*...*...* Embrace 2 *...*...*
 身体が、けだるい。

 理由は自分でもとてもよくわかっていて。だけど認めることが恥ずかしくてどうしても目を逸らしたくなる。

『お前はずっと俺のだから。……いいね?』

 どうして柚木先輩は、私を抱くとき何度もこの言葉を口にするんだろう。
 口にしながら、私が壊れるくらい強く抱くんだろう。
 私、他の人なんて考えたこともないのに。

 こういう日は、どういうわけか、クラスの男の子たちに、じっと見つめられることが多い気がして、
 私はチャイムが鳴り終わると同時に、森の広場へと走り出した。
 なんとなく、自分からお話しない、動物だとか、植物だとかに触れたくなる。
 こういうのを『癒し』って言うんだろうな。
 おとなしめのネコのケイイチに触れて、勝手に、私ばっかり30分くらい話し続けたりする。

「ウメさん? カホコ? あ、ケイイチ……もいたいた。……ごめんね、今日はおやつ、ないんだ」

 独り言を言いながら、私は芝生の上でふわふわとしっぽを揺らしていたウメさんの前に座った。
 ウメさんは、物慣れたように、私の膝の上でごろんと横になると、さっそく脚の付け根を舐めている。
 猫って身体が柔らかい。
 私は猫が舐めることができないっていう額の先をそっと撫でた。

「よっし。あたしの感って冴えてる!! 香穂子ゲット!」
「あれ? 真奈美ちゃん。早いねー。私、チャイムと一緒に教室出てきたんだよ?」

 急に名前を呼びかけられる、と思ったら、そこにはクラスメイトの真奈美ちゃんが立っていた。
 なにか、お話があるのかな?
 だけど、真奈美ちゃんはいつものようにからりと明るい表情で笑っている。

 真奈美ちゃんは、とん、と私の隣に座った。

「ふふっ。あたし、香穂子と知り合うことができてホントラッキーだったなあ」
「そんな……。私こそ、真奈美ちゃんと知り合うことができて良かったよ。この3ヶ月、いろいろ教えてくれてありがとうね」
「これも、香穂子が音楽科に転科してきてくれたからだよ〜」

 真奈美ちゃんは本当にさばさばとして明るい性格だ、って思う。
 出会ったばかりの頃はそのイメージが強かったけど。
 最近は、明るいってだけじゃなくて、それ以上に面倒見のいい人なんだ、って思うことが多い。

『へぇ。香穂子のウチ、3人兄弟なんだ。末っ子なの? わ、羨ましい』
『そう? 羨ましい、の?』
『ウチなんて、今時珍しい4人兄弟よ? しかもあたしは第1子なんだ。まだ小学生の弟もいるし。世話が大変だよ〜』

 屈託なく笑う真奈美ちゃんの表情はすっきりとしてて、口では不満を言いながらも、弟さんのエピソードをいくつか話してくれる。
 いいな。年下の兄弟がいる、ってどんな感じなんだろう?

 真奈美ちゃんは、そこでいったん口を閉じると、少しだけ口ごもった。

「えっと……。どうしたの? 真奈美ちゃん」
「う、ん……。ちょっと悪友から相談受けてるんだけどさ。ねえ、香穂子なら知ってるでしょう?」
「ん……。なんだろう?」
「あのさ、柚木先輩がフルート辞めちゃった、って言うのは本当?」
「あの、どうしたの? いきなり」

 ぴくりと身体が揺れたから、だろう。
 膝の上でウトウトしていたウメさんは、不思議そうに私の顔を見上げると再び目を閉じた。

 柚木先輩が卒業してから、というもの、柚木先輩の親衛隊さんは自然解散になったこともあったし、
 日々目に入らなくなる人に対して、自然に関心、というのも薄らいでいくんだろう。
 私と柚木先輩がつきあっている、という話は、以前ほどごまかさなくてもいいようにはなってきている。

「ごめんね。立ち入ったこと、聞いちゃって」
「ううん……。別に隠してることじゃないから、大丈夫だよ?
 あの、柚木先輩、大学では経済学を専攻してて……。今は確かに毎日フルートに触れている、という生活ではないのかも」
「やっぱり、そうなんだ」
「あ、えっとね、だけど、自主的に練習してる、って言ってたよ? あの、腕がなまるのも悔しいから、って」
「それにしても、もったいない話だよねえ」

 真奈美ちゃんは腕を組むと、うんうんとうなずいている。
 もったいない……?
 私の表情を見て取ったのだろう。
 真奈美ちゃんは私の膝の上にいるウメさんの額を撫でながら、説明を始めた。

「香穂子も知ってると思うけど、柚木先輩のフルートって、かなりレベルが高かったのよ?
 あんたは知らないっけ? 1年生の時にもう、柚木先輩に、レコードレビューの話があったの」
「え? ホント? 知らない……。柚木先輩からも聞いたこと、ないなあ」
「まあ、あの人の実力って1回聴けばよく分かるけどね」

 入学前から、すでに噂があったこと。
 入試の時、先輩の実技を聴いた人が、思わずレコードデビューの話を持ってきたこと。
 先輩はそれをそつなく断ったこと。
 だけど、それから2年もの間、その人は諦めなかったということ。

「それにしても、香穂子、今、あんた音楽三昧じゃない。柚木先輩と共通の話題、ってあるの?」
「え? うん……。どうなんだろう?」
「いいや。香穂子って口が堅そうだし。実は、悪友っていうのは、内田くんのことなの。あたし、内田くんから相談を受けてたの」
「え? 内田くん、って……。じゃあ、相手は、あの、須弥ちゃん!?」

 相談って、なんだろう。
 付き合っている2人が上手く行ってるとき、って、ノロケを聞くことはあっても、相談を受けることって、あまりない。
 しかも、男の人からの相談、ってよくよくのことのような気がする。
 音楽科に転科した今は、以前のように会う機会は少なくなったけど。
 たまに会えば、ふざけあったりする親友の須弥ちゃんが、……その、彼氏さんと上手く行ってない、ってことなの?

 私は焦って早口で言い返した。

「で、でも。須弥ちゃん、すごく、すごくいい子で。それに、内田くんのヴァイオリンが好きだ、って言ってて!」
「香穂子。まだ、決定的、ってワケじゃないの。安心して。ただ……」
「ただ……? ただ、なあに? 真奈美ちゃん」
「音楽科の子はね、音楽しか知らないんだよ。香穂子」
「真奈美ちゃん?」
「内田くんは、才能があるから……。物心つく前から、たった1つの大学を目指してきたの。彼も、きっと、私もね」
「うん……」
「この夏は、私たちのとっての集大成の時期なんだよ。
 自分の進路、とね、彼氏、とか、彼女、とか、そんな軽いモノとは比べることが、基本的に無理なんだと思う」

 真奈美ちゃんは、難しそうな顔をして腕を組み直した。

「……内田くんと会う時間が少なくなることを、上条さんもわかってくれるといいんだけど」
*...*...*
 真奈美ちゃんと私は、それきりしばらくの間、お互い口をきかなかった。

 真奈美ちゃんの言うことが、よくわかる。
 高2の春、なんのためらいもなく、オーストリアに飛び出していった月森くん。
 彼は、幼い頃から描いていた夢を、迷うことなくまっすぐに追いかけて行ったんだろう、と思える。
 だけど、それと同じくらい、私は須弥ちゃんに気持ちもよくわかるんだ。
 高3最後の夏、少しでも、たくさんの思い出を好きな人と作りたい。
 須弥ちゃんの気持ちに、少しもおかしなところはないんだもの。

 真奈美ちゃんは腕時計を見て弾けるように立ち上がった。

「わ、香穂子。もう、こんな時間? ヤバいよ。レッスン遅刻しそう!!」
「練習室なら少しくらい遅れても、大丈夫、かな?」
「違ーーーーう! 今日は外部の個人レッスン。じゃね。香穂子。また明日!」

 彼女は挨拶も早々に、逃げ出す鳥のような早さで、校舎の方に向かって走っていく。
 私は、真奈美ちゃんがこっちを見てないこともお構いなしにずっと手を振り続けた。

 ……付き合う、って本当に難しい。
 どちらにもきっと言い分があって。どうしても譲れない、って思うことが、お互いにあって。でも好きで。
 どうしたら、みんな、上手く行くのかな。悲しい思いをしなくてすむんだろう。
 どう、すれば、私も 100%の笑顔で柚木先輩に接することができるのだろう。

「そうだ、私も、練習室の予約時間まであと1時間くらい、かな?」

 第3楽章のフレーズがなんだかすっきりしなかったんだ。時間まで譜読みをしてるのもいいかもしれない。
 ふと、私が目をやったひょうたん池のあたりは、涼しそうな木陰で覆われていた。
 よし、あそこまでぐるっと歩いて、帰りは、校舎までダッシュしてみよう。そうしたら、少しはスッキリするかも。

「って、香穂。お前、こんな奥まで、なにしにきたんだ?」
「あれ? 土浦くん?」

 さわり、と草をなでていく風を感じる、と思ったら、そこには長身の土浦くんがごろんと芝生に転がって空を見ていた。

「ご、ごめん。邪魔しちゃったよね。私、すぐ行くから……」
「別に知らない間柄じゃないんだ。いいから隣り、座れよ」
「うん……。あの、考え事とか、大丈夫?」
「ああ。ちょっと曲想練ってた。って、いいんだよ。ちょうど煮詰まってきたところだったから」
「うん。じゃあ、少しだけ」

 私は土浦くんの隣りに腰掛けた。
 白いスラックスが、ぴったりと彼の脚を覆っている。

「そういえば、音楽理論のレポート、お前、もう出したか?」
「ううん? えーっと、週末勝負かな、って。私、書くの、遅いから」
「って、レポート1枚だろ? あんなの週末に持ち越すまでもないと思うが」
「そ、それは土浦くんだからなの! 私は、とてもとても……。図書館に行って、情報収集してこなくちゃ、書けないよ」
「ははっ。お前らしいか。なんだったら、これから一緒にやっちまうか?」
「うん……。いいの?」
「おかしなもんだぜ。お前のレポートが終わらないと、俺もなんか落ち着かなくてさ」
「そ、そうなの? ありがとう……」

 高3の春から、一緒に音楽科へ転科したこともあって、私と土浦くんとは、話が尽きない。
 夏の日差しは強い。だけど、この木陰だけはサワサワと心地良い空気を作っている。

「……そういえば、あの人のことだけどさ」

 ひとしきり話して、空いたほんの少しの時間。
 土浦くんはふと声のトーンを落として話し出した。

「あの人?」
「ったくお前は相変わらず鈍いな。固有名詞出さなきゃわからないのかよ。柚木先輩のことだよ」
「あ……。あはは、了解。柚木先輩がどうかしたの?」
「あの人とさ、お前、上手く行ってるのか?」
「はい?」

 突然の問いかけに、ぴくっと自分の身体に膜が張ったのを感じる。えっと、どういう意味なんだろう。

「あ、いや……。すまない。立ち入ったこと言ってるって自覚もある。ただ、なあ……。お前、俺の中学の頃の話、って知ってるだろ?」

 土浦くんはぽつぽつと話し始めた。

「自分と以前のヤツとの間が上手く行かなかったのは、俺がガキだったせいもあるが、
 なにより音楽っていう架け橋がなかったのが、原因じゃないか、って思ってな」
「うん……」
「お前といると、俺、いい感じに肩の力が抜けるんだ。ずっと話していたくなる。
 俺は前の女の違いはなんだと考えたとき、俺たちの間には音楽があるのとないのの違いなんじゃないかって」
「えへへ。私が、土浦くんの足を引っ張りまくってる気がするよ?」

 何気なく話題を打ち切りたくて、私は茶化した。
 だけど、土浦くんは、私の考えを否定するかのように、首を振って話を続ける。

「こういう思考をするとき、数学ってのも、無駄じゃなかったって思うぜ。
 音楽を辞めたあの人と、お前。以前の俺とアイツの関係。これはすなわち、near-equal になるってわかるか?
 つまり、音楽が取り持ってない2人、という観点では、この2組は同値だって言ってる」
「すごい……。数学のできる人って日常会話にも数学っぽい言葉使うんだもの」
「って、お前、感心するところが違うんじゃないか? ……まあ、いい。早く図書館、行こうぜ?」
「うん」

 私はさりげない風を装って、笑いながらスカートの後ろをたたく。

 夏の熱気なのか、それとも立ちくらみなのか。
 一瞬真っ黒になった視界を払うように頭を振ると、夏の太陽は何事もなかったかのように、私たちを照りつけていた。

 ──── わかってる。
 私と柚木先輩の間にあった、音楽という架け橋が、今は、なにも残ってないこと。
 人に言われなくても、私、知ってるもん。

 だけど、好きなんだもの。
 柚木先輩が教えてくれた、音楽。
 それを極めれば極めるだけ、私の近くに柚木先輩が来てくれるような気がして。
 今の私は、それしか、彼に近づく方法を知らなくて。

「どうした? 香穂、行くぞ」

 土浦くんは、2、3歩先を歩きながら、ついてこない私を不思議そうに眺めている。
 私は、目にぎゅっと力を込めると、目の中に溜まった熱いモノを奥へと流し込んだ。
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