『明日の夜なの……。え? 土浦くんは都合がつくの? ありがとう!』
『いや。用事がなかったってわけじゃない。俺にとってあいつと会うということの方が、優先順位が高いだけなんだよ』

 月森くんが帰ってきたことを高校時代のみんなに伝えると、じゃあみんなで月森くんの帰国を祝おう、という話になった。
 大学2年になった火原先輩は、早々に長期のバイトを入れていたらしい。出してすぐのタイミングでごめんね、というメールが届く。
 柚木先輩は、急な予定は入れることが難しいらしく、そのお詫びにとお店のリストを出してくれた。
 そうして集まったメンバーは、土浦くん、加地くん、志水くん。それに私の4人。

 あんなにあどけなかった志水くんが、今は月森くんと同じくらいの背になってるんだよ? って伝えたら、月森くんはどんな顔するだろう。
 そっか。今日、会えるんだから、実際の彼を見てもらえばいいんだ。
 志水くんがもう、高校3年生なんだもの
 私自身が大学1年生になっている、というのも、そろそろ認めなきゃいけない時期に来てるのかな、なんて思う。

 ──── そう。
 リリとヴァイオリンに出会ってから、時間の過ぎるのが、今までの10倍くらい早い。
 自分の心と、リアルな現実が上手くかみ合ってない、って感じるのは仕方ないのかな。

『じゃあ、場所はどこがいいかなあ? 私、柚木先輩からお店のリストをもらってるの』
『って、俺たちはどこでもかまわないだろ? 久々に日本に帰ったんだ。月森の都合を優先してやってくれよ』

 土浦くんは電話口で豪快に笑う。
 今の月森くんなら、やっぱり和風がいいのかな?
 それとも食べるということよりも、静かな雰囲気の中、むしろ話すということに重点を置いた方がいいのかな?
 自分の部屋をぐるぐると回り続け、私は柚木先輩の準備してくれたお店リストをチェックする。  
*...*...* Embrace 2 *...*...*
「よ。月森、来たか」
「お帰りなさーい。月森」
「月森先輩。お帰りなさい」
「あ、月森くん、ここだよ?」

 私は月森くんの姿を見つけると、手を肩より上に上げて軽く振る。
 あれから私は柚木先輩に電話をして、この和食のお店を確保してもらった。
 さすが先輩が見立てたお店らしく、打ち水が施された飛び石は、黒々と冴え渡っている。

 月森くんは私を見て頷いたあと、懐かしい顔ぶれに眼を細めた。

「久しぶりだな。土浦、加地。それに、志水くんも」
「お前もなかなか帰国できないもんな。いいぜ。たくさん話そうぜ?」
「そうそう。月森の評判は、僕も王崎先輩経由でいろいろ聞いてる。
 だけど、本人に聞くのとはまた違う印象を僕は持つと思う。だから今日はたっぷり聞かせてね」

 同級生の2人が矢継ぎ早に話す中、志水くんも負けずと口を開いている。

「ウィーンの国立大学はどうですか? 弦に特化していると聞いているけど、それは事実でしょうか?」
「そうだな。……みんなの質問に、俺のわかる範囲で話そう」
「……って、月森、お前、変わったな」
「そうだろうか?」
「そうだろう。以前のお前だったら、『俺には関係ない』の一点張りだったぜ? きっと」

 土浦くんの言葉に加勢するように加地くんも口を開いた。

「土浦もそう思う? 実は僕も。って、これも香穂さんパワーかな? 香穂さんが月森を優しい人間に仕立てたとか?」
「いや……。影響を受けるほど、俺と香穂子は会える距離にないから」

 月森くんの言葉に、加地くんの顔は一瞬ふと真顔に戻る。
 労るかのように流れてくる視線は、志水くんを通り過ぎて、私の方へ飛んできた。
 えっと、……会える距離にない、っていうのは事実なんだし、その、そんなに痛々しそうに私の顔を見なくても!

「月森は厳しいなあ。まあ、それがいいところだけど。香穂さんをあまりイジめないでね」
「い、いいの。本当のことだもの」

 私は笑いながらお店の人に、会食を始めてくれるようにお願いした。
 月森くんが帰国してからずっと、私は月森くんのそばにいた。
 たくさんお話した分、今日は月森くんと土浦くん、他のみんなが楽しい時間を過ごすときなんだもの。
 ずっと、聞き役を頑張りたい。

「って、お前が一人暮らしと聞いて、何を心配したって、食うモンだよな。ちゃんとやっているのか?」
「……ああ。アパートメントの管理人がいい人だったし。クラスメイトにも恵まれた」
「へぇ。お前が」

 土浦くんは驚いたように眉を上げ、早速出された前菜をつついている。

「そのクラスメイトは、どういったらいいのか……。そうだな。香穂子と火原先輩と足したような友人なんだ」

 月森くんはリゲティさんのことを思い出しながら、私を見て微笑む。

 音楽とヴァイオリン、それに、ウィーン。
 ともすれば単調な生活の中、一筋の色を付けてくれたのは、月森くんの友人、というリゲティさんのお話だった。
 いつしか、私とのメールのやりとりの中には、彼ははなくてはならない存在になった。
 明るくて、楽しくて。だけど、音楽に関しては熱心で。
 本当のことを言えば、月森くんが留学すると聞いたとき、1番心配だったのは、周囲の人と仲良くできるのかな、ということだったっけ。
 出会ったばかりの頃の月森くんは、人を寄せ付けないようなガラスのような硬さがあった。
 もちろんそれを認めてくれる友人はいたようだけど、それと同じ数だけ、ヒドく言う人もいた。

『親の七光りってヤツ? 調子に乗ってるぜ、あいつ』
『ちょっとルックスが良いからって、感じ悪いわね』

 中傷に負ける人ではないと思っていたけれど、自分が異物となるウィーンでは心細いだろうって思った。
 私、月森くんのそばにいたかった。この1年半、何度同じコトを願っただろう。
 そうしたら、私の全部を使って、もう十分、って彼が言うくらい、彼を思いきり笑わせるのに、って。

 ──── だけど、それももう少しで終わる。私が、今度のコンクールに入賞できた、そのときには。

 加地くんは、テーブルに肘をつきながら、次々と料理を平らげていく。
 他の人がしたらだらしなく見えるような仕草も、見とれてしまうほど色っぽい。
 加地くんって、本当に目立つ人なんだよね。

「そのクラスメイトとの出会いは、月森にはむしろラッキーだったんじゃない?
 火原さんを嫌う人なんていないのと同じで、その友人は、君にとってラッキーマンかもしれない」
「そうなのだろうか?」
「そうだよ。神話の世界でも友情ネタはたくさんあるけどね。いいことだよ、とにかく」

 加地くんは食前酒で出されたワインが気に入ったのか、ワインリストをのぞきこんで、新たに白とロゼを1本ずつ頼んでいる。
*...*...*
「月森くん、楽しかった?」
「……ああ。みんな変わってないな」
「志水くん、嬉しそうだったなあ。月森くんみたいに、留学を考えているのかな」

 梅雨明けの空が、夏の大三角形をより大きく見せている。
 俺は、もう1度飲み直す、という土浦や加地と別れ、香穂子を送るため、自宅の方向に向かっていた。
 ……よく考えてみれば、土浦や加地は、まだ日本で言う未成年、だったな。
 つい、ウィーンと同じ気になって、飲みに行く、と言った2人をそのままにしてしまったが、本当は良くないことだったのではないだろうか。


 ──── なんだか、ひどく疲れた。

 土浦にしろ、加地にしろ、そして志水くんにしても。
 彼らは高校時代に共に音楽を求めた仲間たちで。
 今日の食事では、俺にとって有益な話も聞くことができた。特に不快だった、という話題も何もない。
 むしろ『楽しかった』と断言できる時間でもあったのに。

 香穂子といるときには全く感じない違和感。
 香穂子を通してならば、それぞれの物はそれぞれの気持ちいい場所に配置されているのに。
 香穂子以外を通してみる世界は、不自然に歪んでいるように見えてくる。

 香穂子は、俺の様子になにか感じるところがあったのだろう。
 それきり口を開くことなく、黙って俺の隣りを歩いている。

(香穂子……)

 不思議な感覚が俺の身体を包み込んでいく。
 今までの俺は、こういう沈黙が苦手だった。
 なにかを話さなくてはいけない。だけど話す言葉が見当たらない。
 話そうと思うと言葉がぶつかる。ますます気まずい空気が広がる。
 だけど、今、香穂子との間に横たわっている沈黙は、穏やかで暖かい。

「あ、月森くん、この公園、覚えてる?」
「なんだろうか?」
「ここで、月森くんから草笛を教えてもらったんだよ?」

 香穂子は嬉しそうに俺を見上げると、小走りで草陰に駆け寄った。
 白っぽいスカートが風を孕んで広がるのを俺はまぶしい思いで見つめる。

「……よく一人でここに来て練習したの。でも草笛、なかなか上手くならなかったなあ」
「懐かしいな」

 俺は香穂子に釣られるようにして、昔、父が教えてくれた葉を取ると、ゆっくりと唇に当てた。
 夏の匂いが鼻腔をくすぐる。
 昔覚えた、とりとめもないことは、何年経ってもすぐ思い出せるものらしい。
 俺の唇からは軽やかな音が広がった。

「香穂子、今日はありがとう」
「ん……。なあに?」
「土浦や加地とのセッティングをしてくれたのは君だろう。……感謝している」
「ううん? 私も久しぶりにみんなに会えて嬉しかったよ」
「──── 君が近くにいてくれたら心強い」
「え?」
「……なんでもない」

 ……自分自身が歯がゆい。
 自分の気持ちを真っ直ぐ伝える土浦を初めとして、如才ない加地も。いや、あの志水くんでさえ、
 今、自分がどうしたいか、どうされたいか伝える術というのを、みな持っているのではないだろうか。
 手近にヴァイオリンがあれば、この思いを音に乗せることもできるのに。
 ヴァイオリンを持っていない俺は、まるで言葉を知らない人間のようだ。
 いや、もっと言えば、初めてヴァイオリンを手にしたときの幼子のようだとさえ思う。

 ──── 触れたくて。でも触れたら、ヴァイオリン自身に叱られてしまいそうで。
 だけど抗う方法を俺は知らなくて。

「月森くん?」
「……こうしても、いいだろうか?」

 俺は香穂子の手を引っ張ると自分の胸に押し込む。
 香穂子の頭の形。しなやかな髪の感触は、昨日と寸分変わらないことが、俺を安心させる。

「……君が」
「月森くん?」
「君が、どうしようもないくらい好きだ」

 そう。あと、数ヶ月。
 明後日のコンクールで、香穂子が入賞すれば。
 ウィーンへの短期留学の道が開ける。
 同じ学校に通うことは叶わないかもしれないが、今の日本とウィーンの距離よりも遥かに近い場所に俺たちは住むことができる。
 そうしたら今浮かんでいる空虚な想いは消えてなくなるに違いない。



「昨日も会ったのに、また会いたくなった。いや、君が欲しくなってしまった。……君は許してくれるだろうか?」
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