付き合うってなんなんだろう。

 毎日の会話をすること。触れ合うこと。お互いの視界のどこかに、お互いをとらえること。
 そんな風に考えたら、離れてしまうことは、イコール、その人の付き合いを原点に戻すことになるのかな。

 だけど、離れていても思いを届け合っている人たちだっている。
 いつもは照れて真面目に聞いたことがない、お姉ちゃんの話をよく聞いておけばよかった。
 ね、彼氏さんと離れても、平気? 淋しい、って思ったこと、ないの? って。

 今年の4月から、お姉ちゃんの彼氏さんは、新幹線で2時間の距離に離れてしまったって聞いた。
 でも、お姉ちゃんの様子は見事と言っていいくらい今までと変わらない。
 『空いてる時間を有効に使わなきゃ』
 なんて言って、今までよりもむしろ生き生きと生活してる気がする。
 ね……。お互いを信じ合っていれば、重ねた時間の分だけ、絆は強くなるのかな?

 『重ねる』という言葉を聞いて私が思い浮かべるのは、お姉ちゃんの焼くミルフィーユだったりする。

『香穂子。ミルフィーユ、って、『千枚の葉っぱ』って意味なのよ?』
『ミル・フィーユ、なんだね。ミルが『千』ってことかな?』
『ご名答。枚数の数だけ美味しくなるといいよね。……重ねた分だけ、ね?』

 こんな気持ちの原因を作った、吉羅さんを恨みたくなるなったこともあったけど。
 でも、もしも私の留学が避けて通ることのできない存在なら、私は思いきり受け止めて、自分のモノにしたい。そう思った。
 そして、志水くんが、私がいない間の日々を『たった4ヶ月』って思ってくれるなら。
 私、いっぱいいっぱい練習して、4ヶ月後、堂々と彼の前に立ちたい。真っ先に彼の元に戻ってくるのに。

 私が志水くんにサマーシップの話をしてから、ちょうど10日間。
 彼からの連絡はぱったりとなくなった。
 ときどき私からメールをしても、返事は、『『はい』とか『わかりました』というシンプルな言葉が、サブジェクトに書いてあるばかりだった。

(もう、ダメ、なのかな……。待ってて、とも言えないのかな)

 留学の荷物をまとめながら、ケータイに触れ。メールを書きかけては、やめる。
 そんな毎日を繰り返していたとき、志水くんから市が開催する弦楽コンクールを聴きに行きませんか? という誘いを受けた。
 
*...*...* Embrace 4 *...*...*
 1週間ぶりに会う志水くんは、夏だというのに周囲の日焼けした肌とは一線を画す、透明な色をしていた。
 少しだけ痩せたのか、頬の線がきつくなっている。
 ううん。痩せたのとは違う。
 もしかしたら志水くんは、私の知らない間に男の子から男の人へと変化したのかもしれない。
 ──── 今の私が、少しずつこんな物思いを覚えたように。

「久しぶりですね。香穂先輩」
「う、ん……。誘ってくれてありがとう。嬉しかった」

 志水くんは練習帰りなのか、少し疲れた顔をしていた。
 手にはチェロ。そして、どうしてだかわからないけれど、ベージュ色の衣装ケースを手にしている。

「少し、話をしませんか? 僕、香穂先輩に話したいことがたくさんあります」

 志水くんはロビーの奥にある喫茶店を指さした。

 目の前を、腕を組んだカップルが微笑みながら歩いて行く。
 幸せの粉をまき散らしていくような光景に、急に胸が痛くなる。
 多分、志水くんが話したいことは、そんな幸せな話じゃないもの。
 こんな幸せそうな人たちの後を歩いて行きたく、ない。

「ううん! 話ならここで聞く……。あ、そうだ、あそこに座ろう?」

 同じ弦と言っても、ヴァイオリンとチェロはかなり大きさが違う。
 それにどうやら今日志水くんが持っているチェロは、普段使い慣れているチェロよりも2まわりも大きいバロックチェロだ。
 大きな荷物をずっと持っていたら、志水くんも疲れるだろう。

「そうだ、荷物、たくさんだね。私、手伝おうか?」

 そう思って伸ばした私の手を、志水くんは笑って押し返す。

「大丈夫ですよ。僕、自分で持てますから」
「そ、そう?」

 普段だったら素直にその言葉に甘えてしまうのに、今日は、こんな些細な言葉で私の全部を拒否されたようで、しゅんとなる。
 意外なことに、そんな私を志水くんは面白そうに見ている。
 そして、ロビーの椅子に大事そうにチェロを置くと、ゆっくりと手を伸ばして私の髪をかき上げた。

「変わってないですね。香穂先輩は」
「え? そう、かな?」
「……僕にとって香穂先輩は宝物です。いつも近くで見ていたい、大切な人です」
「……志水くん、ごめんね。あのっ!」

 もっと鋭い非難をされると思っていた私は、志水くんの優しい手つきにどうしていいのかわからなくなる。
 開きかけた唇に、ひやりとしたモノが触れると思ったら、それは志水くんの人差し指だった。

「志水くん……」
「この2週間、すみませんでした。ろくに連絡もしないで」
「ううん? あの……。ごめんね、サマーシップのこと。私」
「冬海さんが、教えてくれました」
「はい? 冬海ちゃん??」
「今日開催されるこの弦楽コンクールのことを、です」

 彼の澄んだ目が、慈しむように私のことを見つめている。
 志水くんと話してて、思うこと。
 それは、彼の外側に出てくる言葉、というのは、すごく不完全だ、ということ。
 きっと彼の内側では、いろいろなことが系統づけられ、組織化され、1つのコンピューターのように緻密な動きをしている。
 それを上手に引き出してあげること。それは、この半年の間に身についた私のスキルかもしれない。

「そう……。冬海ちゃんが教えてくれたんだ」
「そうです。冬海さんに話を聞いた後、すぐ星奏の理事の方に尋ねたんです。
 香穂先輩が行くウィーンのサマーシップ枠、まだ空きがあるのかと」
「そ、それで?」
「ありました。1枠だけですけど」
「ん……」
「僕はその1枠を手に入れたいと思いました。だからこのコンクールに応募したんです」

 あれ? 私は志水くんからもらったメールの文面を思い返してみる。
 確か、『弦楽コンクールを聴きに行きませんか』という内容のメールだったと思う。
 元々、志水くんは、たくさんお話しするというタイプじゃなかったし、その様子は、メールのお付き合いも同じだった。
 絵文字もなにもない、モノトーンの画面。内容も短くてシンプルだ。

 えっと……。ちょっと待って。
 『コンクールに応募した』って、ことは、えっと?
 これから志水くんは、私と客席でコンクール曲を聴く、というわけではなくて、コンクール参加者として、舞台に立つ、ということ?

 志水くんは、私の様子を見てくすくすと笑いを浮かべている。

「志水くん……」
「多分、今、香穂先輩が考えたこと、当たってると思います」
「じゃあ……」
「僕は、このコンクールで優勝すればいい。そうしたら、これから4ヶ月の間、僕は香穂先輩の近くにいることができる」

 突然の告白に言葉もなく彼の見上げていると、志水くんはふっと優しげな笑顔を見せた。

「僕は、音楽を頑張る、っていうクラスメイトの言うことがよくわからなかったんです。音楽は頑張るものじゃない、と思ってましたし」
「え? そう、なの?」
「頑張る、というのは、目的が伴います。試験に通りたいから、頑張る。受験で合格したいから、頑張る。結果が先にあると思う」
「うん……」

 ときどき志水くんはこうやって、哲学的なことを口にする。
 その場ではわからないことが多いけど、あとからふっと、糸がほどけるみたいに理解できるから不思議だ。

「僕は、音楽が好きだから、やる。チェロを弾いたり、作曲家を調べたり。すべては好きだから、というのが原点です。
 結果は、後からついてくるものだと思っています」

 私は曖昧に頷きながら続きを待つ。

「──── だけど、このコンクールは頑張りました。頑張った分だけ、香穂先輩が近くに来てくれる気がしたからです。
 香穂先輩は客席で、僕の音を聴いていてください」
*...*...*
「ブラボー!」
「素晴らしい演奏をする子が出てきたわね」
「こりゃ、決まりだなー。なになに、星奏学院2年? ってことは、また来年も出場してくる、ってことか」

 拍手とざわめきがおさまらない中、審査員席の3人が2言3言、耳打ちをする。
 本来なら、コンクールでのスタンディングオベーションは禁止されているのだろう。
 場内は、さっきから着席を促すアナウンスを何度も流し続けている。
 志水くん、といえば、正確なピッチ、正確な解釈。正確な表現。
 とにかく正確さにおいては、誰にも負けない強さがあった。自分に厳しい月森くんでさえ、敵わない、というほどに。
 だけど、今聴いたバッハは、時折、正確さを失わない範囲での志水くんのパフォーマンスがあった、と思う。
 優しく続くピチカートは、曲が終わることが怖くなるような、安らかな旋律だった。

「聴かせたい人がいる、って感じの音だったねえ」
「今年の星奏はまた偉大な後輩を輩出したということか」

 周囲の賞賛が誇らしい。
 口々に志水くんのことを褒めていた彼らは、ハンカチを目に当てている私を見て、それも当然だ、と言いたげに、鼻をすすった。

 ね、志水くん。あなたの音楽はこれほどまでに人を幸せにする力がある。
 私も、どうかあなたと一緒に、音楽を続けていきたい。育てていきたい。
 ──── できれば、あなたの近くで。




「優勝者の発表をいたします。……星奏学院2年、志水桂一くん」

 気がつくと舞台の中央では、大切な人がゆっくりとした動作で銀色に光るトロフィーを受け取っている。
 さっきまでの真剣なまなざしは今はすっかり穏やかだ。沸き起こる拍手を飄々と受け流している。

 祈るようにあごの下で組まれていた手をほどくと、私の両手には くっきりと爪の跡が残っていた。
 こんなんじゃ、志水くんに会ったとき、注意されてしまいそう。
 だけどおかしい。笑ってしまう。
 ──── 彼から注意を受けるかも、って考えることが、こんなにも嬉しいなんて。




 私は人混みをすり抜けると、真っ直ぐに志水くんの楽屋へと向かった。