*...*...* Embrace 2 *...*...*
 レコードの上を踊り続けていた針がジジ、っと鈍い音を立てて止まる。
 B面をと思い、香穂子の顔を覗き込むと、香穂子は私の手を握ったまま、静かに眠りについている。
 穏やかな健やかな息づかいに、私は黙って香穂子の顔を見つめ続けた。

 すっきりとした鼻梁と、柔らかく結ばれた口元。
 白すぎる肌の上の朱い唇は、彼女を健康的に見せていた。

「……なんだ?」

 小さな足音がする、と思ったら、ソレは確実に、この部屋へと向かっているようだ。
 母は先ほど眠りに就いたという話だったし、手伝いの三輪さんはもう帰宅すると言っていた。
 だとしたら近づいてくる足音の持ち主は、一体誰なのか。
 香穂子も、私の様子から、近づいてくる足音に気付いたらしい。
 ぽっかりと透きとおった目を開けた。

「この音、なんでしょう……? お、オバケですか? まさか……」

 いかめしい雰囲気の音楽室は、確かに悪霊や精霊という言葉がぴったりの雰囲気だ。
 香穂子は半べその顔をして、私の腕を掴んで放さない。

「君は高校生にもなって、まだ目に見えない類の存在を信じているのだろうか?」
「だ、だって! 吉羅さんも、ファータちゃん、見えますよね? あ、じゃあ、この足音は、ファータちゃんかな?
 そうだ。リリに言っておかなきゃ。怖いことはしないで、って」

 香穂子の慌てぶりに、私の目も細くなる。
 なるほど。この子は、恐がりな上に、怖くなると、早口になるのか。

「基本的にファータは学院に住まうものだと思うが」
「だけど! ……あ、あれ? 止まった、みたい……?」

 もしかしたら仕事が早めに片付いた父の足音かもしれない。
 そう思い、私は香穂子の手をそっとほどいてドアを開ける。

「……母さん」

 ドアの隙間には、白い寝間着の上、羽化したばかりの蝶の羽根のような薄いカーディガンを着た母がいた。

「暁彦さん。帰っていたの?」
「……はい。母さんはもう休んだとばかり思っていましたが」
「薬が少なかったからかしら? ウトウトとはしたのだけど、すぐ目が覚めてしまったの。
 暁彦さんも人が悪いわ。帰ってくるなら帰ってくると連絡をと、いつも言っているのに」

 母は満面の笑みで私を見上げ、やがて室内の張り詰めた雰囲気を察したのだろう。
 私の肩越しに、部屋の中を覗き込む。

 別に今は、やましいことをしているわけでもない。
 また、音楽的素養を身に付けるため、という立派な言い訳もある。
 これは母から問われる前に、自分の口から先手を打った方がいいのかもしれない。

「母さん。紹介しましょう。この子はうちの学院の生徒だ。名前は……」
「美夜!?」
「母さん?」

 たった今まで私を包んでいた暖かみが すっと消え、身体を強い冷気が包み込む。

 母は相好を崩して、香穂子の近くに駆け寄った。
「あ、あの、私……」

 母と香穂子は初対面だ。しかも現在の母の状況を私は今まで一度も話したことがない。
 心の時間軸を失った人間を目の当たりにするのは、香穂子にとって初めてだろう。

 ── どうしたら、いいのか。

 私は香穂子に目配せをすると、静かに首を振る。
 香穂子は不安げに頷くと、母に向かっておずおずと笑いかけた。

「ねえ、美夜。あなたどうしてまだ制服を着ているの? あら、今年から星奏の夏服、デザインが替わったのかしら?」
「あ、私……」
「そうよね。あの学校、私立ってこともあってわりと服装は自由ですもの。ブラウスも好きな色を選べるし」
「……うん。あの、今日は気分を変えたいな、って思って、このブラウスにした、の」

 元来ウソをつく、ということに慣れていない子なのだろう。
 香穂子はぎこちない笑みを浮かべると、母に相づちを打った。

「まだ、暁彦と練習を続けるの? 暁彦ったら容赦がないから。あ、母さん、なにかお夜食でも作りましょうね」
「ありがとう……。お、母さん」

 状況がわからないながらも何かを察したのだろう。香穂子は確かめるように私の方に目を向けた。

「それにしても、暁彦? いくら練習が好きだからっていって、姉さんを制服のままにしておくことはないじゃないの。
 ねえ、美夜。すぐ着替えてらっしゃいな。あなた、よく言うでしょう? 制服じゃヴァイオリンは弾き辛い、って」
「あ……。そ、そうですね。あ! ……そう、ね。じゃあ、私、着替えてきます」

 香穂子はぱたぱたと小走りで部屋から出て行こうとして、そして、ドアノブを握ったまま混乱しきったように私の方を見上げる。
 知らず、ため息が漏れる。
 こうやってこのまま嘘を突き通すこと。
 彼女の世界を壊さないように守り続けることは、果たして本当に母のためになるのだろうか。

『美夜さんのことだけなのです。奥さまが認められないのは。
 他のことはごく普通なのです。
 何事も奥さまのおっしゃるとおり、抗わず、逆らわず、ゆっくり受け答えをしてあげてください。
 それが、奥さまへ対する治療の1つだと考えます』

 1ヶ月に1度のペースでやってくる年老いた我が家の主治医は、木訥な口調で、かれこれ10年も同じことを言い続けている。
 だとしたら、今の私と香穂子の対応は正しい、ということなのか。
 だが。
 ── 私と父は、いつまでこの演技を続けるのか。

「……姉さん。着替えなら、その棚に入っているだろう」
「え? 吉羅さん……? あ、ごめんなさい。えっと、その棚?」
「いつも自分の部屋に行くのが面倒だから、といって、この部屋に置いてあるんじゃなかったのか?」
「あ、本当だ。ありがとうございます」

 どうしてもいつもどおりの口調が出てしまうのだろう。
 香穂子の受け答えに、母は明るい笑い声を立てた。

「まあ、美夜。弟の暁彦に敬語だなんて」
「あ! そう、ね。わ、私、着替えてきます!」

 香穂子は棚の一番上に置いてあった着替えを手につかむと、勢いよく部屋から飛び出していった。
*...*...*
「まあ。ヘンな子。普段ならこの部屋の端っこで手早く着替えるのに。
 でもさすがに、暁彦の前で着替えるのも気恥ずかしい年頃になったということかしら?」
「……ええ。まあそうでしょうね」
「あの子、夏だというのに、なんだか顔色が優れないわね。大丈夫かしら?」

 姉が亡くなった直後。まだ、今以上に母の具合が悪かった頃。
 母は毎日自分を責め続けることで、1日のほとんどを過ごしていた。
 どうして気づいてやれなかったのか。なぜ、早く病院に連れて行ってやらなかったのか。
 元々、姉と母は仲の良い親子だった。
 私が1番、この子のことを知っているという母としてのプライドもあったのだろう。

 母の中にある姉の面影は、褪せることなく母の中で息づいているのだ。

「とにかく。あまり美夜に無理をさせないでね。暁彦」
「わかりましたよ。母さん」
「あなたは、先生より厳しい、って美夜がよくこぼしてるわ」

 今夜の母は、普段のどんよりとした目ではなく、興奮に似た輝きを持っている。

 ── 狂人。
 この言葉の響きを嫌って、父はつい口を滑らせてそう告げた医師のところには それ以降、いっさい足を向けなかったことを思い出す。
 もちろん私もその言葉を憎んでさえいる。

 母は狂人ではない。寂人なのだ。ただ、母は寂しいだけなのだ。
 愛情を注げる対象の人間がいない。いたとしても私では足りない。それだけなのだ。

「ご、ごめんなさい。遅くなって」

 ティーンエイジャーらしい、明るい色のTシャツを着た香穂子は、ぺこりと頭を下げると、さっきよりはやや落ち着きを取り戻して戻ってきた。
 母と、母の状態。私の対応。
 そのあたりのことをようやく把握できた、ということだろう。

「さあ、美夜。あなた、お夜食何が食べたいの? リクエストはある?」

 母さんは幸せそうに微笑むと、香穂子を包み込むように見守っている。

「そうです、ね……。あ、ううん。そうね。えーと……っ」

 何しろ香穂子は生前の姉に会ったこともなければ、姉の嗜好を知るよしもない。
 いわばまったく試験勉強をしていないまま、試験当日の朝を迎えるようなものだろう。
 私は、母さんと香穂子の間に脚を進めた。

「母さん。夜食は要らない。姉さんは少し疲れがたまっているようなんだ」
「暁彦?」
「今日は早めに練習を切り上げるから。だから、母さんも先に休んだ方がいい。部屋まで送っていこう」

 こう、と決めたら決して意志を曲げることのない私の性格を母はよく知っている。
 母はようやく我に返ったように、のろのろと生気を失った顔を上げた。

「そう? ……そうね。わたくしったら、ついはしゃいでしまって」
「いえ、あの……」

 母の気遣いに、香穂子は首を何度も横に振ると、心配そうに母と私の顔を交互に見つめている。

「……おや?」

 玄関で来客を知らせるチャイムが鳴っている。

「あら? こんな時間に誰かしら?」

 母は娘との語らいの時間に割り込まれたのが腹立たしかったのだろう。
 明らかに不満げに眉をひそめて、荒げた声を上げた。

「お、お母さん? 私、ちゃんと早く寝るから、大丈夫よ?」
「そう。美夜はいい子ね」

 母は玄関の方角と香穂子を両方見比べて、ようやく私の言うことを聞く気になったのだろう。
 香穂子の手を撫でて微笑んだ。

「それじゃあ、美夜。練習、あまりムリしないのよ? いいわね? 早めに休むのよ」
「は、はい。あの、おやすみなさい」