*...*...* Embrace 3 *...*...*
私はドアの音に追いつかれないように、と、逃げるようにアパートメントの階段を降りていった。日頃、ヴァイオリンケースを持っているときは絶対走らない、って決めているのに。
日が暮れかかったウィーンは、急に気温が下がったのか日本でいう秋のような寂しさがあった。
あちこちに見える教会や大聖堂は、レンガの色を刻々と深い色に染め上げていく。
(あんな先輩、初めて、見た)
別に、怒ってたワケじゃない。私に酷い言葉を投げかけたわけでもない。
だけど、自分以外の他者は何もかも否定しているかのような態度に、私は初めて王崎先輩を怖いって思った。
今まで私、先輩のなにを見ていたんだろう。なにを知った気になってたの?
ちょうど私の背中に夕暮れの太陽が当たっているからか、私の身体の影の周りは火色に染まる。
王崎先輩がナーバスになるのは、すごくよくわかる。
クライスラーコンクールは、4年に一度。しかも、出場資格は30歳まで、という若い人への門戸を開く位置づけのもの。
今、22歳の先輩にとっては、人生のウチであと1回か2回しか参加できないコンクールなんだもの。
だけど、どうしてかな。痛みのような寂しさを、私は身体から取り外すことができないでいる。
なんとなく手にしてきたヴァイオリンを広げる。
「どこ、行こう……」
まだ、夕明かりがあるもの。暗記した曲なら、弦を追うのも難しくない。
私の足は以前王崎先輩と行ったことがある小さな公園へと向かっていた。
周囲を見渡すと、チェロを弾いているおじいさんがいる。
ここなら、ヴァイオリンの音がしてもそれほど迷惑じゃないかもしれない。
私は、重たい思いを放り出すようかのように勢いよくヴァイオリンケースを広げた。
軽くペグを回しながら調弦する。
ウィーンの夏は、横浜の秋のように風が軽い。
これなら、思い切り高い音も響かせられる。何曲か弾き終えたとき、私の気持ちも軽くなってるかもしれない。
「そうだ。プッチーニ、とか。それか、ハンガリー舞曲集もいいかな……?」
選んだ曲が、王崎先輩の好きなものばかりで少し戸惑う。
こうして、何週間か一緒に同じ時間を過ごして。
浮かんでくる曲はすべて王崎先輩に繋がっていて。
拒絶されたことで気づいた。
私、王崎先輩がいなくなったら、自分自身が空っぽになっちゃうほど、彼のことが好きなんだ、って。
ゆっくりと弓を構える。意外にも私の作る音は、軽やかに雑踏を包んでいく。
楽譜を追うことのない頭は、指先を置いてけぼりにして、好きな人のことばかり考えるから、余計困る。
──── 私、もう3年、早く生まれたかったな。
そのとき、私は王崎先輩や都築さんと一緒に、リリ主催のコンクールに出ることができたかどうかはわからないけれど。
一緒に参加して。一緒に卒業。一緒の早さで歳を重ねたかった。
そうしたら、私が今抱えている『幼い』という、自分を卑下するような気持ちに、囚われずにすんだのかな。
「Bravo!」
「Klasse, Klasse」
ネガティブな気持ちを振り払うかのように、次々と知ってる曲を奏でていると、いつの間に集まってきたのだろう。
いろいろな肌色の人が、私の周りを取り囲んでいる。
驚いて肩からヴァイオリンを外すと、一斉に硬貨が降ってきた。
こういうところ、ってウィーンはさすが音楽の街だ、って思う。
弾き手と聴き手。どちらも素晴らしい人たちがそろっていて、音楽を聴く、っていう土壌が育ってるんだ。
「……Danke」
よくわからないけど、私が知っている唯一のドイツ語で返事をする。
すると、一番前にいた青年はさらに大きな拍手をくれた。
時計を見ると、もう私がアパートメントを出てからもう1時間が過ぎている。
今、なら、どうだろう。王崎先輩も落ち着いているかな。
もう、私、帰っても大丈夫かな? いつもみたいに、笑って抱きしめてくれるかな……?
「演奏は、終わりです」
そんな気持ちを込めて、もう一度目の前の人たちに一礼すると、彼らは笑いながら、その場をあとにした。
再び公園の奥を覗き込むと、さっきよりも演奏をしている人が増えてきている。
一瞬、私だけの聴衆になってくれた人たちは、また新たな演奏者を探しにいくのかもしれない。
「えっと……。これ、拾っちゃって、いいのかな?」
私は足元に散らばっているダイムを手にすると、全部拾ってもいいのか考え込んだ。
お賽銭、みたい? それとも、ここはウィーンだから、チップ? どうしよう。私、日本でこんなこと、したこと、ない……。
「コレ、全部、君のだよ?」
「は、はい?」
顔を上げると、そこにはさっきまで最前列で拍手を送ってくれていた青年が、せっせとダイムを拾い上げている。
そして、取っつきやすい笑顔で、私の手を引っ張るとその上に集めた硬貨を置いてくれた。
「ねえ、君は、コリアン? ジャパニーズ? それともチャイニーズなの? 英語、わかる?」
「あ、あの、ジャパニーズ、かな。あ、それと……。英語は、少し、だけなら」
うう、ちょっと早口でよくわからない。
だけど、訛りの強いドイツ語が飛び交う街の中で、青年の話す英語は聴き慣れた母国語のようにすんなり私の中に飛び込んできた。
「君の曲、すごく素直な良い音だね! 僕はそういうの、好きだよ」
「ありがとう。そう言ってくれて、嬉しい」
学校の英語ってどうして文法ばかりやっていたんだろう。
大事なのは伝えたいと思う気持ちだ。その先に、文法、とか、語彙とかがある。
私は、まどろっこし思いを抱えたまま、目の前の青年に笑いかけた。
青年はどこか火原先輩に似た光る眼を持っている。
瞳は温かく、濡れたように潤んでいて、私は一目でこの人が好きになった。
「ジャパニーズ! じゃあ、多分小食なんだね。そうだ、そこに夕方から始まるマーケットがある。
よかったら果物でも買っていったら? みんなからもらったそのダイムでさ」
「う、うん……。ありがとう」
どうして、『ジャパニーズ』が『小食』に繋がるのかはよくわからない、けど……。
青年の指さす方向には、日本のフリーマーケットのような小さいながらも活気のある一角があった。
オレンジと、レモンかな? 黄色のヤマが見える。
『ここオーストリアは、ヨーロッパの中の中枢に位置していて、どんなモノも割と簡単に手に入れることができるんだよ』
って教えてくれた王崎先輩の声もよみがえる。
そうだ。私が稼いだ? とも言えるこのお金で、果物を買っていこう。
今日は王崎先輩もゆっくり休んで、明日のコンサートに備えられるといいよね。
「君にまた会えることを願って。じゃあね」
青年は私の差し出した手を軽く握ると、飄々とした様子でその場を離れていった。
*...*...*
「ただいま。……王崎、先輩? いますか?」夜8時。こちらは緯度が高いせいもあって、まだ、建物の輪郭がうっすらとわかるくらいの明るさがある。
私は両手にいっぱいの果物、それにヴァイオリンケースを持って王崎先輩のいるアパートメントに帰った。
部屋には明かりがついていない。
もしかしたらもう休んでいるのかも、と私は、たった今、大きな声を上げたことを後悔する。
どうしよう、王崎先輩、どこにいるの?
私はおそるおそる部屋の明かりを点ける。
整然とした空気は、この部屋の住人がいないことを知らせてくる。
「どうしよう……」
コンクールは、明日、12時から。
少しくらい夜更かししても、体調は問題ない、とは思うけど。
一緒に暮らし始めてからの王崎先輩は、1人で夜、ふらりと街に出るというようなことは1度もなかった。
……一体、どこへ行っちゃったんだろう。
「香穂ちゃん!」
「ひゃっ!」
突然勢いよくドアが開いた、と思ったら、そこには肩で息をしている王崎先輩がいた。
袋から取り出していたオレンジは、ころころと私と先輩の間をすり抜けて壁で止まる。
「あ、あの……。ごめんなさい。ちょっと外に出てて。その、オレンジを買って……」
「ごめんね。あれから心配になって、いろいろなところを探し回っていたんだ。本当にごめん」
「いえ、あの、私こそ、遅くなって」
王崎先輩は、私の言葉も耳に入らないような様子で、私の胸に頭を寄せている。
抱き寄せられる、というよりもむしろ、今は、私が抱えているような格好に慌てながらも、
私は王崎先輩の髪はなんてキレイなんだろうと、別のことを考えていた。
「もし、明日のコンクールに優勝すれば、日本のCDも売れるだろうし。
なにしろ香穂ちゃんのご両親にも、喜んでもらえると思ったんだ」
「両親……。私のですか?」
「不思議なものだよね。一人でいたときにはこんな風に考えることはなかったのに、
香穂ちゃんを支えていかなきゃと思ったら、今までになく緊張した」
ずっとかがんでいる体勢がキツくなったのか、王崎先輩は私の手を取って寝室にいざなうと、雛のように私の胸に顔を埋めている。
そして、さっきまでの自分の行動を後悔しているのだろう、何度もごめん、という言葉を口にした。
「嫌いになった?」
「ううん? そんな……。だって、私、王崎先輩のことがすごく好きで……。自分と王崎先輩って釣り合ってないな、って思ってて」
「……うん、それで?」
王崎先輩は私の髪を撫でながら続きを聞いてくれる。
眼鏡ごしに見ている瞳よりさらに暖かみを増した色が私を映す。
そうだ、私、先輩のこういうところが好きだったんだ。
ちゃんと、話せば、伝わる。音楽のことも、私自身のことも。
この人のこと、100パーセント、信じていられる。そう思えることが幸せだったんだ。
気がつくと、私と王崎先輩は、ほとんど服を身につけないでお互いの身体を抱き寄せていた。
「──── ねえ、きみに溺れてもいい?」
「王崎先輩……」
「おれは、今日はいつもみたいに優しいままではいられない、と思う。
きみを壊してしまうかもしれないし、香穂ちゃんを置いて、1人でイッてしまうかもしれない」
「いい、です」
「香穂ちゃん?」
「その……。私の身体に気をつかってくれなくて、いい」
緊張するの、当然だと思う。先輩が、音楽に対して一生懸命なところも、知ってる。
今まで、ずっとあなただけ見てきた。
私は、そういう先輩だからこそ、好きになったんだもの。
「先輩……」
伝えるのが苦しい。喉の奥が熱くなる。
明日は特別な日なんだもの。私にぶつけてくれていい。
「……困る、な」
「はい? 王崎先輩……?」
「そんなにおれを甘やかすと、クセになっちゃうよ」
「クセ、ですか?」
「きみにずっと甘えるクセ。……おれ、今まで人に甘えるってことをしてこなかったから」
いつもは触れるか触れないかわからないくらい優しく触れる先輩が、今日は、何かにとりつかれたかのように、強い愛撫を繰り返す。
胸の先端を痛いほど摘まれて、私は思わず声を上げた。
「っあ……っ」
でも、痛みの後に続く気持ちよさに、少し慌てる。
……わからない。どうしてこんなに、気持ちよくなるの? 私……。
「そんな顔して。知らなかったな、香穂ちゃんは強引なのが好きだったなんて」
「ち、違うの、私……」
そう言って口をつぐむ。そうだ、今日は、王崎先輩に気持ちよくなってもらいたいって思ったんだもの。
余計なこと、絶対、絶対、言わないんだ。
じわりと私の中心が潤み出したのを感じる。
言葉で伝えるのがどうしても恥ずかしくて、私はその部分をそっと彼の腰に押し当てた。