「そうなの? 香穂子。私の貸してあげようか?」
「ありがとう。まだ昼休み、残ってるよね。私、急いで購買に行って買ってくる!」
真奈美ちゃんの言葉にお礼を言いながら、私はサイフを手に立ち上がっていた。
教室の時計を見る。音楽科の時計は、普通科の時計と違ってどこか品がいい。
優雅なフォルムとした針が、かちりと1分 針を進めた。
前に、美咲ちゃんに聞いたことがある、ハンドクリームの値段。
私の1ヶ月のお小遣いよりもさらに高価な、お化粧品ともいえる存在に、借りるなんてとんでもないって思ってしまう。
「ハンドクリーム……。あるかな? 良かった。あった!」
パンの争奪戦が終わった購買は、閑散としていて、床にある星奏の校章もよくわかる。
棚の隅に押しやられていた最後の1コのハンドクリームに手を伸ばしたとき、手の甲に冷ややかな指が触れた。
ぴくりと一瞬躊躇している間に、あとから来た大きな手はすっぽりとハンドクリームを掴んでいた。
「あ……」
「ユウカー。なにやってんの? 早く行くよー」
「ごめんね。手間取っちゃった。すぐ行くわ。すみません。これ、ください」
ショートカット。天羽ちゃんよりもさらに上にある顔。
きつね色に焼けた指は、すんなりと長くて美しい。
ちらりと私を見下ろす目には、射るような強さがあった。
*...*...* Embrace 2 *...*...*
人は、10人の好意的なまなざしよりも、むしろたった1人の攻撃的な視線が気になる、って知ったのはいつの頃だっただろう。学年も違う。専攻している楽器も違う。
それよりなにより。
第一、私は彼女のことを知らない。だって一度も話をしたことがないんだもの。
だけど、元々音楽科、というのは小数だから。
入学して数ヶ月も経った今では、新入生のクラスと名前、それに専攻楽器は大体わかるようになる。
もっと言えば、彼らがどういう進路を希望しているか、ということまで把握できるようにもなる。
それぞれ師事している先生が違うからだ。
そう。入学してきたときから、彼女は目立っていた、と言ってもいい。
音楽の才能に恵まれた人たちが集う音楽家の中で、彼女はさらに際立っていたから。
『男の衛藤に、女の井上かあ。今年は大漁だなあ〜』
なんて金澤先生は目を細めて笑っていたけれど、先生の言葉は1番的確に今年の入学者の雰囲気を著していた。
まばゆい光があちこちにあって、目移りする、って感じなんだ。今年の1年生は。
そして、そのきらきらする星たちの中でもさらに輝いているのが、この前購買であった彼女だった。
井上優花ちゃん。1年。ピアノ科専攻。ジュニアピアノコンクール3年連続達成。
すでに普通科に彼女のファンクラブもできた、とかで、人気はとどまることを知らない。
そんなある日、冬海ちゃんとランチをしていた私は、冬海ちゃんの口から、直接井上さんの名前を聞いた。
「え? 井上さん、ってあの、1年生のピアノ科の井上さん、だよね。彼女がオケ部に入ったの?」
「そうなんです。ピアノ科の子が入部する、ってあまり例がなくて私たちも驚きました」
「そうだよね」
オケ部はたくさんの管と弦が必要だけれど、ピアノを弾く人はたった1人でいい。
その役も、今のオケ部は、2年生の女の子が1年生の頃からずっと頑張っている。
彼女が卒業するのは2年後。
仮に井上さんがそれからピアノを弾く、としても、実際の晴れ舞台は3年生の前半くらいだ。
うーん……。
人を唸らせるほどの実力のある彼女が、そんな短い期間で満足できるのかな。
余計なお世話かも、だけど、どうして彼女、オケ部に入ったんだろう。
冬海ちゃんは手にしていたアイスティのカップをテーブルに置くと、ふるふると首を振った。
1年生の頃よりも長くなった髪が、冬海ちゃんの肩下で揺れている。
「いえ、違うんです。井上さん、ヴァイオリンで登録してるんです」
「え? あれだけピアノが弾けるのに、さらにヴァイオリン、なの?」
「素養があったのでしょうね。ヴァイオリンも始めて3ヶ月ちょっとっていうのに、あの……。
すごく上手で。ヴァイオリン専攻の人たちの中で普通に演奏している、というのか。
……とにかく、すごい人です」
冬海ちゃんの賞賛に満ちた声を聞いて、私は大きなため息をついた。
1年生のその子と、なんとなく、よく目が合う。
なんとなく、睨まれている気がする。
そして、この前の購買の時の対応。
(嫌われているかも)
という私の予感は、冬海ちゃんに告げることで確信に替わるような気がするから、口に出したくない。
だけど、気になる気持ちは抑えられない。
私も冬海ちゃんに釣られるように自分の飲み物を一口飲むと、彼女について問いかけた。
「えっと、冬海ちゃん。井上優花ちゃんってどういう人?」
「はい……。すごくしっかりしている、っていう印象ですね」
「しっかりしてるんだ」
「そうですね。技術的にも、あの、えっと……。それ以上に性格もすごくしっかりしてて。
で、でも、これは麻紀子ちゃんの受け売りなんです。
私は管だし、彼女は弦なので、直接しっかり話したことがあまりなくて。なので……。
あ……。そうだ。あの、天羽先輩の方が、井上さんのことご存じかもしれません」
冬海ちゃんは、彼女の情報が何もないことを申し訳なく思うのか、肩をすぼめて俯いている。
「ううんっ。そんな。私こそ、ごめん。ヘンなこと聞いちゃって」
と、そのとき、軽快な足音と共に、懐かしい声が降ってきた。
「やっほー。私の名前が聞こえてきたから押しかけちゃったよ。2人とも元気そうだね。
科が違うとやっぱり遠いよ。だけど、心の距離は近いまま……、なーんてね」
「あ。天羽ちゃん!」
「ちょうど飲み物買ってきたんだ。香穂の隣り、いい?」
「うん!」
「あ、あの……。それよりも、あのっ! 私、どうしても香穂先輩に伝えたいことがあって」
冬海ちゃんは、言い辛そうに口ごもると、言ったことを後悔するかのように顔をゆがめた。
「どうしたの? 冬海ちゃん」
「いえ! 私、あの……。ウワサをそのまま伝えるのって、してはいけないことなんじゃないか、って思うんです。
だけど、香穂先輩が知らないままでいらっしゃるのも、私、いいのかな、って迷うところもあって! ごめんなさい……」
「ううん? 冬海ちゃんが謝ることって全然無いんじゃないかな。何の話? あの、ユウカちゃんの話?」
「いえ……っ。違うんです。そうではないんですけど。だけど……っ」
「冬海ちゃん、冷たい言い方だけど、ここまで言いかけたら香穂も気になるだろうし、教えてあげなよ」
何度も涙目になって口ごもっている冬海ちゃんに、天羽ちゃんが助け船を出している。
私も、うんうんと頷いて、冬海ちゃんの話すのを待った。
彼女とはもう1年以上も親しくしている。
彼女が一生懸命私のことを考えて、迷ってくれてるのは、私、十分わかってるもの。
冬海ちゃんはおずおずと周囲を見渡すと、声を落として話し始めた。
「あ、あの……、土浦先輩、ときどき、大学の図書室で、都築さんと会ってる、って。
火原先輩が、『あの2人、付き合ってるんでしょう? よく見かけるよ』ってオケ部でよくお話されるんです。
だから、あの、私……。間違いです、って必死に否定してるんですけど、なんだか、オケ部のみんなの方が盛り上がってしまって」
「あ、ありがと。土浦くんのお話なんだね」
ユウカちゃんの話ではなかったことにちょっとガッカリしながらも、私は冬海ちゃんの話に胸の底が痛くなった。
自分の中の疑問が確信に変わるとき、ってどんなときもこんな風に痛いのかな。
そっか……。
この前、土浦くんの家に行ったとき、彼の身体からは香水の匂いがしたのを思い出す。
香水なんて少し時間が経てば、どれも同じ匂いになってしまうものだもの。
だから、そう。今日土浦くんはたまたま、強い香水を付けた女の子とすれ違ったんだ、って思いたかった。
だけど彼の身体から立ち上ってくる香りは、ちょっとよくあるタイプの香水とは違う。
スパイスがブレンドされたようなオトナっぽい香りだった。
こんな香りを身に付ければ、オトナっぽくなれるのかな、なんて思いながら、
私は以前、都築さんに付けている香水について尋ねたことがあった。
だけど返ってきた答えは、
『売ってないのよ。私専用にブレンドしてもらったものなの。ごめんなさいね』
だったっけ。それと同じ香りだった。
土浦くんが大学の図書館に行く日。それは、都築さんとの約束の日、なんだろう。
会って、2人はなにをしてるの?
土浦くんは、私と会ってるときと同じことを、都築さんにも、するの?
土浦くんは、都築さんを抱いた身体で私を抱くの?
身体が、私を欲しがるから?
──── そんな理由で、彼は私の近くにいてくれるの?
「あ、あれ? 香穂!? ちょ、やだっ! あんた、なにいきなり泣いてるのよ」
「か、香穂先輩、あ、あの、大丈夫ですか?」
本当に自分が歯がゆくなる。情けなくなる。
今、こんなに、人前で泣いちゃうくらい悲しいのに。
私どうして、土浦くん本人に、ツライ、って言えないんだろう。
どうして、都築さんと会ってるの? って聞けないんだろう。
抱かれてしまうときだって、そう。
私が伝えた言葉は『待って』だけだった。それ以上言えなかった。
言ったら、嫌われてしまうかも、って考える自分がイヤだった。
私……、どうして思っていることを伝えられないんだろう。
もっと、いろいろなことを話して、笑って。
気持ちを確かめ合ったあと、土浦くんに抱かれたい、って。
──── どうして素直に言えないんだろう。