*...*...* Embrace 3 *...*...*
「よぉ。志水。こんなところで」
「……こんにちは。金澤先生」

 1、2時限の授業のあとの休み時間。
 ちょうど図書室を出たところで、僕は金澤先生に出くわした。
 僕は無意識のうちに右手首に目をやって、今日は腕時計を忘れたことを思い出す。

 時折、授業をすっぽかしてしまう僕のことを西くんは心配して、ノートを手渡してくれることが多い。
 そうだ、冬海さんが言ってたっけ。仁科くんには、なにかお礼をした方がいいと思う、って。
 だけど西くんって普段はどんなものが好きなんだろう。
 僕が『良い』と思うものを、彼が好んでくれるかはわからない。
 いったい他の人は、『気持ち』という領域にどんな方法で足を踏み入れていくのだろう。

 そういえば、僕が香穂先輩と親しくなるのに、手段だとか方法だとかを考えたことはなかった。
 ごく自然に。すごく昔から決まっていたルールのように、僕は先輩のすぐ隣りに近づいた。

『あのね。たった4ヶ月なの。だから……』
『香穂先輩……』
『だからね。お願い、待ってて欲しいの』
『……僕はまだ、あなたと会えない時間を たった4ヶ月と割り切れるほど大人じゃない』

 1週間前、香穂先輩から、聞いた留学の話。
 聞けば聞くほど、吉羅さんから指示されたというサマーシップは、彼女のこれからに役立つだろうとは想像がついた。
 もし、僕が香穂先輩の立場だったとしても、一も二もなく参加する意思を表していただろうとも思う。
 だから、わかってるんだ。

 ──── 香穂先輩を行かせたくない、って思うのが、僕のわがままだということを。

 なのに、昨日の僕は、あの人に向かって酷く冷たいことを言って。
 あれから、どうやって香穂先輩を自宅に送っていったのか。自分がどうやって家までたどり着けたのかさえも、思い出せないでいる。

 ウツウツとした感情は、そのまま僕のチェロに反映されたのだろう。
 今日の午前中の実技はさんざんだった。
 チェロ担当の白川先生は、不機嫌そうに指揮棒で机を叩いて、『来週また聞かせてもらいましょう』と言ったきり背中を向けた。

「なんだー。志水。哲学者みたいな顔して」
「哲学者、ですか?」
「世界中の悩みをお前一人が一身に受け止めてるみたいだぞー。ははは」

 さっきの自分の演奏が、壊れたオルゴールみたいに響いてくる。
 1年前の僕なら、日によって、時間によって、音が変化するなんてなかった。
 もちろん、そのときの気分によって変わる、ということは、もっとなかった。

 僕は香穂先輩と会えたことで、振り幅が広くなったメトロノームになった。
 気持ちが香穂先輩に揺れているときには、担当の先生がコメントを忘れてしまうくらいの音を出せるのに。
 そうじゃないときは、指揮棒の乾いた音だけになる。

 金澤先生は僕の様子をじっと見つめると、図書室のドアを指さした。

「どうだ、志水。これから1時間俺に付き合わんか?」
「……金澤先生。僕はもうすぐ授業が始まります」
「なーに。ソルフェージュなんて、お前さんなら授業受けなくたってカンペキだろう? いいから入れよ」

 半分押されるようにして入った図書室は、空調が低いうなり声を上げて僕たちを威嚇している。

「あら、金澤先生。調べ物でも? ……あら? 志水くん。今は授業中でしょ?」

 カウンターにいた図書館の先生は、不思議そうに僕たち2人に目を当てた。

「いんや。この世には授業よりも大切なことが音楽の数くらいある、ってことで」
「金澤くんはそうやってよく授業を抜け出していたわね……。まあ私は見ていなかった、ということで上手くやってちょうだい」

 彼女は細い肩を大げさにすくめると、捜し物があるのか奥にある書架に入っていった。
 そういえば、香穂先輩から聞いたことがある。
 たしか、この書架の先生は、金澤先生が学生の頃から、星奏に勤務していたって。
 僕にとっては生まれてから今までの16年さえ、とても長かった、と思える時間なのに。
 それこそ20年も、毎日、毎年同じ生活を続けることが想像できない。
 彼女は20年もの間、何を思って生活しているのだろう。

「あらよ、っと。お前さんもそこへ座れよ」
「用件はなんですか?」
「お前さんに歯に衣着せてたって仕方ないよな。日野のことだよ」
「香穂先輩の?」
「なんだー? お前さん、離れるのが不安だってか?」
「香穂先輩がそう言ったんですか?」
「いんや。あいつはなにも。……そういったところ、あいつは強いよな」

 金澤先生はそう言って、椅子の上で大きな伸びをした。

「結構 けなげなとこがあるってことさ。あいつ、去年のコンクールのときだって、コンサートのときだって弱音を吐いたことないだろ?」

 元々身体の大きい人だと思っていたけど、こうして両手を伸ばすと、本当に大きい。
 この人の指は弦をやる人ほど骨張ってはいないけど。
 もし、弦をやるのなら、チェロより大きいコントラバスの方が合っているかもしれない。
 僕ももう少し背が伸びたらいい。
 そうしたら、チェロを抱くように、余裕を持って、香穂先輩を抱きかかえることができるに違いない。

「お前さんの気持ちが聞きたいと思ってな。──── 4ヶ月だ。待てないか?」
「別に、僕は待てないと言った覚えはありません」
「それが不安なんだろうよ。あいつにとっちゃ。……って、やれやれ。俺はいつから生徒たちの恋愛相談所になったんだろうな」
「それは……」
「いや。余計な世話を焼いてるってことは、俺自身がイチバンよく知ってるってことさ」

 ただな、と金澤先生は僕の顔をまっすぐ見据えて口を開いた。

「若いときの『伸びしろ』ってのは、そりゃもう大きいんだよ。たかが4ヶ月で、一生分の成長をしてしまうヤツだっている」
「伸びしろ……」
「タイミングもある。出会う仲間によっても変わってくる。あいつの可能性を俺は小さくしたくない」

 僕はなんて返事をしていいのかわからずに、ぼんやりと金澤先生の背後に目をやった。
 この前までの天気はウソのように、鈍色の空は辛気くさい雨を垂らし続けている。
 時々白く光るのは、梅雨を終わらせたいと思う雷の仕業だ。
*...*...*
 放課後、僕は音楽室の入り口でチェロを広げると、昨日上手く弾けなかったフレーズを繰り返し練習していた。
 今年の夏は、例年以上の長雨になるでしょう、という話を今朝の天気予報が繰り返していた。
 練習室のような小さい場所で練習する気には到底なれなかったし、森の広場はとっさの雨のとき、チェロを守ってやれない。
 自分の中にわだかまりがあるこんな日は、こうしてチェロに集中した方が、時間を短く使える。

 ──── 今まではこんな物思いをしたことなどなかったのに。
 今僕が作り出している音は、聴き手にとってどんなイメージの音なのだろう。
 重いのか、軽いのか。美しいのか、醜いのか。
 もし、醜い、というのなら、僕の香穂先輩へ向かう気持ちは、醜いのか。
 金澤先生の、鋭いまなざしを思い出す。



 香穂先輩と離れることが淋しい。その通りだと思う。
 それが真なら、今、僕はなにをするべきなのだろう。
 香穂先輩の選んだ方向を大事にできるように。そして、自分の気持ちも折れないように。

 今頃、あの人は何をしているだろう。
 ここ1週間というもの、僕は自分から香穂先輩に連絡を取る、ということはしなかった。
 香穂先輩からは、1日1通くらいのペースでメールが来ていたけれど、僕は自分のことにかまけて、先輩への連絡を怠っていた。
 先輩は、こんな僕のことをどう思っているのだろう。



 かれこれ1時間くらい弾き続けていたのだろうか。
 パンパン、と小さな拍手がして顔を上げると、そこには冬海さんが指先で小さな拍手をしていた。

「志水くん……。あ、あの、ブラボー」
「……冬海さん」
「ずいぶん長い間練習していたね。何度か声を掛けようとしたんだけど、タイミングが掴めなくて」
「……そう」

 見ると冬海さんの後ろにも数人の生徒が、拍手をしていた。中には、ただぼんやりと僕を見つめている女生徒もいる。
 外は雨が降っているのか、雨音が壁を叩いている。

「冬海さんは、今日はオケ部?」
「あ、ううん。今日はお休みなの。こんな天気だから、外での練習ができなくて。みんな思うことは一緒なのか練習室もいっぱいで」
「僕もそうだった」
「その……。図々しいかな、って思ったけど……。でも、私、志水くんと話がしたかったの」
「話?」
「う、うん……。あ、あの! その、香穂先輩のことで」
「香穂、先輩……」

 冬海さんは周囲に遠慮するかのように顔を赤らめて先輩の名前を呼んだ。
 不思議だ。僕も冬海さんも同じ言葉を発しているのに。
 人から聞く香穂先輩の名前は、僕が初めて聴くような新鮮な響きがある。

「今日は金澤先生とも同じ話をした」
「そうなの?」
「……香穂先輩はなにも間違っていない。問題は、淋しいと思ってしまう僕の中にあるんだと思う」

 冬海さんは、張り詰めていた空気を一気にほどくかのように、深いため息をついた。

「待つこと、難しい?」
「そういうわけじゃない」

 僕はややぶっきらぼうな口調で返事をする。
 どうもいけない。
 一緒にアンサンブルを組んだ仲間に対して、僕は、どうも自分自身をさらけ出す傾向があるらしい。

「こんなことを言ったら怒られてしまいそうだけど……」
「冬海さん?」
「なんだか、香穂先輩と志水くんが羨ましいな。……2人とも苦しいはずなのに、羨ましい」

 冬海さんはポケットから小さな紙を取り出した。

「あのね、間に合うかどうかはわからないんだけど、志水くんに見せたいものがあるの」
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