*...*...* Embrace 1 *...*...*
大学1年の夏。約半年ぶりに日本に戻った俺が、香穂子との話も早々に切り上げて出かけた先。
そこは、横浜から少し行ったところにあるヴァイオリン工房だった。
ふと、異国の地で俺とともに過ごした友人、リゲティの顔を思い浮かべる。
約半年ぶりに会う彼女と、一番最初に行く先がヴァイオリン工房だ、などと知ったら、
きっと彼はぐりぐりと大きな瞳を動かして、言葉もなく俺を見つめるに違いない。
そんな彼の顔を想像するだけで俺の頬は自然に緩み、そして改めて隣りにいる香穂子について考え始める。
「ん? どうかした? 月森くん」
今年の冬に会って以来の香穂子は、俺の想像を超えて遥かに美しくなっていた。
そのことが、改めて俺を居心地悪くさせている。
少し薄くなったような肩や、冬と春、2つの季節を経たことで一段とみずみずしさを増した肌。
彼女をじっと見つめて話すことは、今の俺には何よりも難しいことでもあった。
香穂子は俺の内側の屈託に気づくことなく、白い歯を見せながら俺の横を弾むように歩いている。
「帰国してすぐヴァイオリン工房に行きたい、なんて、月森くんのヴァイオリン、調子が悪いの?」
「いや。そういうわけではないが」
「ん……。ウィーンにもう1年以上いるんだもの。行きつけの工房もあるよね」
「ああ」
「でも良かった。私もちょうど工房に用事があったの」
香穂子の笑みに照り返されるようにして、俺もようやく香穂子に対して笑い顔が浮かぶ。
この前のクリスマス。8ヶ月ぶりに香穂子と会って。
想いを止めることができずに、何度も身体をつなげた。
あのときも、そして今も、俺はまったくと言っていいほど余裕がない。
離れてしかも、少なからぬ時間が過ぎたからだろうか。
今、俺の隣にいる香穂子は清純そのもので。
彼女を抱いたという事実は、実は俺の中の想像の中なのではないかとさえ思えてくる。
音楽と、香穂子。
どちらが大事だと順番を付けることに苦心していたこともあった。
だけど今は、香穂子を思うたび、音楽へ傾倒していく自分を知らされる。
だから、香穂子へ向かう想いが強いときは、香穂子と共に音楽を極めればいい。
そう気づいたのは、ウィーンの鈍色の空を見ていた時だった。
『空を見ていると、月森くんの髪の色を思い出すの』
もう、何十回と繰り返したメールの中で、香穂子の書いた言葉の数々を思い出す。
それは、ウィーンの長く降り続く雪にも似て、少しずつ俺の中に積もって、力になっている気がする。
空は繋がっている。だから、空に向かって音を作れば、それは香穂子にも繋がる。
そう思えるようになってから、俺は寂しさを紛らわる方法を覚えたというのに。
どうしてだろう。香穂子が近くにいる今は、香穂子のぬくもりに直接触れたくて仕方ない。
「いらっしゃい。……ああ、月森さんのお坊ちゃんか」
「お久しぶりです。ご無沙汰しております」
「いやいや。元気そうでなによりだ」
初めて俺がこの工房に来たのは、3歳の頃。もう15年以上の時間が経過しているというのに、
ヴァイオリン職人の中谷さんは、初めて会ったときと全く変わらない笑顔で室内へと招き入れてくれる。
「お邪魔します。今日はよろしくお願いします」
「おやおや。お嬢さんも一緒か」
香穂子はやや緊張した様子で、中谷さんに頭を下げた。
中谷さんは香穂子に見覚えがあったのだろう。相好を崩すと、早速香穂子にヴァイオリンの様子を尋ねている。
「ヴァイオリンの症状があれば、教えてもらいましょうか?」
「はい……。ちょっと、あご当ての部分がしっくりこない、というか。ううん、それより、月森くんのヴァイオリンを先に」
「いや、俺は特に用はない。香穂子を先に」
「え? そうなの?」
空港から、真っ直ぐこのヴァイオリン工房に来たから、だろう。
香穂子は、俺のヴァイオリンに不都合があるからに違いない、と思い込んでいたのか、『用がない』という俺を不思議そうに見つめる。
穏やかな優しい目は、俺を疑うことのない真っ直ぐな強さを持っていた。
──── 一体、どうしたら、いいのか。
彼女に触れたら、もう、自分を止める自信がない。
中谷さんは、軽く鼻を鳴らし、『なるほどね』と小さくつぶやいたあと、香穂子のヴァイオリンを手に取った。
「……お嬢さん。かなり練習をしたようだねえ。あご当て以外にもちょっと直したいところがある。
君は蓮と一緒に、工房を見て回っていてくれ」
「はい」
「──── 蓮もヴァイオリンの話なら、流暢にできるだろうから」
*...*...*
「この前のクリスマス以来だろうか」「ん……。そうだね」
肩の下から、やや気だるげな声が返ってくる。
空港から、ヴァイオリン工房。そこまでは良かった。
中谷さんの配慮もあって、工房でヴァイオリンの作成工程について話ができたのも良かった。
だが、俺の辛抱はそこまでしか続かなかった。
香穂子が、俺の話に、笑い、うなずき、質問を返す。
話をするたびに、押さえ込んでいた想いが溢れ出て。
気がつけば、俺は香穂子の手を引き真っ直ぐにこのシティホテルに来ていた。
優しく抱かなくていけない。香穂子を傷つけてはいけない。
頭では理解しているのに、止めることができなくて。
理性と欲望がようやく同じ場所に立ったのは、香穂子を2回抱いてあとだった。
無理をさせてしまったのではないだろうか。
その……。俺を受け入れた部位は、痛みを伴ってはいないだろうか。
気がつくと、香穂子の首筋から胸元にかけて、赤い花が散っている。
冬なら、それも隠れる部位かもしれないが、この夏場は難しいかもしれない。
「一度君を抱いてしまって……。ずっと後悔していた」
「え?」
「君の身体を知らない方が、辛抱できたかもしれないと思うことが多かったから」
「ん……。私も、同じだったよ?」
香穂子は口ごもりながらも、一言一言丁寧に話し続ける。
穏やかな声の調子。息づかいさえも近くに感じられることが嬉しくて、俺は胸の中の彼女を頑なに抱きしめる。
抱きかかえた左腕を気遣っているのだろう。
香穂子は上体を起こすと、彼女の頭を支えていた俺の腕にそっと触れた。
「えっと……。なんだろ、あの、嬉しかったから、今度は」
「なんだろうか?」
「今度は、私の番」
そういって香穂子は、ふわりと俺の頭を抱え込んだ。
「香穂子……」
彼女の腕からは、甘い花のような香りがする。
俺を抱きかかえる彼女は、もう、高2の頃の幼い彼女ではない。一人の大人の女性だ。
彼女の細い指が、俺の髪を撫でるたび、俺の目が細くなる。
──── そうか。髪を撫でる。それだけでこんなにも気持ちいい。
俺も、自分の気持ちを押しつけるばかりじゃなくて、今、彼女が俺にしてくれるように愛せば良かった。
「……私、今度のコンクール、頑張るね。──── ちゃんと、月森くんに近づけるように」
「ああ。期待している」
俺がこの時期に帰国しようとした理由は、俺の授業の関係ともう1つ。
この時期に香穂子のヴァイオリンのコンクールが開催されることがあった。
『日本クラシック音楽コンクール』
このコンクールは、弦楽器を初めとして弦、管、声楽、その他、各種6部門に分類され、
さらに演奏者の年齢によって、部門は細分化される。
わりと最近創立されたコンクールだが、力のあるスポンサーが複数付いているのだろう。
入賞者に対するスカラシップのレベルが高く、入賞した者全員に約半年から1年間の留学資格が与えられる。
『その中にね、私立ウィーン音楽院に留学できるスカラシップがあるの』
『そのようだな』
『その……。月森くんと同じ学校は難しいとは思うけど、月森くんと同じ街にある学校に通うことができたら、いいなあ、って』
ともに音楽を極め行くことが、俺たちの運命なら。
きっと俺の道と香穂子の道は交差する。交差した先に、新たな道が開ける。
そして、そう信じていたのは、俺だけでなかった、と。
彼女の決意を知ったときは、どんなに嬉しかっただろう。
俺は、目の前に広がる、俺がつけた赤い花に唇を這わす。
時折、ぴくりと震える部位を舐めると、香穂子の口から、吐息とも喘ぎとも言えない声が広がる。
そうだ……。
香穂子が今度のコンクールに入賞し、ウィーンに来ることになったときには、
この前の冬のように、もう離ればなれになる寂しさを、今、抱き合っているときに感じる必要なないんだ。
香穂子の頬を手のひらで覆う。
何度も達しても果てがない。
どうしたの? と問いかける途中の唇を、俺は自分のもので強引に覆った。
「……香穂子」
「ん?」
「──── もう一度、君を抱きたい。今度はちゃんと優しくする」