私は盛大なため息を1つつくと、ソファに吸い寄せられるようにして、腰をおろした。
*...*...* Embrace 3 *...*...*
「び、びっくりした……」ぽつんと出てきた独り言が、かすれている。
耳からの刺激で私は初めて、のどがカラカラに乾いていたことを知った。
テーブルの上、つまらなそうに様子を見ているカットグラスに手を伸ばして、勢いよくアイスティを飲み干す。
「そっか……。私」
知っているようでまるで知らなかったこと。
それは、吉羅さんのご両親のことだった。
吉羅さんは、星奏の創立者の子孫で。
吉羅さんのお姉さん、吉羅美夜さんは、金澤先生と同級生で。若くして亡くなって。
それきり吉羅さんは習っていたヴァイオリンを辞めてしまった。
そして時が経ち、吉羅さんの従兄弟にあたる衛藤くんが星奏の門をくぐった。
吉羅さんについて私が知っていることは、本当に少ない。
もしかしたら報道部の天羽ちゃんの方がもっとたくさんの情報を手にしているかもしれない。
苦虫を噛み潰したような、さっきの吉羅さんの顔が忘れられない。
── きっとまだ、吉羅さんのお母さんの心の傷は癒えてないんだ。
一生癒えないかもしれないんだ。
子どもを持ったことのない私が、もし自分の子が亡くなったら、私はどうなるのだろう、っていうことを想像するのは難しいけれど。
だけど、私がもし亡くなったら私のお母さんはどんな気持ちだろう、って想像することはできる。
『香穂子。子どもの一番の親不孝はね、逆縁なのよ』
『逆縁?』
『親より先に亡くなること……。だから身体だけは大事にするのよ?』
今の、お母さんの様子を、美夜さんはどんな気持ちで見ているだろう。
そして、吉羅さんはどんな気持ちで、今お母さんのベッドのそばにいるのだろう。
── 私は、ここに来て、良かったのかな。
時間の感覚の無いような部屋で、私は腕時計を覗き込んだ。
短針は9時近くを指している。
今日は、もう、帰ろう。私1人で帰ろう。
今夜は、吉羅さんのお母さんのそばに、吉羅さんが居てあげた方がいい。
目が覚めたとき、自分の子がそばにいてくれたら、お母さんもどんなに心強いかしれないもの。
「……わ!!」
突然、なんの脈絡もなく部屋のドアが開いた。
と思ったら、隙間から衛藤くんがひょっこり顔を出している。
「香穂子! どうしてこんな場所にあんたがいるんだ?」
「衛藤くん? あ、じゃあ、さっきのチャイムは、衛藤くん?」
「ああ。そうだけど。それがなに?」
「ううん……。ありがとう」
こうやって考えるのは、吉羅さんのお母さんには申し訳ないけれど。
衛藤くんはすごくいいタイミングで、玄関のチャイムを鳴らしてくれた、と思う。
私とお母さんの間で、どうしたらいいのかと、心を砕いている吉羅さんは、少し神経質で、そして痛々しくて。
── あんな、途方に暮れた目をした吉羅さんを、私はこれ以上見ていたくなかった。
衛藤くんは、合点がいかないようなあいまいな表情を浮かべている。
「別に礼を言われるようなことをした覚えはないんだけど。
……まあ、いいや。あんたって、よく『ありがとう』って言うよな?」
「そう、かな?」
よかった、とそっと胸をなで下ろす。
どうやら、衛藤くんは、私が美夜さんに間違われてた、ってことに気付いてない、かな?
衛藤くんは、私の笑い顔に釣られたように微笑むと、レコードのコレクションが並んでいる棚へと足を向けた。
「げ。6mm って今、使えるレコーダー、あったっけ?」
「6mm?」
「オープンリール。暁彦さん、こんなモノまでコレクションしてるんだ。驚いたな」
棚の1番奥にあったのかな。
衛藤くんは、手のひらに収まるぐらいの黒い円盤状のモノを取り出すと、くるくると勢いよく指で回した。
かなりの年代物なんだろうな、と思うのに、黒いその固まりはほこり1つ ついていない。
さっき店から買ってきた、と言われてもおかしくないくらいの艶がある。
「それで。香穂子? なんてったって、人の家でそんなくつろいだカッコしてるの?」
「あ、えーっと……。あの、あ、制服じゃ、ヴァイオリン弾きにくいかな、って……」
「は? 学院じゃいつも制服着て弾いてるだろ? あんた」
そ、そうだった。
私ってば、さっき吉羅さんのお母さんがお話してたことを、そのまま伝えてどうするんだろ。
「まあ、いいけどさ。そのピンクのTシャツ、結構あんたに似合うし」
「あ、ありがとう……。あ、そうだ!」
なんとなく、なんとなくだけど。
私が美夜さんのふりをしている、というのは、衛藤くんには伝えない方がいいような気がして、私は慌てて話題をそらした。
星奏に入って約3ヶ月の衛藤くんは、1年生で一番有名な生徒、っていってもいいくらいだ。
金沢先生は、すっかり彼のヴァイオリンのファンになっていて、嬉しそうに目を細めている。
『まあ、なんだ? 月森がいなくなったらなったで、ちゃんと神さまはもう1人のジーニアスを準備してくれてる、ってことさ』
でも本当は別の理由も知ってる。
金澤先生は、吉羅さんに繋がっている衛藤くんが、ヴァイオリンの道を選んだことが、本当はとてもとても嬉しいんだってこと。
才能のある人が、音楽への道へ進まない。進めない。
そんな人たちも数多くいる中で。
今、何の迷いも障害もなく、春の若木のように音楽の道へ進もうとしている衛藤くんが心底可愛いんだと思う。
「衛藤くんは、よく来るの? 吉羅さんのお家に」
「まあ、たまにな。ここのレコードのコレクション、ってちょっとすごいだろ?
暁彦さんのコレクションはなかなかなモノだって、あんた知ってた?」
「うん……。今日初めて知ったの。私、レコードを見るのも初めてかもしれない」
「なんだ。価値のわからない人間には、もったいないよな」
「あはは。またそうやってイジワル言うんだ」
「ははっ。なんかあんた、言いやすくてさ」
衛藤くんは、テーブルの上にある私のアイスティを手に取って、熱っぽく話し始めた。
「俺、小さい頃から、暁彦さんのレコードを聴いて大きくなったんだ」
「そうなんだ……。CDの方が音が良いような気がするけど、レコードの方が好きなの?」
「わかってないな。香穂子は」
「うん。教えて?」
「レコードとCDの違いはさ。クラッチノイズの有無にあるって俺は思ってる」
「うん……」
「季節によっても、また、それぞれのレコードの歴史によっても。もっと言えば、所有者の愛着によっても音が変わる。
世界に1つしかない音楽だって、俺は思ってる」
衛藤くんはプレイヤーに近づくと、慣れた手つきでレコードを裏返した。
やっぱり、従兄弟なんだなあ。
吉羅さんと同じ説明に私はほっと気持ちが優しくなる。
「へぇ。ペールギュントを聴いてたのか?」
「うん」
「『ソルヴェイグの歌』?」
「うん。昨日衛藤くんが弾いてたのが忘れられなくて」
「ああ。あんたに褒められて、俺、ここのレコードが聴きたいって思ったんだ」
「そう、なの?」
「っと、このオケは俺的にはイマイチ。こっちにしようぜ?」
衛藤くんは、吉羅さんと寸分違わない仕草で、ターンテーブルに載っているレコードに埃取りのスプレーをかけ、フェルトの布で拭いた。
そして、獲物を捕らえる鷹のような鋭い目つきで、吉羅さんのコレクションを見つめると正確な指使いで目的のジャケットを取り出した。
仕上げのように恭しい手つきでレコードをジャケットから取り出すと、表面に指をかけないようにそっと両手でターンテーブルに載せて、ゆっくりと針を置いた。
「この曲の最終楽章にある、クラッチノイズを聴かないと、聴いた気がしないんだよな」
「ありがとう。しっかり聴いてみるね」
衛藤くんは、スピーカーの向きを、よりソファの方向に向けたあと、意地悪っぽく笑っている。
「うん? 俺のポジションに先約あり、か」
「え? あ、ごめんね。先に座ってた」
「別に。俺が隣りに座ればいいだけだろ?」
そうして私の隣りに勢いよく腰掛けて、聴く体勢を作ると、すっと目を閉じた。
*...*...*
『ソルヴェイグの歌』を初めとしたペールギュントをほとんど聴き終えた頃、ドアをかすかにノックする音に気付いた。衛藤くんは、ほっとため息をつくと、ドアの方に歩いて行く。
扉を開けると、そこには疲れた顔をした吉羅さんが立っていた。
「2人きりにしてすまなかったね。母はようやく眠ったよ。どうやら鎮静剤が効いたようだ」
「よかった、です……」
「伯母さんも一進一退、って感じだな。暁彦さん」
「ああ。桐也にもすまないことをした」
「別にかまわないけど」
衛藤くんは、ピッチャーのアイスティを勢いよくグラスに注ぐ。
テーブルの上に残っている水滴は、吉羅さんが居なかった間の時間の経過を知らせてくる。
衛藤くんは勢いよく飲み干したあと、再びアイスティを注いだグラスを私に手渡した。
「だけどさ、暁彦さん」
「なんだね?」
「暁彦さんの事情もわかるけど、こいつを巻き込むのはどうかと思うぜ?」
「桐也」
「香穂子は関係ないだろう、って言ってる」
「若者がいっぱしの口を利く」
「こういうのは、年齢ってのは関係ないと思うけど」
吉羅さんの鋭い視線が私にまっすぐ突き刺さる。
私は必死でふるふると首を振った。
どうして? なにも話していないのに、どうして衛藤くんはこんなことが言えるのだろう……。
ピンとした緊張感が、3人の中で蜘蛛の糸みたいに張り巡らされてる気がする。
その緊張の糸を解いたのは衛藤くんだった。
「まあ、いいや。俺の用事はすんだしね。もう帰るよ」
「ああ。夜も遅い。お前も気をつけて帰るように」
「って、今日は金曜だし、まだ夜はこれからって時間だよな」
高校生になったこと。年よりも大人びているということに、衛藤くんのご両親は安心しているのだろう。
4月から衛藤くんは学院近くのマンションで1人暮らしを始めている。
ドアの向こうに小さくなった衛藤くんの背中は、いつもより少しだけ寂しそうに見えた。