高1の夏休み。
 キンと冷えた部屋には、目に痛いくらいの西日が差し込んでいる。
 黙って俺のヴァイオリンを聞いていた山内先生は、つまらなそうに椅子から立ち上がる。
 そして、日だまりの猫のような大きなのような伸びをした。

「んーー。なんかさ、違うんだよね」

 先生の態度に、俺の音楽に浸っていたというような雰囲気はどこにもない。
 それどころか、ようやくこれで今日最後のレッスンが終わった、とでもいいたげな開放感に満ちている、よな。

「どこの、なにが違うんでしょうか? 具体的に言ってください」

 ずっと海外の先生に師事してきたからか、俺は日本の先生の態度に面食らうことが多い。
 確か、なんて言ったかな…。こんなときに、ピッタリな言葉、この前、香穂子が教えてくれたよな。
 ああ、『歯に衣着せぬ』の、反対語、って感じか。
 ハッキリ告げることが、『歯に衣着せぬ』とイコールなら、日本人はどいつもこいつも、『歯に衣着せぬ』の否定型。
 相手を傷つけないようにするのが国民性なのか、と疑いたくなってくるくらい、表現はいつも、オブラート包み。
 わかりにくいことばかり、口にする。

「まあまあ、そう怒らなくてもさぁ〜」

 山内先生は俺の怒りを交わすかのように、ひょいと首をすくめて笑っている。
 右よりも少し下がっている左肩は雄弁にも、彼が人生の殆どの時間をヴァイオリンに従事していることを伝えてくる。

「君がさぁ、技術的に優れていることは 出だしを聞いたときからよくわかったよ。
 練習、頑張ってるみたいだねえ。結構、結構」
「はぁ」
「……だけどね、ヴァイオリンが上手いヤツなんてたっくさんいるの。わかる?
 完璧を目指したいなら機械に演奏させればいい。機械ってのは人間の指示どおりに動くからね」
「は?」
「君の演奏に『心』が欲しいって言ったらわかる? あ、『心』は『ハート』に置き換えてもらってもいいよ」
「ハート?」

 なんだそれ、と言いかけて、口をつぐむ。
 目上の先生に対して、そんな言い方はさすがに失礼だよな。
 山内先生は、俺の楽譜を取り上げると、廃墟を見るような冷めた目で譜面を眺めた。

「衛藤くんか〜。君、高1だよね」
「は? まあ、そうです」
「あはは、若いな〜。若いっていいよね。結構、結構」

 いきなり話題があちこちへ飛ぶのも、一芸に秀でた人の特徴だよな……。
 と思いながら答えると、先生は、うんうんと嬉しそうに頷く。
 そしてふと笑顔を真顔に引き戻して俺の顔を見上げた。

「──── 君ってさ、恋をしてみたこと、あるのかな?」  
*...*...*  Star 1  (Eto)  *...*...*
 あー。なんか、無性にハラ立ってくる。
 こういう状態って、あっちじゃ、『自分の感情が無くなる』なんて表現をするけど、こっちじゃどういうんだろうな。
 ああ、『ムカムカする』っていうのか。とにかく面白くない。

 俺が恋をしていない?
 って山内先生もおかしなこと言うよな。
 俺には、春からずっと香穂子というSteadyもいて。
 それなりに毎日ハッピーに過ごしてる。それは事実で。
 これからだって、俺と同様、レッスンが終わった香穂子と会う約束をしていて。

「そうだよ。あの先生、ちょっと人を見る目がないんじゃないの」

 なんて独り言。
 けれど、自分がハッピーだという事実を言い聞かせなきゃ納得できない俺自身ってのも滑稽だ。

 待ち合わせになっている駅の雑踏で、香穂子の後ろ姿を見つける。
 あいつの肩に手を当てる。なんなら、ちょっと頭をつついてやってもいい。
 そうすると、あいつは一瞬驚いたように目を真ん丸にさせて。
 そして俺を見つけて、弾けるように笑うんだ。

 付き合い出して、8月で、5ヶ月、か。
 少しずつ、あいつは俺に、俺はあいつに慣れてきていて。
 あいつの想定内の行動が嬉しかったり、想定外の行動に惹かれていたりするのに。

 ──── でも、山内先生。どうして俺が恋をしていないって言ったんだろう。

「悪い。遅れた!」
「衛藤くん! レッスンお疲れさま」

 夏休みということもあって、ここ最近は香穂子とこうして学院の外で会うことも多い。
 香穂子は涼しげな白のノースリーブと、淡いピンクのミニスカート姿で、俺を見つけると思い切り手を振った。
 今年の夏は猛暑のせいか、日に日に雑踏の中の人の顔は褐色に近づいている中、香穂子の肌色は、はっとするほど白く艶めかしい。

 普段は下ろしている前髪の隙間から見える臈長けた白さは、初めて抱いたときに何度も口づけた場所。
 ──── ヤバい。
 俺はさりげないフリを装って右手首の腕時計を覗き込む。
 夜8時。これじゃ、香穂子を思い切り可愛がるなんてできそうにない、か。

 俺の下心なんて少しもわかっちゃいない女は、きょろきょろと楽しそうに夏の夜空を見上げている。

「どうした? 香穂子」
「えへへ。今日も見つけた」
「は? 見つけたってなに?」
「最近、衛藤くんと、この時間に出掛けるからかな。私、あの星のことを覚えたの」

 香穂子は嬉しそうに、南の方角を指差すと俺を振り返った。

「星?」
「ほら、あの赤い星。見える?」

 細かい楽譜を読み続けていたせいか、その赤い星はぼんやりと輪郭が歪んで見える。

「あれね、アンタレス、っていうの。さそり座のしっぽのところにある星なの」
「そうなんだ」
「うん! なんだか、あの赤い色とかね、いつも自信いっぱいのところとかね、ちょっと衛藤くんに似てるかなあ、って」
「は? 俺と?」
「うん。衛藤くんのヴァイオリンにすごく似てる。見てて、安心するんだ」

 また、聴かせてね。
 香穂子はそう言って、そっと俺の手を掴んだ。

 香穂子の仕草は、なんていうか……。
 俺が今まで身近に感じてきたアメリカの女とは違う。
 こう、今、人目がなかったら、抱き寄せたくなるというのか。守りたくなるというのか。
 クールで通ってた この俺が、
 『この女は俺のだから。みんな手を出すなよ!』
 ってシャウトしたくなるような、妙な気分になってくる。

 肩の下に見える香穂子の横顔に目をあてる。
 痛みだけじゃない。微かに快感も覚え始めたこいつを今日、抱いたなら。
 こいつは、どんな壊れ方をするんだろう。

「衛藤くん? どうしたの?」
「あ、ああ。いや、なんでも? そうだ、星の話だったよな」
「ん……」
「星っていえば、確かあっちにいたとき、サマーキャンプで見たことがある」
「そうなの? サマーキャンプ? 日本でいう修学旅行みたいなものかな? 話、聞きたいな」

 香穂子は、俺からいろいろな話題を引き出すのが上手い、っていつも思う。
 普段だったら、そんな気遣いが嬉しくて、そして、俺自身、自分のことをもっと香穂子に知ってもらいたい。
 そんな思いも重なって饒舌に話を続けていたけれど。

 さっきの謎かけみたいな、山内先生の顔が、どうも気になって仕方ない。
 って、本当にワケわかんないぜ。
 違うってなんだよ。表現か? 雰囲気か。
 心? ハート? 恋したことがない? 俺が? そんなワケないだろ?

「あー。もう、俺、日本って風土が合わない感じ」
「衛藤くん?」
「アメリカへ帰国するのも悪くないかな」





 俺の言葉が香穂子を傷つけたと悟ったのは、香穂子の顔から表情が消えたときだった。
↑Top
→Next