胸って苦しいときだけじゃない、幸せなときにも痛くなるんだ、ってこのとき知ったんだ。
おれと香穂ちゃんの間に距離があることは、けっして良いことばかりではなかったけれど、
こうして、愛しいという思いを強くできる、ということは素直に良かった、と言えるんじゃないかな。
「……王崎先輩。あの、……ただいま」
「おかえり。香穂ちゃん」
*...*...* Embrace 2 *...*...*
ウィーン国際空港で香穂ちゃんを迎えて4週間が過ぎた夜。外は、まだ昼間の残照が残っている中、おれたちは簡単な夕食をすませると、お互いの姿に目を当てていた。
考えてみれば、今までおれと香穂ちゃんの付き合いは、メールや電話がメインで、それほど多くの時間を共有したことはなかった。
だから、少しだけ不安もあったりもしたんだ。
おれはともかく、こうして別の人格を持つ人間と一緒に暮らすことで、香穂ちゃんがもしおれのことを窮屈に感じたとしたら、
そのときはどうするのだろう、と。
だけどその考えは杞憂だったのだろう。
香穂ちゃんはおれの隣りにも、ウィーンの街並みにも、穏やかに溶け込んでいる。
ウィーンの夏は、日本の初夏のように過ごしやすい季節だ。
おれたちは毎夜、市内の地図を覗き込み、行きたい場所に印を付ける。
おれは黒い万年筆。香穂ちゃんは赤い色鉛筆。重なり合ったところが明日のスケジュール。
おれたちは、毎日1つずつ、公園に行ったり、小さな演奏会に足を運んだりして、会えなかった時間を少しずつ埋めていった。
話をするたび、音楽に対するおれの知識も深くなる。
そして、香穂ちゃんという女の子を知ることができて嬉しくなるんだ。
『お料理、頑張ります!』
と張り切っていた香穂ちゃんは、おれとマーケットに行っては新鮮な果物を用意してくれる。
おれは家族と言えば、両親と、それに年の離れた弟が2人。
女の子というのをこんなに身近に感じるのは初めての経験で。
おれからしてみると、アクセサリーやビンなど、小さくて細かいものが好きなこと、身だしなみの準備に時間がかかることも意外だったけど、
一番驚いたのは、香穂ちゃんがたくさんの果物を摂ること、だったかもしれない。
でも心のどこかで納得する部分もあった。
女の子って、こんな風にたくさん果物を身体に取り入れるから。
だから身体も、こんなにみずみずしくて柔らかくて、いい匂いがするんだ、って。
おれは香穂ちゃんのヴァイオリンと人柄に惹かれて、1度も香穂ちゃんを抱くことなく結婚という形を取ったけど。
こうして香穂ちゃんの身体を欲しいままにして、改めて、感じる。
──── どうしておれは、今まで香穂ちゃんを抱かなくて平気でいられたんだろう。
初めは何度か痛みを訴えていたけれど、今はようやく落ち着いてきたらしい。
最近はおれの愛撫にぎこちないながらも甘い声を発してくれる。
耳朶に残る声が昼間のおれを少しだけ混乱させたりもするけれど、そのあとを追ってくる幸福感は、やっぱりおれの胸を痛くさせるんだ。
男のおれは自分の果てる瞬間を知っていて、そして女の子にも気持ちよくなる瞬間があるっていうのも聞いている、
だけど、おれはまだ香穂ちゃんの壊れる瞬間を見ていない。
……今日は、そんな香穂ちゃんを見ることができたらいいんだけど。
「今日はどんな音楽を聴きたい?」
夕食後、おれは皿を洗いながら尋ねる。
きっと香穂ちゃんの家では、家事は全部お母さんがやっていたのだろう。
香穂ちゃんは手持ちぶさたにおれのまわりをうろうろしながら、テーブルを拭いたり、棚に飾ってある花の水を換えたりしている。
そんな様子が可愛い。
「ん……。ウィーンにいるからかな。ずっとモーツァルトばかり聴いてる気がしますね」
「確かにそうだね。じゃあ今日はベートーヴェンにしようか。どちらにしてもウィーンつながりだけど」
「あはは。懐かしいです。私が高2のクリスマスかな。みんなで弾いた第九、素敵でしたよね」
「ああ。とても良い演奏だったとおれも思うよ」
「……ときどき、思うの」
「うん?」
一緒に住み始めてから、香穂ちゃんは時折、おれと会えなかった日々の話をするようになった。
それも、明るいばかりの話ではない話を。
おれはキッチンの明かりを落とすと、香穂ちゃんの座っているソファへと近づいた。
香穂ちゃんは端っこで膝を抱え、その上にあごを載せている。
「その、ね……。高2の4回のコンクールも、コンサートも、すごく楽しかったの。
初めて、ヴァイオリンに夢中になって。仲間だ、って思える人にも出会えて。毎日があっという間で」
「……うん、それで?」
おれと香穂ちゃんの周りにはベートーヴェンの音が、少しずつ降り積もっていく。
おれは背中越しに香穂ちゃんの身体を抱きかかえると話の続きを待った。
「どんどん親しくなれて、曲も仕上がってきて。なにつ不安はないはずだったのに。
そのとき、火原先輩が言ったの。『諸人こぞりて、って良い曲だよね! 王崎先輩が聴いたらなんて言うかなあ』って」
「……そう。火原くんが。おれもウィーンに行く前はよくオケ部にお邪魔してたからね」
香穂ちゃんは眉根を寄せてかぶりを振る。
「ううん。私は、そのとき思ったの。今、ここに王崎先輩がいてくれたら、どんなにいいだろう、って。
王崎先輩と同級生にはなれなかったとしても、せめてこうして一緒にアンサンブルを組めたらよかったのに、って」
「香穂ちゃん……」
「えーっと、シメっぽくなっちゃって、ごめんなさい。その……。
みんなと一緒に第九を弾けたとき、その、王崎先輩も一緒に弾いてるんだ、って思ったら嬉しくなっちゃって」
おれが声に詰まったのを、不安に思ったのだろう。
香穂ちゃんは急に明るい声を上げると、おれの指を掴んだ。
どうしてこの子は、こんな風におれを共振させるのだろう。
痛いような、切ないような感情は、勝手におれの中で大きくなり溢れ出す。
おれは目の前にある白い首筋に口を付けると、そのまま強く吸い上げた。
「ん……っ」
「おれも同じだったよ。1人でウィーンで暮らしてた頃。……ウィーンの冬は長くて、日本の2月が3回続くのと同じくらいに感じた。
晴れることがない空を見て、うんざりしてた」
「そう、なんですか?」
「だけど、きみはいつも元気なメールをくれたよね。
きみのメールは、どんなときもおれを勇気づけてくれたよ。おれはまだまだやれる。おれは1人じゃない、ってね」
腕の中の香穂ちゃんの身体は柔らかくて温かい。
だけど今のおれは、香穂ちゃんの中がもっと熱いことを知っている。
「……今日も、いい?」
背後から香穂ちゃんの胸を手の中に納める。
自分の5本の指で、こんなに形を変える部分を、男のおれは持っていなかったから。
触れるたびに、目がくらむ気がする。
「待って、あの……。私、朝、また起きられなくなっちゃうから」
「香穂ちゃんは音だけじゃない。身体も素直なんだね。おれが触れるとすぐ尖ってくる」
毎晩のように何度も抱き続けていたせいだろうか。
おれが彼女の秘部に指を這わすと、今夜の香穂ちゃんは零れる蜜を滴らせて、呆然とした表情を浮かべている。
うっすらと汗の膜が張った香穂ちゃんの身体は、昼に食べたオレンジの香りがした。
「香穂ちゃん……」
自分のそそり立った分身を香穂ちゃんの弱いところに、何度も何度も突き立てる。
そのたびに切れ切れな声で、『先輩』と口走る香穂ちゃんが愛しくて、可愛くて、もっと攻めたくなるのが自分でもおかしい。
「ね……。おれの名前、呼べる? 香穂ちゃん」
「せん、ぱい……?」
「いつまでも先輩じゃおかしいでしょう? 言ってごらん?」
「……なんだか、恥ずかしくて……」
ふっと腰を止めると、香穂ちゃんは一瞬、あれ? と表情を動かした。
そしておれの視線に気づくと、泣き出しそうな顔をしておれの背中に手を回した。
「……言える? 聞いててあげる」
止めたことが媚薬になったのか、部屋中に香穂ちゃんの香りが満ちていく。
ふたたびゆっくりと腰を回し始めると、香穂ちゃんは叫ぶように一度だけおれの名前を口にした。
*...*...*
夏が終わろうとしているウィーンで、季節外れの雨がかれこれ1週間も続いている。おれが天候を理由に外に出なくなって、何日か経ったある日。
おれは以前にも感じたことのある感情の波を、1人じっとやり過ごしていた。
壁に掛かっている数字だけのカレンダー。明日の日付には、おれの黒い丸と、その横に、赤鉛筆で小さな丸が書いてある。
明日のウィーン・クライスラー国際コンクール。
4年に一度しか開催されないこと、それに、30歳までしか参加資格がないことから、
ヴァイオリンを志す人間にとっては、スポーツ界のオリンピックにも等しいくらいの価値があると言われている。
わかっている。あの、緊張の中の、いたたまれない思いと、不安。
今までの自分の努力はすべて形作られ、おれの未来は確実におれの手にある。そう願いたい思いと。
おれが築き上げたものは、おれの中の欺瞞でしかなくて、
明日の演奏は、何人の人が中座するようなつまらないモノなんじゃないか、という思い。
相反する感情が、1日に何百、何千と行き交う雑踏の中にいる。
もし、優勝、ということになったら。
優勝者の権利として、オーケストラとの共演の場が与えられ、多くの人がおれの音を耳にする。裾野も広がる。
そこでマエストロと話が合えば、団員として、活躍の場が得られるかもしれない。
この前、香穂ちゃんの家に挨拶に行ったときの、彼女のお父さんの心配そうな顔を思い出す。
ここでおれがそれなりの成果を上げることができたら、お父さんも少しはおれのことを認めてくれるだろうか?
香穂ちゃんをおれに委ねて良かったと考えてくれるかな。
「王崎、先輩? あの……。大丈夫?」
昼食をとってからずっと部屋に閉じこもって、最終調整もしないおれのことが気になったのだろう。
香穂ちゃんは部屋に入るのがためらわれるのか、数センチの隙間からおれの様子を見つめている。
「香穂ちゃん……。ごめんね。1人にして欲しいんだよ」
「え?」
「ちょっとおれを1人にしてくれないかな」
おれは、できるだけ穏やかに丁寧に告げた。
だけど香穂ちゃんは、おれの様子に何か感じるものがあったのだろう。
緊張したように顔をこわばらせると、ただ黙っておれの顔を見上げてくる。
どうしてこんなにイライラするのか、わからない。
おれ1人を頼って、慣れない街までやってきてくれた子に、どうしておれはこんなに自分の感情をぶつけているのだろう。
音楽はみんなで楽しむもの。聴いている人が幸せになれたらいい。
そう信じていた、おれの音楽感が、少しだけ揺らいでいるのがわかる。
自分でも目を背けたくなるような黒い感情が、おれの中で渦巻いている。
おれのこんなところを香穂ちゃんに見せたくはないし、押しつけたくない。
でも今のおれは、これ以上の優しい言葉をかける余裕もない。
「わかりました……。私、ちょっと、出かけてきます」
香穂ちゃんの沈んだ声と、それに続いて玄関のドアを開ける音が静かにおれの背を覆った。