*...*...* Embrace 3 *...*...*
 俺が帰国して3日目。
 この日は、もし入賞できれば私立ウィーン音楽院へのサマーシップが授与されるという香穂子のコンクールの日だった。
 その後の手続きに多少時間はかかるとしても、約1ヶ月後には、香穂子はウィーンの街にくる。
 ──── 同じ空の下で、息をすることができる。

 自分がコンクールに参加するときの方が、これほどの緊張はしないだろうというくらい、俺の気は高ぶっていた。
 うとうとと眠り始めたのは、空が白み始めた5時すぎ。
 何度寝返りを打っても睡魔は訪れようとはしてくれず、俺は諦めて部屋のカーテンを勢いよく開いた。
 香穂子は、ちゃんと眠れただろうか?

 ここまで勝ち進んでいるヴァイオリニストは、多角的な視野を問われるのだろう。
 最終選考の今日は、由緒あるオケとの共演が評価される。
 いわば、人間性が問われる審査でもあった。
 指揮者のいうことを聞くことができるか。他の弦の人間と上手くコミュニケーションが取れるか。

 ヴァイオリニストは大きく2つに分類される。
 1つは、ソロのヴァイオリニストを目指す場合。
 この場合は、ソロ用のヴァイオリニストを育てている公明な先生の指導が大きくモノを言う。
 ダイナミックさの中に、自分の個性を押し込むという作業が伴う。

 そしてもう1つは、アンサンブルやオケのメンバーとしてのヴァイオリニストを目指す場合。
 この場合は、いかに忠実に楽譜通りの音が出せるか。また、周囲の人間の音を正確に聞き取れるかがポイントになる。
 俺のような人間がエントリーしたら、かえって上位入賞は難しいだろう。

「おはよう、香穂子。調子はどうだろうか?」

 朝8時。俺は香穂子の自宅の前まで来ると、玄関のインターフォンを鳴らす前に改めて腕時計をのぞきこむ。
 集合は午前9時。コンクールの開始時間は、午後1時。
 その4時間の間に、簡単なリハとゲネプロが入るという。
 その間ずっと、緊張した糸をほどくことができない。いわば、かなり精神力を問われるコンクールだ。

「……おはよう。月森くん。今日はありがとうね」
「香穂子、君は……?」

 自宅から出てきた香穂子は、驚くほど顔色が悪く、声もどこかかすれている。
 重そうな衣装ケースを奪い取るようにして俺が持つと、香穂子はこめかみに指を当てて、痛みを散らすかのように眉をひそめた。

「ごめんね。ちょっと風邪引いちゃったみたい。でもね、朝、薬も飲んできたし、きっと大丈夫」
「今日はかなり長い時間拘束されるが」
「うん……。だけど、今日のために頑張ってきたんだもの。思い切り、やり切ってくる」

 香穂子は俺を元気づけるように笑うが、どこか覇気がない。

 本当は電車を乗り継いで会場に向かうつもりでいたが、俺は大きな通りに出ると早々にタクシーを呼び止めて、目的地に向かう。
 フロントガラスからの真夏の日差しが、切り込むように車中に降り注いでくる。

「……ありがとうね、月森くん」

 香穂子は話すのも辛いのか、一言だけ俺に告げると、あとはじっと目を閉じている。
 時折ぴくぴくとなにか言いたげに動く唇を、俺はただ見守るしかなかった。

「君を控え室まで送ろう。リハもゲネも客席の方で見ている」

 出演者の関係者ということで、俺も香穂子と同じIDカードをもらい控え室に向かう。
 ウィーンで何度も経験したコンクール。
 コンクールを主催する聴き手が、今、どんな音楽を求めているのか、そして、自分は今どの立ち位置にいるのか。
 人と競い合うコンクールというのは、冷静に、そして残酷に結果を示してくる。

 舞台裏へ続く道は、暗く、細く、陰気な空気が漂っている。
 普段ならそんな通路が特別に思えて、自然と身が引き締まるような思いがするが、今は香穂子の身体が心配だった。

「私……、先に着替えをすませてくるね」

 控え室は男女同室のためだろう。
 香穂子は大きく息を吐くと、衣装ケースを手に女性用の着替え室へと向かった。

 俺は香穂子が使うであろう控え室に入ると、そっと空調と止める。
 一瞬、その場にいたコンクール参加者は、ぴくりと眉をあげ俺を見つめて。
 また自分の心の中に答えがあるかのようにじっと鏡の前を睨み続ける。

 コンクールは自分へとの戦い、という部分が大きい。
 ここまできたら、敵は自分の中にある。空調や、他人の動き、体調不良などを考えはいけないんだ。

「ごめんね。遅くなって」

 音楽は、音を楽しむもの。
 けれども、こと女性のヴァイオリニストというのは、それに多少の美しさも加味されることで、評価が微妙に変化することがあると知った。
 肩が大きく空いたドレスというのは、いかにも香穂子によく似合ってはいた。

 寒そうにそそけ立った頬が、俺を不安にさせる。
 だが、今は彼女と彼女の実力を信じるしかない。

「客席で君の音を聴いている」

 俺は香穂子の指にそっと口づけると、その場を後にした。
*...*...*
 かしましいばかりの拍手とともに、客席から悲鳴に近い声がする。
 盾と賞状。それとスカラシップの授与を示す目録を手に、泣いている参加者もいる。
 こうなることを見越していた身内もいるのだろう。
 壇上へと花束を持って走る人もいる。

 ──── だけど、その祝福の場に彼女の姿はなかった。

 結果は、6位中の4位。
 このコンクールは上位3位までにスカラシップが授与されるから、香穂子はあと一歩のところで、その枠を逃したことになる。

 どんなときであっても。結果がどうであっても。
 平等の意識の元、平等に戦ったのであれば、最期はお互いの闘志をたたえ、惜しみない拍手をするのが常だったが、
 今日の俺は拍手をするゆとりもなく、壇上の1番端でうつむいている香穂子を見つめ続けていた。

 万感のこもった拍手の中、スポットライトの当たらない人間は、静かにその場を後にする。
 俺は立ち上がることがマナー違反だと知りながらも、そっと暗闇の客席を走り出す。

 途中で楽器を持っている人間は、自分の分身をかばうように俺に背を向ける。
 その様子を見なかったら、俺は自分が走っていることにさえ気づかなかっただろう。
 そう。音楽家の一端を担っている俺が、この控え室に向かう廊下で走っている。

「……香穂子」

 控え室はすでに閑散としていて、彼女の細い背中は散り始めた薔薇のように頼りなく立っていた。

「月森くん。……どうして? こんなときに、どうして私、体調を崩しちゃうんだろう」
「──── 君は頑張ったと思う」
「その……。少し落ち着いたらまた、次のコンクールを探そうと思うけど……。
 今は、ショック、かな。このコンクールを目標に頑張ってきたから」
「わかってる」
「……月森くんの近くに行ける、って。そう思って頑張ってきたから」

 香穂子は声を殺して泣いている。

 この1年。いや、もっとだ。
 毎日のように続くメールや電話で、励まし続けてくれた香穂子だった。
 いつも俺の体調を気遣う文面ばかりを送ってきていた。
 香穂子に会えなくて淋しいと思っているのは自分だけだとも思い込んでいたりした。
 だけど、違う。
 香穂子の中に、俺に向ける思いがこんなにも強く存在していることが、今は素直に嬉しい。

「……おいで。香穂子」

 普段なら、幸せそうな笑みを浮かべて身体を寄せてくる香穂子が微動だにしない。
 どうしていいかわからずに、思わず身体を抱き寄せると、香穂子は堰を切ったように泣き出した。

 香穂子の涙が俺の白いシャツを濡らしていく。
 それさえも愛しくて、香穂子の髪を撫で続けていると、少しずつ抵抗する力が弱まっていくのを感じた。

「……私、頑張るから」

 考えてみればこれが彼女の初めての挫折なのかもしれない。
 こんなに感情をさらけ出す彼女を見たのは初めてだった。

 赤らんだ頬の上、潤んだ目は真っ直ぐに俺を捕らえて離さない。




「──── だから、お願い。嫌いにならないで」
←Back
→Next