私が星奏の附属大学に入学した春、王崎先輩は何度も私に、ウィーンで一緒に住もう、と言ってくれた。
 大学は、ウィーンにある星奏の姉妹校で単位は取れるだろうし、なによりも、香穂ちゃんと一緒に暮らしたい。
 きみの両親はおれが説得するから、と。

 王崎先輩の両親は、こういう人たちに育てられたからこの人はここまで優しい人になったんだ、と思えるようないい人ばかりで、
 息子である王崎先輩が決めたことに、何一つ口を挟むことはなかった。

 そんな春のある日、王崎先輩はご両親とともに、私の家に挨拶にやってきてくれた。
 
*...*...* Embrace 1 *...*...*
「あの、王崎さん。香穂子のこと、どうぞよろしくお願いしますね。なにしろ末っ子で、甘やかしてばかりで」
「はい。あの、おれこそよろしくお願いします」
「香穂子がねえ……。本当に、こんなに早くご縁があるとは思わなかったわ」

 王崎先輩は出会ったこととまったく変わらない笑顔で、私の両親に深々と一礼をした。
 お母さんは、そんな王崎先輩のことを優しい目で見ていたけれど。
 どうしてだかお父さんは、じゃあ、と小さく挨拶をしたきり、照れくさいのかそっぽを向いている。
 王崎先輩のお父さんとお母さんは、あまり香穂子さんを引っ張り回さないのよ? と言いながら、
 私に笑顔を向けて、夕方頃に帰宅されていた。
 小さな弟さんたちの、どうしても抜けられない用事があるから、ごめんなさいね、と恐縮していた様子を思い出す。

「私、王崎先輩を送ってくるね」
「はいはい。楽しんでいらっしゃいな。王崎さんも、どうぞ気をつけてウィーンにいらして?」
「はい。ありがとうございます。では香穂子さんをお借りしますね」
「いいのよ? 今日からあなたたちは婚約者なのだもの」

 お母さんは、昨日は眠れない、と言っていたのがウソのようにさわやかな顔をして手を振っている。
 私は王崎先輩の手を握ろうにも、お母さんの目が気になって、少し早足で、大きな通りへと出た。
 私の早足を王崎先輩は楽しそうに見ている。

「これで気がかりだったことは一区切り、つけたかな?」
「あ、あの! 私、王崎先輩に聞きたいことが……。ずっとずっと聞けなくて。だけど今日聞くのもヘンな話、なんですけど」
「香穂ちゃん? 何か気になることでもあるの?」

 梅雨の合間の空は底抜けに明るくて、私はちょっとだけ背中を押してもらってる気になった。
 ──── そうだ。王崎先輩はちゃんと聞いたら、誠実に答えてくれる人だもの。だから、絶対、大丈夫。

「その、ね。結婚、というか、婚約……。ちょっと早いかも、って心配になりませんでしたか?」
「ん? どうしてそんなこと思うの?」
「だって……」

 親しい友だち、たとえば、天羽ちゃんとか冬海ちゃんにも話していなかったこと。
 その……。
 婚約、という形を取るまで、いわゆる、ソウイウコト、がなかったことをこの前、お姉ちゃんだけに話したら、すごく驚かれた。

『……人間って動物的なところがあると思う。
 別に王崎さんの考えが悪いって言いたいわけじゃないけど、そんな、一度もソウイウコトしないで、あんた大丈夫なの?』
『大丈夫、って? なにが?』
『会話にもテンポがあるように、ソウイウコトも相性ってあると思うんだけどな』

 身近な人にそんな風に言われて、余計不安になった。だって、本当にわからないんだもの。

 だけど、そんなことを王崎先輩に伝えるなんて、恥ずかしすぎて絶対できない!
 口の端をかんで言葉を選んでいると、王崎先輩はふっと微笑んで、私の髪に手を当てている。

「おれは古い人間なのかな」
「ん……」
「抱くことは簡単だったかもしれないけれど、おれときみには距離もあったし、抱いたことで離れた場所できみを不安にさせたくなかった。
 おれは香穂ちゃんを抱く前に、ちゃんと、香穂ちゃんのご両親に挨拶をしておきたかったんだよ。
 今までおれはきみの頑張りを見てきたし、きみで間違いない、って思う確信もあったしね」
「確信、ですか? そ、そんなことないです!」

 ななんだか、これほど買いかぶってもらうと、あとは、減点方式、というのか……。
 一緒に暮らし始めたら、私のだらしないところや幼いところばっかり王崎先輩、目がいっちゃうんじゃないかな。
 それもちょっと……。ううん、かなり淋しい!

「私、料理は好き、だけど、そんなに得意ってワケじゃないし。
 その、家事とか、その、王崎先輩に満足してもらえるレベルじゃない、と思うし!
 あ、あと、あ、そうだ、その、いろいろ気づかないところもいっぱいあると思うし」

 あたふたと気になるところを挙げてみる。
 私は、王崎先輩の近くにいることができたら、それだけで充分だけど。
 その、大丈夫なのかな、王崎先輩は私、で……。

 そんな私の考えを見透かすかのように、王崎先輩は私の頭を肩口に載せた。

「……大丈夫だよ。おれの選んだ子だから」
「が、頑張ります!」

 そうだ。
 あと2ヶ月経ったら、私、王崎先輩と一緒にウィーンで過ごせるんだ。
 今までクラスメイトが羨ましかったもの。毎日顔を会わせたり、毎日メールのやりとりができる恋人たちが。
 毎日、顔を合わせて。声を聞いて。手を伸ばせば届くところに、先輩がいてくれるんだもの。

「ちょっとおれの方の事情で結婚が少し早くなったかもしれないけど。
 まだおれもきみも若いし、結婚してから恋愛を楽しめばいいよね?」
「はい……」
「香穂ちゃんができないところはおれがフォローするから大丈夫だよ。
 一人暮らしも悪くないよねえ。こうして、家事を覚える機会をもらったってことだから」

 なんだか王崎先輩は上機嫌だ。なにを言っても、大丈夫、の一点張り。
 それは確かに嬉しいんだけど……。
 ヴァイオリン以外で褒められた経験のない私は、どうして王崎先輩はここまで私のことを好きでいてくれるんだろう、って。
 その方が不思議なくらいだった。
 王崎先輩は、私の手を取るとまたゆっくりと歩き始めた。

「香穂ちゃんがウィーンへ来るまであと2週間、か。それまでは大学の勉強頑張ってね。
 すぐ、ウィーン行きのチケットを送るから」
「はい……。じゃあ、あの、また少しだけお別れですね」
「そう、だね」

 王崎先輩はそこでいったん言葉を止めると、またふわりと笑顔になった。

「きみとのご両親への挨拶がすんだからかな。今度の別れはそれほど辛くはない、かな。
 そうだ、今日は、まだ時間、あるよね?」

 私は曖昧に頷く。今日は、王崎先輩のご両親に会う、ということ以外に予定なんてない。
 なんだろう……?

「……今日は、いいよね? ちょっとおれ、行きたいところがあるんだ」
*...*...*
「すぐ近くだから歩いていこうか?」

 その……。今日私たちは、ご両親との顔合わせをして、その、婚約、という間柄になって。
 以前聞いたことがある。『結婚するまでは抱かない』って。
 だから、一応『婚約』っていう形を取った私たちは、今日、初めてソウイウコトをするの……?
 どうしよう。不安の方が先に立つ。
 どうしたら、いいの? 私、ちゃんとそういうこと、できる身体なのかな?

「どうしたの? 緊張してる?」
「そ、それは……。その……。緊張、します」
「そう? おれも初めてだから、こういうのは緊張するかな」

 私は言葉の代わりに、はーっと深い息を吐いた。そそそうなんだ、その、……。王崎先輩も初めて、なんだ。
 その、王崎先輩が他のオンナの人とソウイウコトをしてる、って想像するのはイヤだったけれど、
 2人とも初めて、って、ちゃんとできるのかますます不安になってくる。

「儀式みたいなものだけど、香穂ちゃんとはちゃんとしておきたいと思って」
「そ、そ、そうですよね! 儀式、ですよね……」

 すごくさらりと言われて、私の胸は隣りにいる王崎先輩にまが聞こえちゃうんじゃないかというくらい大きく飛び跳ねてる。
 そういう、もの、なのかな……? なんだか、怖い。
 私にとって、ソウイウコトは、儀式みたいな神聖なモノじゃなくて、もっと、生々しいモノ、痛みを伴うモノだ、って。
 そう。友だちから聞いた話や、雑誌の中では、痛みや恐怖が皮を被った、オバケみたいなものなのに!

「……着いたよ。香穂ちゃん」
「は、はい!! え、……あの、ここ?」

 大きく迂回する通りを曲がると、そこには、テッポウユリの香りが強く漂っている。
 見るとそこは、2年前の秋に私たちがコンサートをやったことがある、教会の前だった。

「開いてるかな……? 以前ここでボランティアをやったときは、いつもカギは開いている、という話だったんだけど」
「どうだろう……。開いてるみたい、ですね」

 年代物のドアを押すと、正面には薄日に輝くステンドグラスが私たちを迎えてくれた。
 人影はない。
 夏へと続いていく夕焼けが、私たち2人を真っ直ぐに包んでいる。

「神父さんもいないけど、いいよね。──── 2人だけの記念に」

 王崎先輩はステンドグラスの真正面に立つと、おもむろにポケットから銀色の指輪を取り出した。
 見上げた先には、口を一文字につぐんだ王崎先輩がいる。

「王崎、先輩、これ……」
「──── ずっときみが好きだったよ。今でも好きだ。
 離れていたとき、きみからのメールを何度読み返しただろう。きみがそばにいてくれたら、ってどれだけ願ったかな」
「はい……」

 ……バカだ、私。どうしてもっと、気の利いた返事ができないの?
 学校の授業、現代文なんてちっとも好きじゃなかった。
 加地くんの豊かな言葉遣いをいつもすごいと思った。
 だけど、こんなとき、自分の思い100パーセントの言葉が、大好きなこの人に伝えられたらいいのに、と強く思う。

「多分、おれはきみ以上の人にはもう出会えない。そう思ったからおれは結婚を決めたんだ」

 王崎先輩はそういって、私の手を取った。
 意外にも大きなしっかりした手。そうだ、この手に支えられて、私は2ヶ月後に、ウィーンに行く。
 リングすべてに小さなダイヤが連なっている。エタニティリング。永遠を意味する指輪。

「王崎先輩、その、……ズルいです。私、王崎先輩になにも用意してないのに」

 ちょっとだけ重くなった左の薬指をくすぐったく思いながらつぶやくと、王崎先輩は私の背中にそっと腕を回して胸元に押し込んだ。

「いいんだよ。おれがしたかっただけだから」

 そう、か……。さっき王崎先輩が『儀式』って言ってたの、このことだったんだ。

 私ったら、なに、バカなこと先走って考えてたんだろう。
 さっきの心を見透かされちゃったら、私、恥ずかしすぎて、王崎先輩の顔を真っ直ぐ見ること、できないよ。
 今、顔を見られることがなくてよかった。
 このまま顔を埋めていれば、こんな顔、見られなくてすむ。

 そう思っていたのに、王崎先輩はなんの苦もなく私のあごを持ち上げて口づけた。
 先をかすめるような口づけとは違う、理性までも持って行かれそうな強い行為に、気が遠くなる。
 そうだ、私……。
 王崎先輩と結婚するんだ。やっと近くにいられるんだ。ファンの人。ディレクターの人。周りの誰に遠慮することもなく。

「香穂ちゃん。今日は、その……。いいよね?」

 体中の力が抜けきったあと、少しだけ高揚した頬の王崎先輩がささやいた。

「はい? いいって、その……?」




「──── きみを、おれのものにしていいよね?」
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