ヴァイオリン、ヴィオラ、コントラバスなどの弦楽器に続き、今日はピアノ科の発表の日だった。
この日だけは、放課後、菓子や飲み物などを持ち寄って、小さなパーティをするのが恒例、らしい。
「おーい。小川。ジュース、これだけで足りるか?」
「大丈夫だろ。今、1年の武藤にも買いに行かせてる」
「おいおい、結構、大掛かりなイベントなんだな。教室内にこんなに食べ物を持ち込んでいいなんて、な」
俺の言葉に、クラスメイトの結城が笑った。
「学院から補助も出るしな。この日は別の意味でも『イベント』の日なんだよ」
「は? イベントの日?」
「あ、そうか。土浦はこの授業、初めてだったっけ。そう。春のミニコン、秋の後夜祭。どっちもカップル誕生のイベント日だよ」
「ああ。なるほどな」
縦割りでやることもあって、この日は同じ楽器つながりの新しいカップルが生まれる日だとも、香穂から聞いていたが。
だからか。日頃、どんよりとした表情を浮かべている男たちも、きびきびと机を運んだりしている。
『お前も一緒に行くか? ピアノ科の打ち上げ』
放課後6時を少し過ぎるかもしれないということで、俺は昼休み香穂をこの打ち上げに誘ったが、香穂はううん? と首を振った。
『ピアノ科の打ち上げなんだもの。土浦くん、楽しんできて?
私、6時過ぎまでゆっくり練習室を独り占めしようかな。今日はピアノ科の人たちも練習しないだろうから』
ピアノ科の中には、いろんな女とお近づきになりたいから、と、1日も欠かさず全ての科の打ち上げに参加しているヤツもいる。
元々音楽科は人数が少ないこともあって、違う楽器のヤツらが来ていても、おかしく思うヤツはいない。
だけど、好きこのんで香穂を男たちの視線にさらすのも、得策ではない、か。
俺は周りに人がいないことをいいことに、香穂の頭に触れながら言った。
『そうか。じゃあ、ちょっと遅くなるかもしれないが待っててくれ』
*...*...* Embrace 3 *...*...*
打ち上げは、先生たちのポケットマネーもあるのだろう。教室の中は、日頃からは想像もつかないような華やいだ雰囲気になっている。
机は数個ずつ1つにまとめられ、イスが教室の壁に沿って並んでいる。
使いっ走りにされた1年生の男子は、またジュース追加だって、と楽しそうに話しながら友人と出て行く。
意外にも2年生のヤツらは落ち着いた表情で、それぞれの席に座って話をしていた。
俺は虚勢を張りながらも、ちらちらと周囲の様子に目を遣る。
専科の先生は、簡単な挨拶をしたあと、あとは例年通りよろしくやってくれ、と挨拶をして教室を出て行った。
ピアノ専科は圧倒的に女が多い。
クラスメイトのヤツらは、先生がいなくなるやいなや、砂糖に群がるアリのように一気に女たちの方へ近づいていく。
やっぱりなんだ?
この打ち上げはソウイウコトを目的として開催されているのか?
だったらここは早めに切り上げて、香穂と合奏をするって方が、有効な時間の使い方といえるかも知れない。
「うん? なんだ?」
教室の一角でひときわ高い声がする、と思ったら、そこには長身の女を数人の男が囲んでいるところだった。
女が気の利いたことを言ったのだろう。クラスメイトの川井がこびへつらうかのような笑い声を上げている。
「土浦くん。おっつかれー」
「なんだ。森か」
「ふふーん。土浦くんも気になるの? あの彼女」
「は? 気になるも何も、名前すら知らねえよ。なんだ? あいつ」
「井上優花。ピアノ科専攻。1年。ジュニコン3年連続優勝。今年期待のホープ」
「詳しいな、お前」
「そう? こんなの常識の範囲だってば。おまけにあのキツメのルックスが、男たちに大人気です、っていう追加情報もどうぞ?」
「ってお前、話し方まで某天羽に似てきたぞ? 大丈夫か?」
「ははは! 土浦くんたら」
一旦そこで俺たちは顔を見合わせて笑い合う。
こいつ、さばさばしてて、オンナオンナしてないところが馬が合うんだよな。
それにしても、『イノウエ ユウカ』か。1度、音くらいは聴いてもいいかもしれない。
「まあ、他人がどうこう言ってるのは構わないけど。俺はパス」
「まあね。土浦くんには香穂子がいるし。まあ大体ピアノ科の打ち上げは例年こんな感じよ?
香穂子を待たせているんだったら、もう抜け出しても大丈夫だと思う」
「おう。サンキュな。俺も実はそうしようかと思ってたところだったぜ」
「後片付けも1年生がやるし、いいわよ。抜け出しても。最上級生の特権、ってところ?」
俺は森の言葉に押されるようにして、そのまま教室を出た。
管や弦と違って、合奏というカタチを取らないピアノ科は、縦の連帯感はそれほどじゃない、って聞いたこともあったけど、
なるほどな。こういう感じなのか。
俺は賑やかさに紛れるようにしてドアをすり抜け、廊下へと飛び出した。
3年生の教室があるここ3階は、太陽も近い。
思い切り深呼吸できそうな、夏の空が俺の顔を強く照らしてくる。
「土浦先輩!」
「おわっ。な、なんだ?」
「ちょっとこっちに来てください。早く!」
いきなり腕を引っ張られる。なんなんだ、一体? そもそも誰だ?
声の主を確かめることもできないまま入り込んだ隣りの教室で、女は背中越しに低い笑い声を上げると、そっとドアを閉めて振り返った。
そこにはさっき森が言っていた『イノウエ』っていう女が立っていた。
「いきなり驚くだろ。なんなんだよ、お前」
「ごめんなさい。私、1年ピアノ専攻の井上っていいます。土浦先輩ですよね」
「ああ。悪い。俺、急いでるんだ。なんか用でもあるのか?」
「ふふ。嬉しいな、私。ずっと土浦先輩とお話ししたい、って思ってたから」
「手短に頼むぜ。用件はなんだよ」
俺はふてくされた口調で、目の前の女をにらみつける。
かなり背が高い。170センチか、それ以上か。
アーモンドのようなカタチをした目が、強い光を放ちながら笑っている。
イノウエって女は、俺の不機嫌に構うことなく突拍子もないことを言い出した。
「私、土浦先輩が好きなんです。お付き合い、してくれませんか?」
「は? って、俺とお前、今話すのが初めてだろ?」
「どうして? 話をしてからじゃないと、好きになってはいけないの? おかしいですよ、そんなの」
どうやら目の前の女は理詰めでモノを言うタイプらしい。
俺は状況を立て直すと、じっとイノウエを睨みつけた。
「俺も気持ちも聞けよ。悪い。俺、お前に対してそういう気持ちを持ったことがない」
「香穂先輩がいるからですか?」
俺はやれやれといった風に肩をすくめた。
こういう面倒なのは好きじゃない。こいつ、何考えてるんだろう。
「知ってるのか? だったら話は早いだろう?」
「この前、あたし、日野先輩のピアノ、聴きました。とても音楽科とは思えないレベルでびっくりしました」
「それは……」
いきなり弱いところを衝かれて、俺は言葉に詰まる。
香穂が音楽科に転科した理由。
いやそもそも、あいつが音楽の道に入った理由は、『ファータに見初められたから』
もしそんなことがなければ今もあいつは、普通科にいて。
逆に音楽を極める厳しさも知らないまま、卒業していっただろうとも思える。
ヴァイオリンの上達は早いが、ピアノについては、正直、この女の言うことが正しい。
いや、正しいからこそ、余計腹が立つ。
井上は、ふっと遠くを見るように一瞬目を遊ばせたあと、再びまっすぐに俺に目を当てた。
鋭い視線に、俺は男と向き合っているようなすがすがしさを感じる。
こいつのピアノは聴かなくてもわかる。多分、あまり情緒のない、技巧ばかりが先走る曲だ。
こういうタイプは高校に入るまでは、伸びていくがそれからがいけない。
情緒がついて行かなくて、伸び悩むタイプだ。そうに決まってる。
「あたし、実を言うと、日野先輩と土浦先輩の後輩なんです」
「なに?」
「覚えていらっしゃらないだろうけど、あたし、お2人と同じ小学校で」
「ああ」
「私、土浦先輩のピアノ、そのときからファンなんです。たまに放課後の体育館で練習されていましたよね。『エリーゼのために』」
「お前、知ってたのか?」
「はい。あれが私の音楽で生きていこう、と思ったきっかけですから」
憎悪、と言うほど強くはないが、確実に、陽性な感情でない。雨雲のような不快感が俺の中に満ちてくる。
別に目の前のこいつに文句があるワケじゃない。言うつもりもない。
だが、『エリーゼのために』は、俺と香穂にとってはすごく意味のある曲でもあったから。
それが、第三者の人間も共有している曲になることが、不愉快だったのかもしれない。
「あたしじゃダメですか? ううん。あたし、土浦先輩に、恋人がいてもかまわないです。ときどきこうして、内緒で会ってくれれば」
「お前、なに言ってるんだよ。お前がよくても俺はよくない。俺にはアイツが必要なんだよ」
そこで、女はヤケに妖艶な表情を浮かべて腕を組んだ。
タイの色はまだこいつが1年生だってことを示している。
なのに下着を着けてないのか、はち切れんばかりの胸が、ベージュのブラウスの中 尖りを見せている。
男の本能、と開き直るつもりはないが、俺は一瞬息を呑んだ。
女は半歩、俺のそばに滑り込んでくる。
「ふふ。そうかなあ」
「なんだよ。お前、なにが言いたい?」
「私が見る限り、香穂先輩じゃ、土浦先輩、足りないでしょ? 幼くて」
「幼くて、って……」
「明らかに子どもっぽい、って言ってるんです。あたしならちゃんと土浦先輩を満足させてあげる。ピアノも。それ以外も。全部」
「お前……」
「大丈夫ですよ。私、初めてじゃないですし。そんなに縛り付けるタイプでもないし。
……可愛い恋人には、内緒にしておけばいいじゃないですか」
「そ、そんなこと、できるわけがないだろう?」
イノウエは俺の剣幕にかまうことなく、うっとりと俺の手を取った。
「キレイな指ですね。こんな指で触れられたら、鍵盤も嬉しいだろうな」
猫のような、やや釣り目の瞳が、挑発するように俺を見返してくる。
そのとき。
かたり、と廊下から小さな音がして、俺はハッと振り返った。
ドアの細い隙間に、ほんの少し、痛々しそうに頬を歪めた香穂の顔が見える。
「待てよ。香穂!」
俺は目の前の女を押しのけ、さらに並んでいる机もすべて押しのけて、一目散にあいつの背中を追いかけた。