笑みを浮かべた父は、涙を浮かべている他のどの人間よりも淋しそうに見えたことを覚えている。

 回顧趣味は、自己満足に過ぎない。
 何を思っても、過去を塗り替えることはできないし、自分の罪は消えないのだ。

「暁彦さんとお嬢さん。お茶をお持ちしましたよ。まあまあ、今日は暑い日でしたねえ」

 日頃無愛想な私のことを三輪さんはよく知っている。
 一方、私の連れてきた女の子は与しやすい、と一瞬で見破ったのだろう。
 香穂子相手ににぎやかに話しかけている。

「遅くにごめんなさい。どうもありがとうございます」

 香穂子はソファから立ち上がると、恐縮しきったように頭を下げた。
 ……まあ、可愛いといえば言えなくもないが、いささか、上下関係というのを把握し切れていない、ともいえるのか。
 香穂子は私の客人で。三輪さんは私の使用人だ。
 となれば、香穂子はもっと堂々としていて然るべきなのに。

 私は軽くかぶりを振ると、棚の中から、香穂子が聴きたいといっていた『ソルヴェイグの歌』を取り出した。
 なるほど。CDは音質もいい。コンパクトだ。それに耐久性にも長けている。
 だけど、たくさんの長所を抱えているCDは私にとっては、一面味気ない存在にもなり得る。
 いつ聴いても、同じ音しか出ないからだ。

「ああ、君はそこに座りたまえ」
「あ、ありがとうございます」

 アンプの前、右からも左からも音が均一に聞こえる場所に、2人掛けのソファがある。
 よく、私と姉は、一緒に一つの音に耳を傾けては、ただ黙って、その曲に入り込んでいた。
 考えてみれば、こうしてまた別の人間とこの部屋で、レコードを聴くのは初めてのことかもしれない。

「『ソルヴェイグの歌』だったね。ペールギュントの小品の1つだ。普段の君の曲想とは少し違うようだが」
「はい……。なんでしょう。急に弾きたくなったんです」
「まあいい。君はまだ若い。いろいろな方向に知識が広がる時期かもしれない」

 プレーヤーの電源を入れ、レコードをジャケットから出し、刷毛で丁寧に埃を払う。
 そして、指の油をつけないようにそっと、裏返し、ターンテーブルに載せる。
 針を降ろす一瞬は、今でも私に適度な緊張感と興奮を与える。

 この動作を私に教えたのは姉だった。
 姉は父から教わったこの方法を、ひどく厳粛な表情を浮かべて、私の様子を見ていたのを思い出す。

「よく聴いているんだ。香穂子。1曲聴き終える頃、君はレコードのファンになっていると思う」
「はい。よろしくお願いします」

 香穂子は居住まいを正し、ソファに深く腰掛けるとそっと目を閉じた。
 白い面輪の中、ときどきかすかに震える睫が、彼女はまだ生きていて、確実に私と同じ空間にいることを伝えてくる。



 艶やかな唇が柔らかく結ばれているのを見て、私はその部位に触れてみたいと思った。
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