*...*...* Embrace 4 *...*...*
すっかりしょげきった香穂子を、彼女の自宅まで連れて行く。香穂子は、必死で泣き止もうとするものの、どうにも溢れる感情を抑えきれないのだろう。
泣き止もうとしては失敗し、ハラハラと涙を流してはごめんなさいを繰り返す。
周囲は、好奇の目で俺たちを見る。
中には明らかに男の俺に非があると決め込んで、睨みつけてくる人間もいる。
俺が悪者。そう思ってくれた方が却って都合が良かった。
そう思ってくれれば、彼女を守ることができる。
──── 彼女が、辛くなければそれでいいんだ。
「今日は、ありがとう……」
玄関に着くと、香穂子はぼんやりとした顔で礼を言う。
熱を帯びた頬は、明らかに熱が高くなってきた証拠だ。
「ごめんね。なんとか月森くんの帰国までには治すから」
「きっと今まで無理をしてきたのだろう。少し練習は休んで、早く治してほしい」
「……ん」
けだるそうに家の鍵を取り出す香穂子を、不思議に思う。
もしかして、家の人は留守、ということだろうか?
俺の視線を避けるように、香穂子は説明を始めた。
「家中、誰もいなくて……。お祖母ちゃんの調子が悪くて、両親とも田舎の実家に行ってるの」
「香穂子はこれからどうするのだろうか?」
「ん……。ちょっと眠れば治ると思う。月森くんも疲れたでしょう? だから」
ありがとう。今日はもう帰って? と乾いた唇がそうつぶやいている。
「……入らせてもらう」
「はい?」
「俺も、家事が少しはやれるようになった」
反論する元気もなかったのだろう。
香穂子は不安げに頷くと、廊下を通って2階の自室へ向かう。
こじんまりとした小さな家。だけど、俺の家とは違う、家族の温かみが至る所に満ちている気がする。
さっきまで透き通るように白かった頬に、少しずつ赤味が増してきている。
本来なら彼女の身体を心配しなくてはいけないところだが、どうしてだろう。
香穂子の儚げな表情はこの上なく美しく見えてくる。
「バスルームはどこだろうか?」
「ん……。その奥のドアだよ?」
「タオルを何枚か借りる。君は先にパジャマに着替えておいてほしい」
俺は思い切り水道の蛇口をひねると、そこに数枚のタオルを浸す。
ひんやりとした水の感触は、徐々に俺に冷静さを取り戻していく。
留学したばかりの頃、異国の地で、熱を出した夜。
『オーストリアは医療費が高いから、アタシがなんとかしましょう。レン、タオルを数枚借りるわよ』
『はい……』
返事をするのも頭痛が邪魔をして辛い夜。
アパートメントの管理人さんはてきぱきと俺に指示をすると、数枚のタオルを手に戻ってきた。
『いい? アタシが戻ってくるまでに、このタオルで身体を拭いておくのよ。それと、飲み物! レン、『アルムドゥラー』もオッケーね?』
のろのろと人形のように言われるままに身体を拭き、レモン味の炭酸を飲んだ。
翌日に、ややすっきりとした頭で思ったことがある。
──── 心細いとき、隣りに誰かいてくれることが、こんなにも嬉しいものだということに。
バスルームで数枚のタオルを絞ってふたたび俺は香穂子の部屋に入った。
先に着替えているようにと伝えておいたとおり、彼女は白っぽいパジャマを着て横になっている。
「身体を拭くとすっきりする。……手伝おう」
「え……? い、いいよ。月森くんにそんなことされたら、かえって熱が上がっちゃう」
「君の身体はすべて見ている。病人がなにをそんなに遠慮しているんだ?」
熱のせいか動きが緩慢な香穂子の腕を掴んで、俺は、真っ白な細い首から、肩の線をなぞるように拭いていく。
羞恥心が邪魔をするのだろう。香穂子は胸のふくらみを隠すように身体を捩らせた。
「大丈夫だ。今日は香穂子も疲れてるだろう。……君が思っているようなことは、しない」
「だ、だけど、恥ずかしいんだもの」
香穂子はそういうと必死にパジャマの前を押さえている。
これでは、どうしようもない。
「……わかった。じゃあ、パジャマは脱がなくてもいいから」
俺はタオルを換えると、パジャマの裾から手を差し込んだ。
なだらかな隆起と、細い腰を順に拭いていく。
抱きかかえられる場所にある香穂子の身体は、力のない仔猫のように頼りない。
改めて香穂子の襟元を整えると、香穂子はうとうとと眠り始めていた。
*...*...*
俺は香穂子の寝息が穏やかになったのを見て、いったん家を出て、買い物に向かった。勝手に人の家の冷蔵庫を開けるのには抵抗があったし、ここ日本はウィーンよりもコンビニが乱立している。
『ねえ、レン。小さい頃のレンは病気の時、どんなものを食べてたの?
僕? 僕はパンナコッタだよ。ツルッて冷たいモノが喉を通っていくと、もうそれだけで治ったような気持ちになったよ。
……え? 思い出せない? レンは小さい頃は病気をしないスーパーチャイルドだったのかい?』
リゲティの言葉が浮かんでくる。
俺が病気? どうだっただろう。思い出せない。
覚えていることは、熱が出ている俺に、両親がヴァイオリンに触れる時間を制限したこと。
『蓮。慌てなくてもヴァイオリンは逃げないわ。ちゃんと身体を治して、それから弾けばいいのよ?』
『いやだ。1日でも練習しなかったら、指が動かなくなる、って先生が』
『まあ』
この幼い頃の記憶の中で、俺の両親は2人とも日本にいてゆったりとした時間を過ごしていたらしい。
母は笑って言った。
『まず、あなたの身体を治すことが1番よ。健全な精神は健全な肉体に宿る、というでしょう?』
『母さん……』
『私は信じてる。あなたはいつか、素晴らしいヴァイオリニストになれるわ』
日頃母がいないことを淋しく感じたこともあった。
だけど、淋しい分、ヴァイオリンを頑張れば、父や母。それに祖父母たちに追いつけるのではないかとも思った。
母に抱きかかえられて言われた言葉は、今も暖かい記憶として残っている。
俺はベッドに横たわる香穂子の髪を撫でながら語り続ける。
香穂子は俺の手つきにうっすらとまぶたを開けた。
──── どうか伝わるようにと願いを込めて。
「君にばかり無理を言うようで心苦しいが」
「ん……」
「こういう結果になったとしても、俺は君にウィーンに来て欲しいと願っている」
「……私も、だよ?」
香穂子は俺の手をそっと頬の下に滑り込ませると、くるりと身体を横に向けた。
柔らかな香りがする。
香穂子を抱いたあと、俺が囚われ続ける香りだ。
「ただ、体調が悪かったとはいえ……」
「うん」
「最後の転調はいささか強引だったと思う。あれでは審査員を魅了することはできない」
「うん……」
俺のお小言が始まった、と感じたのだろう。
香穂子はカメみたいに首をすくめて、布団の中に潜ろうとする。
「香穂子。聞いてくれているのだろうか?」
「ん……」
「君のヴァイオリンのためを思えばこそだ」
脳裏に加地の声が聞こえてくる。
『月森は厳しいなあ。まあ、それがいいところだけど。香穂さんをあまりイジめないでね』
そうか。加地はもしかしてそういうことを言っていたのだろうか。
黙り込んだ俺を、香穂子は布団から頭を出して様子を見ている。
そして、じっと俺の目をのぞきこむと小さな声でつぶやいた。
「──── あと、半年、待っててくれる? 私、頑張るから」
「当たり前だろう」
疲れが出てきたのか、香穂子の大きな目は弧を描くようにだんだん小さくなっていった。
「ごめんね、月森くん。私、眠ってしまいそう……」
「かまわない。もう少しそばにいる」
「ん……」
「懐かしい写真が飾ってあるな」
香穂子の机に目をやると、これは、高2のクリスマスコンサートの夜、みんなで撮った写真。
少し色褪せて、端が少しめくれ上がっている。
古い写真の中の俺は、今よりもどこか幼さをとどめたまま、真っ直ぐに俺を見つめ返してくる。
香穂子は、言い訳をするように早口で告げた。
「……私、月森くんの写真、これしか持ってないの」
「香穂子……」
「天羽ちゃんたら、ウィーンはちょっと隠し撮りするには遠すぎるなんて笑うんだよ?」
身体が辛いだろうに、香穂子は笑いながら話してくれる。
「あ! でも、……気にしないで。1番お気に入りの写真なんだから。
毎日、これを見て頑張ったの。みんながいてくれる。月森くんがいてくれる、って」
「俺が帰国する前に……。今度、2人で写真を撮ろう」
「写真を?」
「そう。君と俺の2人だけの」
だから今はゆっくり眠るように。
そんな想いを込めて、俺は香穂子の両目を覆った。