*...*...*  Embrace 1  *...*...*
 俺と香穂が音楽科に転科して、初めての夏。
 ようやく音楽科の冬服に慣れたと思っていたのに、今度は夏服が追いかけてきた。

 どうもこの坊ちゃん然とした格好は俺には似合わない。
 ときおり、クラスメイトが笑いさざめきながら廊下を通り過ぎるとき、思わず視線が流れてしまうのは、
 もしかしらからかわれてるかもと考えすぎてしまうからだと、今でも思っている。

「香穂。今日良かったら、放課後、俺の家に来ないか?」
「うん……。いいの?」
「ああ。この前お前が言っていたアマデウス、DVDが手に入ったんだ」
「……うん。わかった」

 放課後、ちょうど1人で教室から出てきたあいつを捕まえてそう告げると、
 香穂は俺の誘いに一瞬考え込むように遠くに目をやってから頷いた。

「ごめんね。予約の時間が過ぎてるの。ちょっと急いで行ってくるね」
「おう。じゃあ、6時に正門前で会おうぜ」
「うん」

 香穂は慌てふためいて、パタパタと廊下を駆け抜けていく。
 一瞬その後ろ姿を目で追いながら、俺は頬が緩むのを周囲の奴らに気づかせまいと、大げさに伸びをする。
 そして総譜を読むために、隣りにある附属大学の図書館へとつま先を向けた。

 ──── いつも、音楽と香穂とともにある生活。
 乾いた砂が、どれだけ水を吸っても、翌日には何事もなかったように乾いている。

 この俺がこんな風になっちまうなんて、俺自身が1番不思議だ。
 女なんて、エイリアン。何を考えているかわかりゃしねえ。
 生物学的に同じ種類の生き物だとは理解できなかった俺が。
 今はこうして香穂の背中を見て、香穂の思惑を推し量ろうなんてことばかりしている。

 香穂が着る、音楽科の夏の制服。
 高3になるとき、一緒に新しい制服を採寸しに行った。
 俺の身体からは想像もつかないような細い腕をした香穂を何度も見てきた、っていうのに。
 音楽科の制服姿の香穂は、普通科のそれよりも、ずいぶんアイツを可愛らしく見せているような気がする。

 あいつが笑ってくれたら嬉しい。俺のピアノを聴いてくれたら嬉しい。
 あいつが話す些細なことが、どんなことであっても明日の俺の音に反映されているんだから、こっちとしても面映ゆいってもんだよな。
 
 大学の図書館に行くと、俺は都築さんから借りているIDカードを手に、奥の書庫へと滑り込んだ。
 この図書館全体、少しカビ臭い。
 でもこれはむしろ、書庫にある楽譜が古くから受け継がれて今に至るってことの証だとも言える。
 ここで保管している最古の送付は18世紀初頭だと聞いて驚いた。
 そんなものが、海を渡って、極東の日本まで無事にたどり着いた、ってことだけでも奇跡みたいな話だ、って思う。
 そして。
 ──── そんな古人の楽譜を、読むことができる現代人も。

 読むことができるってだけじゃない。やがて、俺も香穂も。
 俺の周囲で今 呼吸している人間、すべてが死に絶えたあと、
 俺たちのことを何1つ知らない未来の人間が、この楽譜を手にすることだってあるだろう。
 そんなことをぼんやりと考えていると、今俺が手にしている楽譜がかけがえのないモノに思えてくる。

「よし。やるか」

 今日はプッチーニ。『トゥーランドット』の第三幕。有名なカラフのアリアのシーンだ。
 総譜は一度に10種類以上のパートを読みこなさなくてはいけないから大変と言えば大変だが、
 昨日の夜CDをさらっておいたから、音は頭に入ってる。
 ただ、俺は、俺が知っている楽団とは違う曲想を練りたい。
 俺だったら、どう色を付ける?

 大学には、高校とはまるで異質の沈黙がある。
 天井を見上げると、2メートルはあろうかと思うほどのファンが低いうなり声を上げて回っている。

 そうか。もうすぐ夏休みだ。
 あいつと過ごす夏休みは、どんなことが待っているのか。
 できれば、そう。
 知り合いのいない遠いところに旅行に行く、っていうのがいい。
 そうすれば、日頃 恥ずかしいとか、みんなが見てるかも、とか言い訳をして手を繋ごうとしないあいつも、
 意外な面を見せてくれるかもしれない。

「……感心ね。毎日大学の図書館まで勉強しにくるなんて」
「あ、都築さん。すみません。お借りしているIDカードで入室しました」
「丁寧ね。いいのよ。別に謝る必要なんてないわ。むしろそのつもりであなたに貸し出したのだから」

 雑念と、曲想と。
 2つの比率はどちらが高いのかわからないような時間の中、ふとキツイ香水の匂いに顔を上げると、そこには都築さんが立っていた。
 濃い色が落とされた唇は強烈で、俺の目はその部位にクギヅケになる。
 そうだ。
 俺の想像するトゥーランドット姫は、香穂のような優しい色の女じゃなく、都築さんのようなハッキリした女性かもしれない。

「あら、面白い曲を読んでいるのね」
「あ、これですか? ええ、まあ。高校の間に興味のある楽曲はさらっておこうと思いまして」
「そうね。あなたのピアノなら、この附属大学への進学も問題ないでしょうし。サン・サーンスの『謝肉祭』はもう読んだ?」
「あ? ええ。一番最初に読みましたね。あの曲は小品の詰め合わせでわかりやすかったから」

『詰め合わせ』という言い方が面白かったのだろう。都築さんは珍しく笑い顔になると、机の上の総譜を指さした。

「……あ、ねえ、ここ」
「はい?」
「楽曲というのはときにして、作者の人生と重なり合うわ。カラフに尽くして最後は死を選ぶ召使いのリューのことだけど。
 実際似たような話がプッチーニの身の上にも起きているのよ。あなた、知ってる?」
「いえ。あの、話してください」

 人から聞く話、というのは多少話し手の主観が入ることが欠点、といえばそうだが、
 短時間で要領よく知識を習得するという点は利点と言ってもいい。
 ましてや、その話し手に豊富な知識があるなら、むしろ聞かないという手はない。
 指揮科を目指す都築さんなら、俺の知って良かったと思う話を聞かせてくれるだろう。

「お願いします」

 そう言うと、都築さんは手首を翻して腕時計を覗き込んだ。

「そうね。じゃあ15分だけ。このあと私もゼミがあるから」
*...*...*
 午後6時。夏の日差しはまだ高く、俺と香穂の影を色濃く残す。

「あの、土浦くん。こんな時間にお邪魔して、お家の人、迷惑じゃない? なにか買っていった方がいい? ケーキとか……」

 香穂は不安そうに俺の顔を見上げてくる。

「いや。今日は母さんも珍しくピアノ教室の集まりがあるとか言ってたな。
 アネキも仕事の付き合いで遅くなるって。親父はいつも午前様だ。何もお前が心配することないぜ?」
「えっと……、あ、土浦くんの弟さんは?」
「ああ。アイツは俺の影響で今は完全にサッカー小僧だ。今日はナイター設備のあるグラウンドで練習するらしい」
「サッカー小僧かー。可愛い」

 そこでようやく香穂は笑い顔になると、俺の歩調に合わせるかのように数歩小走りでついてくる。

「可愛いか? あいつも中学になってから結構生意気でさ」
「そうなの? 私、下に兄弟がいないから、羨ましいかも!」
「ま、可愛いときもあるっていえばあるけど」

 俺はカバンの中から家のカギを取り出すと、香穂の背を押した。

「俺の部屋、わかるだろ? 先、行ってろよ。なんか飲み物持ってく」
「うん……。お邪魔、します」

 何気なく誘ったつもりだったが、むしろ、今日の俺には周到な準備があったといってもいい。
 今までは1人で自分を満足させる方法しか知らなかった俺が、
 今は、2人でする気持ちよさに、己を忘れてしまっていると言えるかもしれない。
 あいつと、だからだろうか? それとも俺が快楽に飢えていたから?
 理由はわからないながらも、俺は初めて香穂を抱いてから、こいつの身体に夢中になった。
 女って、どうしてこんなに可愛いんだろうってな。

 手際よく飲み物を載せたトレーを手に、階段を上がっていくと、香穂は俺のベッドの端っこに腰掛けている。

「なんだ? 香穂。初めて来た場所でもないんだ。もっとリラックスしていればいいのに」
「うん……。あの、ごめんね。私、今日はそんなに遅くまでは居られなくて。あの、アマデウスは?」
「ああ。机の上にある。貸してやるよ」

 俺は机の上に目を遣る。そこにはピッチリと袋に入ったままのDVDが置いてある。
 香穂はハッとしたように俺を振り返った。

「え? あ、あの……。今から一緒に観るんじゃないの?」
「そのつもりも少しはあったけど。……悪い。お前見てたら保たなくなった」
「え……? や、なに……?」

 俺はベッド脇のサイドテーブルにトレーを置くと、そのまま香穂の身体を押し倒した。
 腕の中の、華奢な身体。子猫のような しなやかなぬくもりに、まぶたの裏が紅く染まる。
 香穂は必死に俺の胸板を押し上げている。

「待って。私……。私、もっと、土浦くんと話がしたい」
「話? そんなのセックスしながらでもできるだろ?」

 多少の抗いが、俺にとっては香辛料のようにジワジワと効いてくる。
 俺はやや強引に香穂の胸元を開くと、朱く色づいた先端にむしゃぶりついた。
 しっとりと艶の増した肌。薄い汗の膜が俺たち2人の身体を覆っている。
 俺の汗と香穂の汗。その2つの区別が付かなくなる頃、香穂は俺の下で声を泣きそうな声を挙げる。
 耳元の香穂の声は、今の俺にとっては最高の音楽だ。

「この身体、俺しか知らないんだよな」
「なあに? いきなり……」
「お前が感じると、どんな風に反応をして、どんな風に濡れるのか。どんな声を挙げて俺にねだるのか、って」
「も、もう……。言わないで、恥ずかしいよ」
「知ってるのが俺だけだ、って思うと、ぞくぞくするぜ」

 香穂は自分の上に乗っている俺の口を強引に塞ごうとする。
 俺はラッキーとばかりに、細い指を丹念に舐めていく。
 別に香穂の指を舐めたから、って俺が気持ちよくなるわけではない。
 だけど、舐められてる本人の表情が見る間に変わっていくのを見るのは悪くない。
 香穂と、こういうことになる直前、必死に頭に詰め込んだ雑誌には、そんなこと一言も書いてなかったけど。
 少しずつ力が抜けていく香穂の秘部に指を当てる。

「香穂。こんなに濡らしてたのか? これならすぐにでも入れられそうだ」
「……土浦くんはイジワルだ。そんなことばっかり言う……」
「ははっ。俺も一緒だったからいいじゃないか」
「一緒……?」
「お前と早くこうして繋がりたくて、今日は1日落ち着かなかった」

 俺はいったん身体を離し下着を下ろす。
 そして再び香穂の上に乗ると、ぴとり と分身をこいつの秘部に焦点を当てた。
 香穂は少しでも身体が離れるのが不安なのか、俺の腕を小さな子みたいに掴んでいる。

「ん? どうした? 香穂」
「──── ううん。なんでもない」

 華奢な手足のわりに豊満な胸が、荒い呼吸の上、ピクピクと波打っている。
 目を閉じて、ふっと息を吐く香穂の目尻から1粒。
 転がるように落ちていった涙の意味を、俺はまったくと言っていいほど、深くは考えていなかった。
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