*...*...* Embrace 3 *...*...*
星奏学院のオケ部は、夏と冬、長い休みの前に『定演』と呼ばれる大がかりな演奏会がある7月上旬の今日は、その最終チェックの日だった。
この日は内部の人たちを招待して、反応を確かめる日なんだよ?
プレ演奏会、略してプレ演、っていうの、と真奈美ちゃんが教えてくれる。
「うん。仁科くん、すごくよくなったね。悪いけどもう少しだけ、アレグロ寄りでお願い。淳子ちゃんもいいねえ」
卒業してから3ヶ月。
後輩たちをずっと熱心に指導をしてきた火原先輩は、最終確認だと言わんばかりに、後輩の間を縫うようにして助言を繰り返している。
その様子は生き生きとまぶしくて、火原先輩の教師になりたいって夢は、あっという間に叶いそうな気がする。
真奈美ちゃんも将来の夢がある、ってこの前恥ずかしそうに教えてくれた。
天羽ちゃんは、この夏休み、知り合いのツテで新聞社のバイトを始める、って言ってたっけ。
私自身はまだ、『これ』という夢が描けていない。
いいなあ。夢がそのまま叶う、ってどんな気持ちだろう?
夢って、1日でも1時間でも早く見つけた人が、歩き始めた人の方が勝ちなんだろうか?
「香穂子。そろそろ始まる時間かな?」
「えーっと、はい。そうですね。4時からだ、って聞いてるので、もう少しですね」
プレ演は、在校生だけでなく、音楽科のOBなら誰でも聞きに来ることができる、ということもあって、
ここ講堂には、見知った先輩たちの顔がちらほら見える。
柚木先輩も、火原先輩から聞いて駆けつけたのだろう。手には楽曲を記したパンフレットが見え隠れしている。
柚木先輩が在校生の時は、私はこうして彼の隣りに立つこともなかったっけ。
──── 今、私、一緒にいても、いいのかな?
浮かんできた不安に顔を上げると、柚木先輩は軽くかぶりを振って笑う。
じわり、と優しい気持ちが浮かんでくる。……そうだよね。一緒に、いても、いいんだよね。
私は、手に持っていたパンフレットを先輩の目の前に広げた。
「プレ演、楽しみですね。あのね、今度入った1年生に、とても上手な子がいるんですって。フルート吹きさんなんです」
「そう」
「その子、女の子なんです。やっぱり、フルートって男性と女性では曲想が変わるのかな……」
ヴァイオリンは、どうしても男の人と女の人では、曲の感じが違ってくる。
先生たちの中には、男の筋肉で弾いて欲しい曲、だとか、女の優美さで奏でて欲しい曲だとか、
選曲をする段階である程度の枠を決めてしまう人もいるくらいだ。
「香穂子はどうしてそんな風に思うの?」
「はい……。ヴァイオリンはある程度、曲の枠が決められちゃう気がするから……、かな?
あと、フルートは、ヴァイオリン以上に、その。肺活量とか、どうしても女性は男性にかなわない部分あるでしょう?」
かいつまんで説明をすると、柚木先輩はおやおやと言った風に愁眉を上げた。
「ふふ。まあ、かつて俺がお世話になって、今、香穂子がお世話になっている教授陣を悪く言うのは好まないけど」
「はい」
「男性向きの曲を女性が演奏しても、俺は良い、と思ってる。逆もまた真だ」
私が不思議そうな顔をしていたからだろう。さらに目の前の人は話し続けた。
「俺の音楽は、聴き手がいかに満足するかにあると思ってやってきたからね。
その人の演奏が、聴き手をうならせるレベルであるのなら、別に性別は問うべき問題じゃないと思うぜ」
「はい……」
「──── 弾けるうちが花なんだよ。音楽に浸れる環境のあるうちが」
「柚木、先輩……? あ、あの……」
陰りのある声が気になって顔を上げると、大好きな人の後ろに、階段を2段飛ばしで駆けてくる火原先輩が見えた。
額にはうっすらと汗が滲んでいる。そんな火原先輩をウットリと見つめる1年生の姿がある。
「あーー! 柚木! 香穂ちゃんもここにいたんだ!」
「火原先輩、今日は楽しみにしています」
「香穂ちゃんも柚木も、忙しいのにありがとね。なんだかおれの方がずっと焦ってる気がするよ」
「今日は招待をありがとう。火原も大学が忙しいだろうに、よく頑張ってるね」
「なんだかさ、教師になりたい、って目標ができてから、おれ、おかしいんだよ。みんなにもそう言われる。
あ、そうだ、今日は柚木の好きな『牧神』をちょっとアレンジして入れたんだ。結構聴き応え、あると思うよ?」
「そう? 楽しみにしてるよ」
「香穂ちゃんにはねえ、コンミスの隣りの1年の子、気にしてて欲しいんだ。香穂ちゃんとよく似た音を出す子なんだよ」
「はい。ありがとうございます」
火原先輩は上機嫌に、今年のオケ部について話し続けている。
柚木先輩も、要所要所で頷いている。
2人の様子は今までと変わらない、親しげな雰囲気。
だけどどこか柚木先輩を包む空気が堅くなってきたように感じるのは……。気のせい、かな。どうなのかな。
柚木先輩はにっこりと口の端を上げると、手にしていたパンフレットを閉じた。
「じゃあ、僕たちはそろそろ場所を確保しに行ってくるよ。火原もこれから楽屋に行って、最後の調整をするんじゃない?」
「あ、そっか。いっけね。もうそんな時間だよね。演奏終わったら、また感想聞かせてよ」
柚木先輩は ため息を残して席を探しに歩き出した。
そして、ぼんやりしている私を振り返ると、いつもの口調で話しかけてくれる。
「ほら。こんなところでぼんやりしないの。早くついておいで」
*...*...*
最初、遠慮がちに鳴っていた拍手は、やがて1つの大きなうねりのような歓声に変わった。私も手のひらが痛くなるくらい、何度も何度思い切り手を叩く。
聴衆も聴き慣れている人ばかりだから、だろう。あちこちから、『Bravo』の声がする。
音楽科に入って、少し。気構えだけは少しだけ音楽科らしくなったかな、って思うのに、
恥ずかしさの方が先に立って、私はいまだに『Bravo』の声援を送ることができないでいる。
自分の友だちが作る音に突き動かされたのだろう。
クラスメイトの何人かがきびきびと立ち上がると、ある子は図書館、ある子は、練習室へと歩き出す。
私の中にも、さっき火原先輩の教えてくれた子の音が響き渡っている。
優しくて、聴いている人を幸せな気持ちにしてくれる音だった、て思う。
私もヴァイオリンを弾くことで、こんな風に聴いている人を幸せにしてるのかな。だったらすごく嬉しい。
柚木先輩は、どう思っただろう? 彼の視点での話が聞いてみたい。
って、感動しっぱなしだからって、自分のことばかり話すのも勝手かも。
柚木先輩の好きな『牧神』も、音が練れててすごくよかった。
こっちの話、聞いてみよう。
ふと、膝に置かれている自分の手を見る。
私ってば後先考えずにめいっぱい、拍手したからだろう。手のひらのあちこちに赤い点が広がっている。
そう思って、隣りにある柚木先輩の手を見る。
男の人にしてはすらりと細い、白い置物のような指に、私は我に返った。
──── そういえば、柚木先輩、1度も拍手、してない……?
「あ、あの、柚木先輩?」
「まったく。なってないね」
「え?」
「今の演奏のこと。あのレベルなら、手遊びでやってる俺の方がずっとましだ」
「柚木、先輩……」
私は、石のように堅くなっている先輩の背中に話しかける。
聞こえないはずは絶対ないのに、彼の背は、氷みたいに動かない。
いつの間にか、講堂には私たち2人きり。
さっきの熱気も今はすっかり消え去って、天井からは低いうなり声のようなファンの音が聞こえてくる。
「柚木ーー。それに、香穂ちゃん!」
オケ部の人は手際がいい。
さっきまで所狭しと並べられていた、舞台の上の譜面台も、今は全部右端に寄せられている。
照明を落とすための最終チェックにきたのだろう。
火原先輩は、舞台から私たちを見つけると、ひらりと客席に降りてきた。
「どうだった? オケの後輩たち、すっごく頑張ってたよ。おれも、まずまずの演奏だったって思うんだ」
「そう、です、ね……」
「あ、あれ? 柚木、どうしたの?」
「えーっと、柚木先輩は……」
1人、イヤな汗をかいている私の横、柚木先輩が口火を切った。
「牧神のフルート。あれなら、今の俺の方がまだましだ、って、今こいつに言ってたんだよ」
「柚木先輩! あ、あの、ごめんなさい、火原先輩……。あ、そうだ、火原先輩が言ってたヴァイオリンの子、とても素敵でした」
火原先輩は驚いたように目を見開くと、柚木先輩の顔を凝視している。
そして、ジーンズの後ろポケットに入れている携帯が揺れたのだろう。
慌ててポケットに手を突っ込むと、携帯の画面を見て、そうだった……、と独り言をつぶやいている。
「っと、ごめん。ここ、香穂ちゃんに任せていい?」
「火原先輩?」
「呼び出し、かかっちゃった。これからオケ部の打ち上げなんだ」
「そう、ですか……」
再び2人きりになることに、ちょっと不安になる。
柚木先輩は不機嫌そうに目を閉じたまま、私たちの会話も耳に入ってないみたいだ。
「香穂ちゃん、ちょっと」
「はい?」
火原先輩は、ドアを指さすと、私の腕を引っ張って廊下に出た。
「ごめんなさい。私が謝るの、おかしいかもしれないんですけど、ごめんなさい!」
完全にドアが閉まったのを確認して、私は必死に頭を下げた。
柚木先輩もおかしい。
親友の火原先輩がどれだけオケ部に力を入れているかを知っているのに、あんな聞き辛いことを言うなんて。
だけど、意外にも火原先輩の表情はあっけらかんと明るい。……どうして?
火原先輩は、自分の大事なモノをけなされても平気なの……?
火原先輩は、私の顔を見るとくすっと子どものような笑顔になった。
「もう、香穂ちゃんてば。なんて顔してるの?」
「だって、あの……っ」
「柚木にさ、おれがまたあとで電話する、って言ってた、って伝えておいて?」
「はい……。で、でもっ」
「なんかさー。嬉しくない?」
「はい?」
いきなりの言葉に私の方が面食らう。嬉しい、ってなんのこと……?
火原先輩は、やだなあ、と口の中でつぶやくと、私の顔を見て笑った。
「柚木がさ、ワガママっていうの? 本当のことを言えるのって、おれたちだけだと思うんだよね。
だからおれ、受け止めてやりたいって思うんだ。あいつが、音楽の道へ進めなかった分もね」