*...*...* Embrace 4 *...*...*
 キィ、と床をひっかくような音のあと、不安げな足音が聞こえてくる。
 足音の持ち主は、やがてゆっくりと俺の背後で止まった。
 講堂の椅子は、長時間の演奏を聴くのにも耐えられるよう、十分配慮した造りになっている。
 だが、背中の痛みは俺にかなりの時間が経過しているのを伝えてくる。

 ぽつりと疲れた声がつぶやいた。

「さっきの、柚木先輩らしくなかったです」
「俺は事実を言ったまでだ」
「はい……」

 俺はいつまで強がるつもりなのか。
 香穂子に対して、火原に対して。
 俺は、浮かんでくる不平不満以上の何かをこの2人にぶつけている。自分でもわかってる。
 それは一体なんなのだろう。
 わがまま? それとも甘え?
 なにを馬鹿なことを言っているんだろう。
 香穂子に対してはともかく、俺は親友に対しても甘えているのか?

 俺が音楽の道を選ばなかったのは、最終的には俺自身が選択したことだった。
 家の足枷がきついのならそれなりに、18歳の俺は、人生を自分で切り開いていく方法だってあっただろう。

 それを。
 まっすぐな目で音楽の道を極めようとしている1年生に、嫉妬、するなんてな。

 高校の3年間で、大きく変わるものと言えば、表現力だ。
 元々音楽科に入ってくるヤツは、それなりに技巧もセンスもある。
 まだ本人も気づいていない表現力というベクトルを、多感な時期を超えることで、さらに豊かに伸ばしていく。
 1年生のフルーティストが俺より劣る、といってもそれはむしろ当たり前のことなのに。

「……柚木先輩」

 ふいに白い腕が首元を覆う、と思ったら、背中越しに香穂子が俺の頭を抱きかかえていた。

「──── 私じゃ、ダメですか?」
「香穂子?」
「私、まだまだ練習不足だし、先輩の望む音を出せること、ってあまりないですけど……。
 でも、もっともっと練習して、先輩が好きだな、って思える音、頑張って出します」
「へぇ……」
「そ、そりゃ、柚木先輩はフルートだし、私はヴァイオリンだから。
 その、違う楽器だから、出せる音が違う、って言われればそれまでなんですけど。
 だけど、私、柚木先輩の代わりになって、いっぱい練習します。だから……」
「……だから?」

 香穂子は言葉を選ぶように、何度か息をついていたが、最後に回していた腕に力を込めた。

「ご機嫌、直してください。……ね?」
「……悪かったよ。喧嘩を売るような真似をして」
「ううん? そんな。……私、柚木先輩がいてくれたから、今、こうしてここにいるんですよ? ヴァイオリンと一緒に」

 俺は黙って香穂子の腕に手を当てた。
 夏だというのに、ひんやりとした肌は、白く、静脈が透き通って見える。
 香穂子の手を離さないで生きていく限り、俺は、音楽に対する葛藤を忘れることができるのかもしれない。

「そろそろ下校時刻ですよね。帰りましょうか?」

 香穂子は今頃になって、自分のしたことを恥じているかのように、そっと回していた腕をほどいた。

 いつか。……そう。
 音楽の道を選ぶことのできなかった俺が、家での義務を完璧にこなして、そのあと。
 他のヤツらよりも遅れてもいい。
 自分の気持ちを素直に表現することができる日を、迎えられるように。

 朝がやってくるたび、俺が俺で、良かったと思えるそんな日まで。
 ──── そのときまでずっと、香穂子が俺のそばにいるように。

 ようやく立ち上がった俺を、香穂子はまぶしそうに見つめている。

「あ、そうだ。火原先輩からの伝言です。火原先輩、あとで電話する、ってお話でした」
「そう。……うん?」

 ちょうどそのとき、俺たちの様子を見ていたのではないかと思うようなタイミングで携帯が鈍い振動を知らせてきた。
 急いで携帯を覗き込むと、画面はメールが来たことを伝えている。
 開封すると、そこにはいっぱいの絵文字が溢れていた。

『火原だよ。ごめん! オケの打ち上げが長引いてて、電話するの、夜になりそう。
 また、時間見つけて会おうよ。柚木のオゴリ、で! 楽しみにしてる』

 おろおろと携帯と俺の間を見ている香穂子が可愛くて、俺は画面を見せる。
 香穂子は、いいんですか? と目で尋ねたあと、文面を見て ぱっと顔を輝かせた。

「良かった、です……。本当によかった」
「何も、お前がそんなに気にしなくてもいいだろう?」
「ううん。やっぱり私、柚木先輩と火原先輩は、ずっと仲良しでいて欲しいな、って思います。
 そ、その……、コンクールに出た人間は、ずっと縁が続くんだよ、って王崎先輩が言ってたの、覚えてて。
 そうだったらどんなにいいだろう、って思ってたから」
「まあ、そもそもの原因は、お前たちにあるけどね」
「は、はい? お前、たち、ですか? 火原先輩と私、のこと??」

 きょとんとした顔で見上げてくる顔が愛らしくて、俺は香穂子の頭を自分の肩口に押し当てた。

「お前たちが真っ直ぐで、今時珍しいくらいお人好しだから、俺まで感化されたんだよ。素直になりすぎた」
「か、感化、ですか?」
「おかげで、俺はあんなみっともないところを見せる羽目になったんだ。ねえ、どうしてくれるの?」
「どうして、って……。先輩、なに言ってるんですか……?」
「そうだ。このままお前を離さないで、在校生の誰かに目撃者になってもらおうかな」

 香穂子は、ようやくここで俺が真剣だということに気づいたのだろう。
 2本の腕を必死に伸ばして、俺の身体を押しのけようとしてくる。

「もちろん俺は卒業生だし? 噂が立っても大学までは聞こえてこないだろうしね」
「ってことは……?」
「お前一人が矢面に立つ、ってことかな? 嬉しいだろ? 人の話題の中心に立つことって、お前、あまりないだろうから」
「待って、ください。あの、ちょっと落ち着いて話し合いましょう? 話せば、その……っ」
「それは無理なんじゃないかな?」
「? どうして、ですか?」
「話すためには口が必要だろ? 今から口は別のことに使うから」

 俺は、腕の中にある背中をゆっくりと撫で上げた。
 上がってくる手のひらに反応したのか、香穂子は自分でも気づかないうちに上体を反らせる。
 俺は香穂子の形のいいあごを持ち上げると、唇を押し当てた。
*...*...*
「よぉ。お前さんたちも聴きに来てたのか。今年のプレ演、なかなかのもんだったよなあー」

 舞台正面の真上にあるデジタルの時計に目をやる。
 18時05分。今日は金澤先生が、最終退出者なのだろう。
 窓に目をやり、3つある、出口それぞれが施錠されているか確認している。
 そして、以前と全く変わらない様子で白衣をはためかせながら、飄々と俺たちの近くにやってきた。

「はい。結構な演奏を聴かせてもらいましたよ。今年の1年生も楽しみですね」
「おう。俺も年を取った、ってことだな。なんつーか、涙腺が緩くなって最近は困ってるんだぜ?
 お前さんたちの演奏を聴いたときにも うるっときたもんだが、今年の1年も、いいもん持ってる。
 お前さんたち同様、あいつらが3年生になったときが、今から楽しみなんだよ」

 別にさっきの行為を見られてたわけじゃない。
 お互いの身体を離してから、しばらくの時間があった。
 そうだ。下校のチャイムが鳴って、それで俺はようやくあいつから離れたから、俺たちの秘め事からは300秒の時間が経過している。

 それなのに。
 香穂子はウソを付くことに慣れていないのだろう。
 俺の腕の中にいたときよりも頬を赤らめて、金澤先生と視線を合わせまいとしている。
 あいつの身体中の力が抜けるくらいまで、口づけていたせいだろう。香穂子の目の端が朱く潤んでいる。
 これは早々に理由を付けて、鋭い人間から引き剥がすのが良策かもしれない。

 案の定、金澤先生は、ずっと押し黙っている香穂子が不思議だったのだろう。
 さりげなく香穂子の全身に視線を流すと、香穂子の方に身体を向けた。

「って、日野。今日はお前さん、やけに無口だなあ。どうかしたのか?」
「いえ、あの……。あ、そうだ。あの、今日のプレ演、すごく良かったなあ、って」

 焦って話すとき、香穂子は決まって視線の先が定まらない。
 金澤先生にとっては、香穂子の感想はたいそう嬉しいものだったのだろう。
 膝を叩かんばかりの勢いで、香穂子の話に相づちを打っている。

「って、お前さん、泣くほど良かったのかー。そうかそうか。そうだよな。
 今1年のあいつら、3ヶ月前まで、中学生だったんだぜ? そんなヤツらが戦力になるんだ。
 成長期の人間は怖いよ。数ヶ月後には全然別人になっちまう。もっとも……」

 そこでいったん金澤先生は口をつぐむと、意味深な表情を浮かべ、一歩香穂子に近づいた。

「ところで。お前さんが泣いた理由は、本当にプレ演だったのか?」
「え!?」
「なーんてな。なんとかの勘ぐり、で、何となくそう思っただけさ」
「金澤先生……」

 香穂子と金澤先生とでは役者が違う。
 さっと顔色を変え、焦って何か話そうとしている香穂子を、金澤先生は楽しそうに見つめている。
 まるで、窮鼠と猫。
 ことわざの中では、哀れな鼠は強敵の猫を倒すことができたが、この2人ではあり得べくもない。

 俺は2人の間に身体をねじり込ませると、心からの思いをぶつけた。

「まあ、どんな理由でもいいと思いますよ。金澤先生」
「柚木?」



「──── 彼女の音楽が豊かになるなら、それで十分ではありませんか?」
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