*...*...* Embrace 1 *...*...*
 コツン、と、筋張った長い指がマホガニーの机を弾いた。
 2つの顔が映った黒い机は、底のない湖に似ている。
 吉羅さんは、二の句が告げられない私の様子に やや不機嫌そうな顔を向けた。

「日野君、君は私の話を聞いているのかね?」
「はい。……だけど、あの、突然すぎます! それに……っ」

 私は目の前の人が苦手だ。ううん。怖い、って言ってもいいくらい。
 時折射るように鋭くなる眼光も、なにを考えているかまるでわからない表情も。
 きっと、私がまだ筋道が立てられない感情を、私以上に論理立てて理解してるんじゃないか、って思えてくる。
 吉羅さんは否定の言葉を続ける私に呆れたようなため息を1つつくと、勢いよく椅子から立ち上がった。

「日野君。今、私が言ったことは決定事項だ。
 君はこの夏休みから、ウィーンで開かれる約4ヶ月間のサマーシップに参加する。
 パスポートなど必要なものは学院側が用意する。詳細は今、手渡した書類を参考のこと。
 我が校の広告塔たる君に、拒否権はない」
「そんな……、そんなのってないです」

 毅然とした言い方に、私は思わず顔を上げた。
 そりゃ、吉羅さんと比べたら、私のスケジュールなんてささやかなモノかも知れない。
 だけど、私は私なりに私の生活を大事に思っているんだもの。
 それが3週間後、突然断ち切られるなんて……。

「君はまだまだ認識が甘い。このような好条件を拒否するのは、音楽科の中では君くらいなものだ。……それとも」

 そこでいったん吉羅さんは口を閉ざすと私の顔を見据えた。

「──── なんだね? 可愛い恋人をおいていくのが気になる、とでも言いたげな顔だね」
「な……っ」

 いきなりの問いかけに、私は、呆然と吉羅さんを見上げる。
 どうして、この目の前の人はそんなことを知ってるのだろう。
 ううん。それ以上に。
 私は自分の気持ちが見透かされたことに、言いようのない恥ずかしさを感じた。
 なぜなら私が気になったイチバンのこと。それは志水くんのことだったからだ。

「別れるのは惜しくても、いつかそれらは良い思い出になり、君の音楽の糧になる。
 そうしてお互いの音楽に深みを持たせることができたなら、彼も本望だと思うが」
「そんな……。ど、どうして、そんな、私と志水くんが別れる、って話になるんですか?」

 目を逸らそうにも逸らせられないほどの強い視線に貼り付けられたように、私と吉羅さんは数秒の間見つめ続けていた。
 男の人の顔をこれほど長い間目に映していたことは、今まで生きてきて初めてのことかも知れない。

「どうなのだね?」

 吉羅さんは、意地になってにらみつけていた私からつまらなそうに目を逸らすと、
 手持ちぶさたに机の上に置かれていた高級そうなボールペンを手にして、再びこちらを流し見た。

 艶のある目つきって、こういうことを言うんだろう。
 こういう余裕のあるところが、吉羅さんの隠れファンの多さにつながってる、って私は思う。
 元々ミーハーなところがあるクラスメイトの真奈美ちゃんに至っては、すごくすごく吉羅さんを高く評価しているんだもの。
 一度でも助手席に乗ってみたい、とか、吉羅さんのヴァイオリンを聞いてみたい、とか! 大人の魅力にクラクラする、とか。
 確かに目の前の人には、私の近くの男の子が持ってない雰囲気がある、とは思う。
 ──── ううう……。で、でも、負けないんだから!

「日野君?」
「はい。……えっと、志水くんのことは、すごく気になります。1番最初に気になりました」
「ほほう。これはまた素直な反応だね。理由は?」
「それは……。私は、そんなに長い間、彼と離れたことがなかったから、です」

 そうだ。今から1年前の春。
 ヴァイオリンなんて触ったことさえなかった私がどういうワケかリリに誘われて、星奏の学内コンクールに参加して。
 そこで、志水くんに出会った。
 最初は音楽科の人って変わってる。普通科の私とは、ずっと口も利かないまま卒業していくんだ、って思ってた。

 ……だけど。

 春の4つのコンクール。秋にやった4つのアンサンブルを過ぎて今、私は音楽科に在籍し、志水くんの隣りにいる。
 運命? なんて大切なことを軽く言うことはできないけれど、
 私にとって今一番大切な存在は、志水くんと音楽なんだもの。

 ただ……。

 私は右の頬に手を当てる。
 音楽と志水くん。そのどちら一方を選んで、って言われたら、私はどうするんだろう。考えたこともなかった。
 そう考えて我に返った。
 怖い、って思ったのは、4ヶ月も離れてると、私と志水くんの付き合いもダメになっちゃうって考えている自分だった。

「学生というものは視野が狭い」
「はい?」

 私の様子を見ていた吉羅さんは歌うように口を開いた。

「アルジェントの好意か悪意かはわからないが、君たちは、日常からやや隔たったところでの出会いがあった」
「そう、ですね……」
「毎日、顔を合わせる。毎日、話題がある。それこそ音楽の全てを語るには人1人の人生全てを費やしても足りないからね」
「はい」
「そこに錯覚が生まれる」
「錯覚、ですか?」
「お互いがお互いを唯一無二の存在であると勘違いをすることだ。数ヶ月離れていれば、その手のまやかしも解けていくだろう」

 『まやかし』という言葉に、かっと顔が熱くなる。
 私は、自分が生徒という立場も忘れて言い返した。

「あんまりな言い方だと思います。もしそうなら私と志水くんとの関係も、まやかしだ、っておっしゃるんですか?」
「そうじゃないと言うのなら、その根拠を出してみたまえ」

 ぴしゃんと頬を叩かれたような気がして私は我に返る。
 どうしてこんな風に言い立てられなくてはいけないんだろう。
 怒りのような思いが浮かんできて、私は真正面から吉羅さんをにらみつけた。
 目の奥が熱い。
 いつもだったら、リリが飛び出してきて、私の味方をしてくれることが多いけど、今日はどこにも気配がない。
 もしかして、あらかじめ吉羅さんから、出てこないようにとクギを刺されているのかも知れない。
 吉羅さんはどこまでも余裕たっぷりに、私を見て小さく笑みを浮かべた。

「君のそのような顔を初めて見た。なかなかいいものだな」
「……からかわないでください」
「根拠など、出せないだろう。人の気持ちなどは、数値や紙面では表現できない。音楽とも似ている部分がある。君も……」
「はい?」
「君も、今の恋人の存在がなくなったら、見えてくるものがあるかもしれないな」
*...*...*
 私は吉羅さんから手渡された紙を片手に、ぼんやりと森の広場へと向かった。
 風をはらんで、白い紙は揺れる。
 もっと大事に持ってなきゃ。もし、飛んでいったり無くしたりしたら、さっきよりもっと厳しい顔した吉羅さんに怒られる。
 そうはわかっているのに、私はわざとぞんざいにその紙を扱うことで、少しだけ気晴らしをしていたのかもしれない。

 それにしても、さっきのことが夢の中のことのように思えてくる。
 留学? 4ヶ月。3週間後。  さっきの話は、本当に私に関係している話なのかな?

 ちょうど昼休みだからだろう。
 周囲には、あちこちに2、3人のグループができている。
 星奏は海も山も近いせいか、気持ちいい風が吹いている。
 ネコのケイイチとカホコは、ひょうたん池の近くの木陰という特等席を陣取って、のびのびと白いお腹を見せていた。

「ねえ、まだ時間あるよね? 今から購買に行って、ジュース買わない?」
「うーん。いっそのこと、カフェテリアはどう? デザート、新作が発売されてるかも!」
「うんうん。いいねえ」

 2匹のネコを可愛がっていた1年生は、お弁当を食べ終わったのだろう。
 ぺこりと私に一礼すると、肩を並べて校舎の方に歩き出した。

「4ヶ月、か……。ちょっと、吉羅さん横暴だ、ってカホコも思わない?」

 回りに誰もないことを確認して、私はカホコに話しかける。
 そして、さっきまでの吉羅さんとのやりとりを考えていた。
 大体4ヶ月って、長すぎる。だって、あと2週間で夏休みが始まる。
 吉羅さんのいうとおりにするなら、新学期が始まる頃にはもう……。
 ううん。夏休みも途中で、私は日本を離れることになる。
 高3の大半の思い出ができないことになるんだ。

 過ぎてしまうと、なにもかも大切な思い出になるのかな。
 卒業してしまった柚木先輩や火原先輩。それに、月森くん。
 みんなで回った文化祭、すごく楽しかったっけ。

 あのときは、自分の気持ちがどこに向かっているか、とか、私は誰が好きなんだろう、なんてことは全然考えてなかった。
 今日は1人練習をして。それから、アンサンブルをして。
 そうだ、加地くんと一緒に2人練習しておかなきゃ。って、毎日走り回ってばかりいた。

 クリスマスが近づく頃、志水くんに言われたことに、はっとした。

『僕には、香穂先輩が必要です』

 誰かに必要とされたこと、って、私にとっては初めてのことだった。
 好きな人に、必要とされる自分を、これほど大事に思えたことってなかったもの。

 半年経った今も、私の志水くんに対する気持ちは変わらない。むしろ強くなってるくらいなのに。

「あれ?」

 ふいに、黒い影がどんどん伸びて私の背中を覆う。
 振り返るとそこには、強い日差しの中、2つの影が見えた。

「天羽ちゃん! それに冬海ちゃん?」
「ご名答だよ。香穂。ネコと黄昏れてどうしたの? お昼は?」
「香穂先輩。お会いできて良かったです。私、今日ミートパイを焼いてきて……」
「ミートパイ……?」
「今日は少しだけ味付けを濃くしてみたんです。一緒にいかがですか?」
「そうそう。アタシ、飲み物多めに持ってきたんだ。一緒に食べようよ」

 2人は、私の表情に気づくことなく、いつものように賑やかに私の横に座った。
 ──── よかった。
 せっかくの昼休みだもの。2人まで、私のブルーな気持ちを移したくないもん。

 天羽ちゃんと冬海ちゃんは、さっき購買で会ったという志水くんの話を始めた。

「そういえば香穂。志水くんがアンタのこと探してたよ? 約束してあったとか?」
「う、ううん? あ、約束はしてないんだよ?
 昼休みが始まってすぐ、私、ちょっと呼び出されちゃって。急いで行くように言われたものだから……」
「なあに? 赤点とか? って、そもそも音楽科って赤点あるの?」
「ううん……」
「アタシも今回の数学はひどかった! ま、受験する大学は数学が要らないからいいんだけどね。香穂、ほら、フォーク」
「ありがと」

 冬海ちゃんはいそいそと、真っ白な皿の上、深いブルーの紙ナフキンを取り出した。
 夏の空から一片切り取ったかのような気持ちのいい色に、胸が熱くなる。
 そうだ。私……。
 さっき吉羅さんが行っていた留学。ウィーンに行くとしたら、志水くんだけじゃない。
 冬海ちゃんや天羽ちゃんにもこうして会えなくなっちゃうんだ……。

「ん? 香穂。どうしたの?」
「ううん! 冬海ちゃん、すごく美味しそうだね」

 母さんはいつも言う。

『話し上手より聞き上手。どんなときも相手への気遣いを忘れないでね』

 ずっとその考えが正しいと思ってきたし、自分自身がそうなれるように、って無意識のうちに思っていた部分もあるけれど。
 だけど、今日みたいな日は、細かいことには気づかないでいてくれる天羽ちゃんの豪快さを、私はすごく暖かく感じていた。
 白い皿と、青いナフキン。それに、美味しそうな焦げ目のついたミートパイは、私たち3人だけの夏の空だ。

「香穂先輩……。どう、ですか?」
「すっごく美味しい! あ、そうだ。冬海ちゃん、よかったらこのミートパイのレシピ、教えて?」
「はい! 喜んで」

 思いのままに伝えて、はっとする。
 優しい冬海ちゃんのことだから、すぐにレシピはくれるだろう。
 だけど、あと3週間しか日本にいない私に、このミートパイを作る時間は残ってないのかもしれないんだ。
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