コンクール当日の朝。
 おれは眠っている香穂ちゃんを起こさないようにベッドをすり抜けると、2人分の紅茶を淹れた。
 紅茶も、食事も。1人分用意するより、2人分の方が遥かに美味しい。
 そう感じたのは、香穂ちゃんがいなくなったときに飲んだコーヒーの苦さを知ったときだったっけ。

「おはよう、ございます……。ごめんなさい。今日くらい、私の方が先に起きたかったのに」
「おはよう。香穂ちゃん。いいんだよ。よく眠ってたみたいだったから」

 どこかけだるそうな様子の香穂ちゃんは、おれと目を合わせたとたん ぽっと頬を赤らめた。
 そんな彼女の様子を見て、おれ自身昨日の痴態を思い出す。

 そうだ。おれの我儘でアパートメントを出て行った香穂ちゃんを、勝手に心配して。
 そして、香穂ちゃんの身体が壊れてしまうかと思うほど、何度も香穂ちゃんの身体におれを押し込んだ。
 女の子の身体は、そんなおれの身体を穏やかに受け入れ、受け止めてくれると知ったとき、
 おれは、男っていうのは、根本的なところで女の子には敵わない部分があるんじゃないかとさえ思った。

 パジャマの隙間から、赤い内出血の跡が見える。
 女の子はどうして体中のどの肌も甘いんだろう。
 滲んだ汗を吸い取るつもりで触れた肌は、今改めて見つめると、妙にそこだけ生々しい。
 ──── 今、もう一度、香穂ちゃんの弱い場所に唇を当てたなら、この子はどんな声を上げるのだろう。

「……恥ずかしいから、その……」
「え?」
「そんなに、見ないで?」

 おれの不躾な視線にいたたまれなかったのか、香穂ちゃんは細い指でパジャマの襟を直した。

「そうだ、あの……。今日のコンクールのチケット、入手するの、大変でしたか?」
「ううん? 出場者には、家族枠で、2枚はチケットがもらえるから、大変ってことはなかったよ。
 だけど、一般枠で取ろうとすると難しいかもしれない」

 オーストリア。ウィーンで開催されるクライスラー国際コンクールは、4年に1度しか開催されないという希少性も手伝って、
 チケットを取るのは至難の業、と言われているらしい。
 日頃、さほど付き合いのない高校時代の友だちからの依頼も、10件以上断ったような気がする。

「そうなんですか……。私、王崎先輩の音、心して聴きます」

 香穂ちゃんはティーカップを手に、柔らかな笑顔を向けた。
 
*...*...* Embrace 4 *...*...*
 出演者は、演奏開始時間の3時間前に現地に集合するというルールがある。
 バックで演奏するオケとの簡単な音合わせがあるからだ。

 おれは予定通りの音合わせを終えて、自分の控え室に来ていた。
 6人のファイナリストのうち、優勝者はただ1人。
 その人は、地位と、名誉。それ以外に、この冬に行われるザルツブルク音楽祭でウィーン交響楽団との共演の機会が与えられる。

 もし、おれがその立場になれたら。
 そうなれたらもちろん素敵なことだし、なにより、香穂ちゃんが喜んでくれるだろう。
 だけど今は不思議なことに、優勝者という地位と名誉は、昨日ほど強くおれの心を突き動かさない。

 ──── もう、いい。おれは彼女が喜んでくれる音楽を作る。それだけでいい。
 昨日まで、否定しようとしてもできなかった不安な気持ちは、今はもうない。
 それどころか、今のおれの気持ちはどこまでも高く澄み切っている。

(おれにはあの子がいる)

 これから先、どんなことがあっても、香穂ちゃんはおれのそばにいてくれる。
 不安な気持ちもあっただろうに、遠くの街までおれのために来てくれた。
 1人でできないことでも2人ならできる。そう信じる強さを持たせてくれたのは香穂ちゃんだから。

「おれね、今日はきみのために弾こうって決めた。きみの笑顔が引き出せるような音を作ろう、ってね」
「そんな……。その、曲想、とか、その、曲に込める王崎先輩の思いとか、ありますよね?」

 楽屋に一緒に来てくれた香穂ちゃんは、演奏家らしい助言をくれるけど、おれは黙って首を振る。

「いいんだ。おれがそうしたいって思ったんだから」
「……わかりました。王崎先輩、このコンクールを楽しんできてくださいね。私、客席でずっと見てます」
「それにしても」
「はい?」
「……きみはいつまでおれのことを先輩って呼ぶんだろう? 夜はおれのこと、ちゃんと名前で呼んでくれるのに、ね?」

 返事のしようがないのだろう。香穂ちゃんは かぁっと首まで赤くすると、無言の抗議をしてくる。




「……うん? 誰かな?」

 不意に鳴ったノックの音に顔を上げると、おれは、入ってもかまわないことをドイツ語で伝える。
 言ってしまってから、ドアの向こうに立つ人間が日本人だったらと思うと、ワケもなく恥ずかしくなる。
 日本語を知っている人に、ドイツ語で話しかけるのはどこか面映ゆいものだから。
 でもどうしてだかドアは開かない。不思議に思ったおれがドアを開けると、そこにはウィーンの初夏を思わせるブルーの髪が見えた。

「失礼します」
「君は……」
「お久しぶりです。王崎先輩。香穂子、君もいたのか」
「月森くん! 久しぶりだね」
「突然すみません。しかも、知り合いまで連れてきてしまって」

 見ると、月森くんの背後にはひょろりと背の高い青年が立っている。
 楽器をやる人間なのだろう。まずおれを見て微笑み、すぐ脇にあったヴァイオリンを見て目を輝かせている。

「ようこそ、月森くん。君もてっきりこのコンクールに参加するかと思っていたよ」

 おれと月森くんは軽く抱き合うと、お互いの手を握った。
 月森くんは香穂ちゃんと同い年、だった。
 高校2年と、大学3年という年の差は、そのときは大きく感じたものだったし、
 月森くんの時折見せる頑なな態度は、それがなくなれば、彼の音はもっと広がる。そう思ったこともあった。
 約2年のウィーンの風が、彼を大きくしたのだろう。
 目の前にいる月森くんは、穏やかな強さを持った青年になっていた。

「王崎先輩、一緒に来ているのは俺の友人で、リゲティ。ナポリ出身で……」
「初めまして。オレ、Mr. 王崎の演奏を楽しみにしてきました! 素晴らしい夜になることを祝して!!」
「わっ。や、やあ。初めまして。王崎といいます」
「オレってすっごくラッキーマンじゃない? レン、今夜の君に最大限の感謝を!」
「……リゲティ。君は相変わらず大げさだな」

 リゲティという青年はいきなりおれを抱きかかえると、何度も頬をすり寄せてくる。
 月森くんは、青年に落ち着くように告げると、おれに頭を下げた。

「すみません、王崎先輩。悪い人間ではないんですが、遠慮ということは考えにない友人で」
「いや。イタリアの国民性、というのかな。おれは好きだよ」

 日本語で謝る月森くんにおれは笑顔を返した。
 本当に……。本人の持っている素材に加え、国民性、というのは明らかに音楽的素養をも左右する。
 イタリア人に日本人の繊細さを表す音を作れ、というのは酷なように、
 日本人にあの開放的な音を作れ、といっても、無理な話なのだから。

「あれ? 君ってもしかして、オレンジの君?」

 紹介もそこそこにリゲティは、香穂ちゃんを見て大きく相好を崩した。

「え? 私……? ああ! あのときの?」
「ほら、ラインツ動物園通りでヴァイオリン弾いてた子でしょう? 君の演奏、すっごく良かった!」
「香穂ちゃん、知り合いだったの?」
「あの、昨日知り合いになった人です。オレンジのお店を教えてもらって」
「そうそう! あの市場、フルーツがオススメなんだよ。ああ、じゃあ、もしかしてあなたも食べた? あのオレンジ」
「え? ああ……」

 リゲティという青年は、満面の笑みを浮かべて今度はおれの手を握りしめた。

「オレの住んでいるナポリでは、オレンジは勝者のための果物なんだ。あなたの勝利は、決まったようなものだよ!」
*...*...*
 コンクールを終えた直後というのは身体の至る所に、興奮の粒子がまぶされてる、と思うことがある。
 どこかが落ち着いても、また別のどこかが熱くなる。
 おれは祝辞への挨拶もそこそこに、まっすぐに自分の楽屋へと向かった。

 自分でも持て余し気味な熱い身体が冷めることを期待しながら、はめ殺しの窓を開けようとして開かないことに苦笑する。
 反対側の小窓からはウィーンの乾いた風が滑り込み、祝花の香りでむせ返っている部屋を通り過ぎていく。

『第7回。クライスラー音楽コンクール、優勝者は、王崎信武さんに決定しました』

 目を閉じても浮かんでくる、観衆たちの熱気。拍手。スタンディングオベーション。
 もう一度、さっきと同じ演奏を、と言われても、今のおれには到底できない。そう思える。

 みんなが喜んでくれたらいい。それがおれの音楽だ。
 ヴァイオリンを始めたばかりの頃からずっとそう思ってやってきたし、それはいつもおれの音楽の支えでもあった。
 だけど。

「……ん? 香穂ちゃん?」
「はい! 香穂子です」

 ドアをノックする音に続いて、香穂ちゃんのやや高い声が飛び込んでくる。
 香穂ちゃんは高揚した様子で、おれを見上げた。
 涙が溜った瞳は、今夜の舞台以上にたくさんの光を帯びている。

「王崎先輩、おめでとうございます! なんだか……、なんだか圧倒されました、私……」
「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ」
「スケルツォをあんなに優しく弾く人を、私、今まで知らなかった。胸がいっぱいになりました」
「おれね、今日は少しだけ、昨日とは違う自分になれたんだよ」
「はい?」

 香穂ちゃんは優しい目でおれを見守ると、続きを待つように首をかしげている。

「おれの大事な女の子がそばにいてくれたからね。
 ……ああ、そうだ。香穂ちゃん、花、好きでしょう? 好きな花、持って帰っていいよ?
 残りはあとで宅配にしてもらえばいいよ」

 興奮を身体に抱きながら過ぎる時間というのは、普段のとき進み方が違う。
 おれは柱時計を見て我に返った。
 退室の時間を1時間も過ぎている。
 おれは、ヴァイオリンケース、それに衣装ケースを手に、香穂ちゃんの背を押した。

「王崎、先輩……」

 どういうわけか、香穂ちゃんは困ったような顔をしておれを見上げてくる。

「うん? 香穂ちゃん、どうかした?」
「あの……。私、まだ、女の子ですか? 王崎先輩にとって」
「え?」
「そ、その。えっと、女の人、にはなれませんか?」

 おれは改めて目の前の香穂ちゃんを見つめた。
 大学1年の夏、香穂ちゃんは、おれだけを頼ってこの街に来た。
 それから約2ヶ月。

 臈長けた額。細くなった首から肩のラインは、匂い立つほど美しく、見慣れているおれでも目を見張るほどだ。
 女の子、と思っていた子は、こんなにも美しくたおやかな女の人になっていた。
 おれの音楽は、すべてきみへと続く。だからこんなにも頑張れたんだと今は思う。

 おれは香穂ちゃんの後頭部に手を当てると、花びらのような唇を壊さないように優しく舐める。



「……その答えは今夜教えてあげる、ってことにしていいかな?」
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