*...*...* Later 2 *...*...*
 昨日までの天気とはうって変わって、ウィーンの空はこれ以上ないくらい晴れ渡っている。
 カタン、と窓を開ける音に気づいて目を覚ますと、ベージュのカーテンが揺れている。
 あれ? 夜寝る前にはキチンと閉めたはずだもの。
 ってことは、また、私、王崎先輩よりも朝寝坊した、ってことなの?
 私はベッドの下のスリッパを履くと、パタパタとダイニングに向かった。

「おはよう、ございます。ごめんなさい、遅くなっちゃって」
「おはよう。いいんだよ。気にしないで」

 やっぱり、こんなにもヴァイオリンの実力がある人でも、コンクールのプレッシャーというのは、激しいものがあったのかな。
 王崎先輩の表情は、昨日までのピンと緊張したそれとは違う。柔らかい顔で微笑むと、てきぱきとお茶の準備をしている。

「いいよ。香穂ちゃんはそっちの椅子に座ってて」

 ……不思議。
 こうして紅茶の湯気を隔てて見える王崎先輩は、どちらかといえば中性的な穏やかな雰囲気の人なのに。
 明け方の先輩は違う人だった。
 どこまでも巧みで、行き着く先が見えなくて。私は自分の記憶さえ曖昧だ。

 はらりと落ちてきた髪から、王崎先輩の匂いがする。
 きっと、髪だけじゃない。身体中に彼の匂いがまとわりついてる。
 ……どうしよう、私……。

 ──── この、泣きたいくらいの安心感を、私は大好きな人にどう伝えたらわかってもらえるんだろう。

 王崎先輩は私の前に紅茶を置くと、ふっと顔を赤らめた。

「……ダメだよ。人前でそんな顔、見せちゃ」
「え?」
「また香穂ちゃんが欲しくなるでしょ?」
「も、もう……。ムリです。私」

 恥ずかしさを隠したくてあわてて言い返すと、王崎先輩は声をあげて笑う。

「おれのコンクールもあったし、しばらく2人で遠出ができなかったからね。
 今日はせっかくの休みだし、どこかへ行こうか? 久しぶりに香穂ちゃんのリクエスト、全部聞くことができるよ」

 王崎先輩は、この日のために、いろいろなプランを練っておいてくれたらしい。
 本棚から地図を取り出すと、私の前に広げてくれる。
 ウィーンにも、日本ほどの華やかさはないけれど小さな遊園地は点在している。
 それに加え、地元の人がよく行くという可愛らしいショッピングモールにも、小さな丸が打ってある。

「遊園地にする? それとも香穂ちゃんはそろそろ新しい服も見たいかな。ショッピングにも付き合うよ」
「そうですね。どれもすごく素敵だけど……」

 私は、以前からずっと行きたいと思っていたラインツ動物園を候補に挙げてみた。

「ラインツ動物園?」
「はい! すごく広々とした場所なんですって。野生の動物が、ゆっくり歩いてて……。
 今なら、動物の赤ちゃんも見ることができるっていうんです」
「了解。おれもまだ行ったことはなかったかな。こんなに近くに住んでいるのにね」
「えっと、一応、動物園までの行き方、確認しておきますね。……地下鉄に乗って、ちょっと歩いて……、っと」

 地下鉄の線を指で追っていると、被さるように彼の手が重なる。
 ウィーンに来たばかりのころ、1人用のダイニングテーブルで、2人分のお皿を並べるのは難しいかも、と少し思った。
 だけど、2ヶ月経った今は、この小ささが大好きになってる。
 すぐ、手が届くところも。──── すぐ、先輩の唇が落ちてくるところも。

 私はこの人を近くに感じていられたら、それでいい。

 荒くなった息をようやく整えて立ち上がると、私は寝室からヴァイオリンケースを取ってくる。

「この動物園なら、ヴァイオリンを弾いても大丈夫ですよね」
「え? ヴァイオリン? きみは持っていきたいの?」

 王崎先輩は驚いたように顔を上げる。

「はい……。私、王崎先輩の優しいヴァイオリンが好きです。すごく」
「香穂ちゃん……」
「だから、先輩のヴァイオリンを聴きたいし、……私のヴァイオリンも聴いてもらいたい、です」

 王崎先輩本人には伝えたことはないけれど、私はコンクールのときのような正装した音より、普段着の音の方がもっと好き。
 今日みたいな日なら、王崎先輩そのものの優しい音が聴けるだろうし。
 それに、もし王崎先輩がいいよ、って言ってくれるなら、一緒にデュオもやってみたい。

 昨日のコンクールでの音を思い出す。
 次々と浮かんでくる曲想に、昨日は、飲まれ流されて、気が付いたときには、自分がどこにいるのかわからないほど圧倒された。
 一晩眠った今なら、彼の求めた曲想に、私らしい色を乗せられるかもしれない。

 王崎先輩は少しだけ考え込むように黙って、やがて笑って頷くと奥の部屋からヴァイオリンを手に出てくる。

「いいよ。今日のおれは香穂ちゃんに。そう決めてるから」
*...*...*
 駅から動物園までの途中で、お昼用のパンとスイーツを買う。
 いつもどおりミネラルウォーターを、と伸ばした手を、店主のおじいさんは信じられない、と言わんばかりに制止する。

「お嬢ちゃん。この街に来たら、なにがともあれ Almduler を飲まなくては」
「アルム、ドゥラー?」
「なに、レモンの風味の炭酸さ。お嬢ちゃんにはピッタリだろ?」

 元々日本にいたときも、年よりも幼く見られることがあったけど、ここウィーンでは、さらに子どもっぽく見られるらしい。
 おじいさんは王崎先輩に、『妹のお世話は大変ですな』なんて言って笑ってる。
 王崎先輩はといえば、おじいさんの言葉を訂正することもなく、『そうですね』なんて言ってニコニコ笑い返している。
 ううう……。あとで絶対抗議するんだから!

「何とか迷わずに到着したね。……ん? 注意事項か。いちおう目を通しておこうか」

 王崎先輩は、私の手を取るとじっと入り口にある説明を読んでいる。
 彼ははドイツ語の方を、私はドイツ語と一緒に英語も併記してある英語の方を読む。
 単語の意味を繋げていけば、大体意味は掴める。
 そっか、ゴミは必ず持って帰ることが動物園のルール、じゃなくて、この街の、この国のルールなんだ。

 私がようやく半分読み終えたところで、王崎先輩は全部読み終えてしまったらしい。
 入り口から続く並木道を指さした。

「へぇ。面白いね。この園内の木に成っている果物は、自由に取っていいらしいよ」
「そうなんですか? 日本ではあまり聞いたことがないですよね」
「今の季節は、リンゴがとれるみたいだね」

 ちょうど昼下がりということで、パンを食べ、Almduler を飲んでいると、王崎先輩は、近くの木からリンゴを1つ摘み取ってきた。
 濃い匂い。甘い香りに誘われたのか、イノシシの子どもたちが、彼の回りをウロウロしている。
 平日の昼下がりは、観光客の姿もまばらで、辺りは静まりかえっていた。
 私は、スイーツもそこそこにヴァイオリンを手に立ち上がる。

「あ、あの……。今なら私、いろんな音が作れると思うんです。ちょっとヴァイオリン、弾いてもいいですか?」
「きみは頑張り屋さんだね。もう少しゆっくりしてもいいんだよ?」

 軽く引っ張られる手をそっと抑えて、私は王崎先輩をまっすぐ見つめた。

「私、その、言葉でも、その……、夜も、先輩に気持ちを伝えてるつもり……、です。だけど」
「香穂ちゃん?」
「──── でも、まだ、伝え足りないの。聴いててください」

 想いを伝えたい。そう思ったら、難しい曲よりも、弾き慣れた曲の方が良い。
 そして、伝えたいと思う人の大好きな曲がいい。

 私が選んだ曲は、『愛の挨拶』だった。

 エルガーが、愛する妻、キャロラインに贈ったとされる名曲。
 もう、何度、私、王崎先輩の前でこの曲を弾いただろう。
 身分の低いエルガーは、宗教の違いも手伝って、キャロラインとの結婚を反対されていた。
 それでも、どうしてもキャロラインと一緒にいたい、と思ったエルガーの気持ち。
 初めてこの曲を奏でた、高2の頃の私にはわからなかった。

 だけど、今なら、わかる気がするんだ。
 エルガーにとってキャロラインの代わりはいない。
 私にとって、王崎先輩がどこにも代わりのいないのと同じなんだもの。

 感情に乗せて作る旋律は、アンサンブル向きじゃない。コンクール向きでもない。
 だけど、王崎先輩と小さな動物だけが観客の今なら、許してもらえるかもしれない。
 受け止めてくれると信じてる。

 最後の余韻を思い切り高く鳴らして弦を置く。
 ここに来たときのような静寂が戻ったあと、大好きな人は立ち上がって拍手をくれた。

「Bravo! 驚いたな。君の音はウィーンに来たときとはまるで別人だよ」
「えっと……。聴いてくれて、ありがとうございます」

 私は、笑顔を返しながら、少しだけ顔をしかめる。
 ヴァイオリンは背中の筋に力を入れた楽器だ。
 反らせすぎはよくないけれど、反らした分だけ、確実に音は良くなる。
 だけど、どうしたのかな。今日は背中を反らせると、なんだか腰が痛いような気がする。
 そうだ、昨日の王崎先輩のコンクールで、3時間以上も堅い椅子に座っていたのが、理由かな?

 それとも……。
 と考えて、今日の明け方までの時間を思い返す。

 堅く握り締められた手。どんどん水かさを増していく自分の身体。
 優しくて。暖かくて。
 身体の中心に生まれた熱は、私がどれだけこの人のことを求めているのかを、伝えてくる。
 何度達しても、抑えきれなくて。
 確か、3回目までは覚えてるけど、その後は数えるのを止めてしまった。

 ──── 私、今朝ほど王崎先輩を近くに感じたことはなかった。

「きみの音を聴いていたら、新しい曲想が沸いてきたよ。今度は、一緒に弾いてもいい?」
「……はい。ぜひ!」



 この大好きな人と一緒に、同じ曲を奏でられること。同じ時を過ごしてゆけること。
 今この瞬間の気持ちを乗せたら、ヴァイオリンはさらに新しい音色を紡ぐ。
 そう信じて、私はもう一度ヴァイオリンを肩に載せた。
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