*...*...* Embrace 2 *...*...*
「香穂先輩。お昼を食べに行きましょう」

 僕は午前中の授業が終わるチャイムが鳴ると、真っ直ぐに香穂先輩のいる3年生の教室へと向かう。
 僕がまだ1年だったときは、香穂先輩は普通科に在籍していたから、今よりももっと時間がかかった。
 会っているときだけじゃない。あの人に会いに行く時間さえも、僕にとっては幸せな時間だったから、全然苦にはならなかったけれど。
 でも、やっぱり、早く会える方がいいに決まってる。

「あ、志水くん。ごめんね、ちょっと待ってて」

 午前中の授業は実技だったのだろう。
 香穂先輩はちょうど音楽室から帰ってきたところらしく、真剣な顔をしてヴァイオリンのペグを1つ1つ緩めているところだった。
 先輩のその様子は、ちょっとでも気を抜いたら、ヴァイオリンが食いついてくる……、なんていうお伽噺を刷り込まれた女の子みたいだ。
 小さな子どものような表情に、僕の顔は自然に緩くなる。
 香穂先輩と一緒にいるとき、自分が年上だとか年下だとかってことを深く考えたことはない。
 むしろ、僕と彼女との間に音楽があるとき、僕は彼女のことをずいぶん年下の子に思うことがあった。
 すると不思議と、胸を締め付けられるような感情に襲われることがある。

 僕が彼女のためにできることはなんなのか。もっともっと僕ができることが他にあるんじゃないか、って。

「お待たせ! ごめんね。遅くなっちゃった」

 香穂先輩はパタパタと教科書を机の中に片付けると、嬉しそうに僕の顔を見上げてくる。
 先輩のこんな顔を見るだけで、僕は今日も昼の誘いに来て良かった、と思う。
 そういえば今週の初めごろ、こうしてお昼を誘いに来たとき、香穂先輩がいないことがあったっけ。

「そうだ。今日は志水くん、食べたいもの、ある?」
「いえ、別に」
「じゃあ、カフェテリアに行こうか」

 立ち上がった香穂先輩は、去年よりもずいぶん小さく見える。
 この前そのことを伝えたら、香穂先輩は、まぶしそうに目を細めて笑ったのを覚えている。

『私が小さくなったんじゃないの。志水くんが大きくなったんだよ?』

 そういえば高2になったばかりの頃、学院内で健康診断があった。
 身長や体重。ありきたりのことを計ったり検査したりはした。
 だけど、数字ばかりが羅列された紙はすぐどこかへ行ってしまったし、僕の記憶の中にも残らなかった。
 考えてみれば最近、なんの違和感もなくチェロを抱え込んだりできる。
 腕の長さが確実に伸びていることは事実だ。
 図書館の書庫の、高い位置にある本を取るときの、踏み台も要らなくなってる。
 だとしたら、背が伸びていてもおかしくはないのかもしれない。

「香穂子。相変わらず仲がいいねえー。あなたたち」
「えへへ。いいでしょう?」
「そういえば、日野。音楽理論のレポート、仕上げといたからな」
「あ、ありがとう!」

 香穂先輩には、いろいろな人が話しかけてくる。
 日頃、僕1人でいても、あまり話しかけてくる人はいない。
 なのに、香穂先輩のまわりは、男女を問わず人が溢れている。
 いや、人だけじゃない。
 香穂先輩には、花も笑う。犬もしっぽを振って付いてくる。
 猫のケイイチに至っては、香穂先輩の膝の上が指定席でも言いたげに、占領してくる。

 ちょっと面白くないときもあるけれど、自分の好きな人がみんなに好かれてる、と感じるのは悪くない。

「そうだ。香穂先輩、そういえば……」
「うん? なあに?」

 カフェテリアは週替わりでメニューが替わる。
 香穂先輩は、今月のオススメと大きく紹介があった、ペスカトーレとサラダを頼んでいた。
 僕も香穂先輩に釣られるようにして同じモノを頼む。
 窓の外、僕たちの目の前には、抜けるような夏の日差しが広がっていた。
 空と海。1本の白い波が2つを冷静に分けている。

「今度の週末ですけど、時間取れますか?」
「週末?」
「ちょうど期末考査も終わります。香穂先輩は、初めてのことで大変だったでしょう。
 ……僕、香穂先輩の息抜きに付き合います」

 音楽科に転科して以来、香穂先輩は、ネガティブなことは何一つ言ったことはない。
 だけど、筆記試験はともかく、実技試験となると……。
 その手の教育を1度も受けたことがない香穂先輩からしてみたら、それなりに大変だったんじゃないかなと思えてくる。

 先生の模範演奏を一度で記憶したり、演奏の解釈を自分なりに咀嚼したり。
 僕や音楽科の人間が当たり前にできることが、実は香穂先輩にとってすごく苦しみを伴うものなのなら。
 ──── そこまで考えて、いつも僕は堂々巡りになる。

 僕が今、香穂先輩にできることはなんなのだろう。
*...*...*
 この日の放課後、僕は香穂先輩を誘い、駅前の練習スタジオに来ていた。
 土浦先輩が勧めてくれたこの場所は、学院と駅のちょうど中間にあり、香穂先輩の家からも近い。
 学院で下校時刻まで練習した後、ここで香穂先輩と2人きりのレッスンをする。
 これは、もうずっと前からの決まり事のような錯覚さえ感じる。

「今日はこれから少し、いいですか?」
「うん……。少しだけ、なら」

 香穂先輩は、これから僕らがどこへ向かおうとしているのか察したのだろう。
 ふっと目の縁を赤らめて、視線を逸らす。

 香穂先輩の身体を知って困ったこと。
 それは、これから先同じことを繰り返したい、と思ったときに、その行為ができる場所があまりにも少ない、ということだった。
 香穂先輩は、自宅で、お母さん、お姉さんがいて。
 僕の家ならどうかといえば、にぎやかすぎる叔母がいる。
 叔母さんは、1度連れて行った香穂先輩をすごく気に入ったみたいで、今では、叔母さんと母さんとの会話の9割は香穂先輩の話だ。

 香穂先輩に自分の気持ちを伝えるとき。
 音楽なら、もっと簡単に思いの丈を伝えられるのに、と思うときがある。
 抱きたい、って言えばいいのだろうか? 香穂先輩、あなたのことが好きだから、抱かせてください、って懇願すればいいのだろうか?
 人の気持ちを推し量るって大変な作業だ。しかもそれが好きな人ならなおさら。

「待つことは嫌いじゃないけど、僕、今日はあまり辛抱できそうにありません」
「志水くん?」
「いつもなら、ここから少し歩いたホテルまで、我慢できるんですけど」

 僕は楽器を片付けている香穂先輩の背中を抱きかかえると、髪の間から見える白いうなじに口づけた。
 そこから わがままな僕の舌は、先輩の耳殻を弄ったり、背中を滑り降りたりする。
 夏になってからというもの、香穂先輩は、『汗をかいてるかもしれないから』と、抵抗するように身をよじることがある。
 だけど僕は、この人のこの場所が好きだった。
 香穂先輩の身体の中で、ここが1番強い香りがするからだ。

「志水、くん……?」
「こうしてると気持ちがいいです。先輩の肌はどこも さらっとしてて……」

 背中ごしに香穂先輩の身体を、僕の腕の中に包み込む。
 そして服の上からそっと先輩の胸に触れる。
 ちょうど僕の手のひらにすっぽりと収まる大きさは、いかにも僕だけのもの、という感情を大きくした。
 感触だけじゃない。
 薄暗闇の中で見た香穂先輩の胸は、真っ白なブラマンジェの上の苺のようで、
 初めて見たとき、女の人が男の僕と同じ人間という枠組みでいることが信じられないくらいだった。
 もっとも香穂先輩は、僕に見られることを恥ずかしがって、僕が見る機会はめったに与えられなかったけど。

「あ……」
「僕、先輩の声、好きです。……もっと、聞かせて」
「こんなところ、で、私……?」
「大丈夫です。僕に集中してください」

 お互いがお互いの初めての相手だというのに。
 香穂先輩は理性では理解していながらも、ときどき感情がついて行かなくなることがあるらしい。
 そっと彼女の弱い部位を舐め続けていたり、自身を彼女の中で動かしたりしていると、
 香穂先輩は僕の頭を抱くようにして切なげな声を上げる。
 そして、毎回、同じことを言って僕を笑わせるんだ。

『……志水くんは、絶対、『初めてです』なんてウソなんだから』
『また、ですか? 僕はずっと音楽しか頭になかったし、それは香穂先輩も知っているでしょう?』
『だって……』

 そこで香穂先輩は口ごもる。
 クラスメイトの話を聞いていると、どうもみんなは『痛み』ばかり訴える。
 だけど、どうも自分は、痛かったのは最初だけで、あとはほとんど痛くない。

『痛い、って言うよりね、それよりもっと……』
『もっと……? なんですか? 続きを聞かせてください』
『──── 気持ち、が、いいの』

 何度か尋ねて、ようやく答えをくれた先輩に、僕は言いようのない愛しさを感じた。
 香穂先輩と、音楽がある限り、僕は僕でいることに感謝する日々を送ることができる。そう信じていたから。






「あのね、志水くん……」
「はい?」

 香穂先輩はけだるげな様子で見繕いをしたあと、言いづらそうに口を開いた。
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