*...*...* Star2 (金澤) *...*...*
 学院からの帰り道。
 怒ってるんだ、ということを態度で示したいのだろう。
 普段は俺のすぐ横か、少し後ろを歩く香穂が、今日は俺の前を早足で歩いている。
 さらりと朱い髪が背中を覆う。
 瑞々しいこいつの肌の感触は、まだこの指に残ってる。

 ……なんつーか。

 俺からしてみたら、あいつの怒る様子でさえ可愛くてしかたないんだから、
 こいつの策略は全然効果がない、ってことなんだが。
 そんなこと言えば、ますます毛を膨らませた猫みたいに始末に負えないから。
 俺は神妙そうな顔を作って、香穂の後をついていく。

 どんよりとした冬の空は低く、足元には早春の冷え込みが忍び寄る。
 そういや今週はずっとお天道サマを見てない、か。
 だが、この冬しつこく降っていた雪は今週にはミゾレになり、来週には雨になる。
 ずっとここ一帯を我が物顔に陣取っていた雲も、ここまできてようやく自分の立ち場を考えているのかもしれない。

 冬が来て。春を迎えて。
 ──── そしてこいつは学院から卒業していく。
 やれやれ。そんな当たり前で、分かりすぎるほど分かってた事実が今、こんなに苦しいなんてな。

 少し前を歩いていた香穂は、正門のファータ像の前、ぴたりと脚を止める。

「お? お前さん、急に止まって、どーした?」

 香穂は、俺の様子を見て一瞬困ったように口を歪めたが、やはり言わなければ、と思ったのだろう。
 目にチカラを込めて俺を睨み上げた。

「金澤先生。私、怒ってるんですよ?」
「あ? ああ。そんなん、お前さんの態度を見てりゃわかるっての」
「本当に、怖かったし……。その、もし、あの男の子たちが、私たちのことに気づいたら、って」

 俺は肩をすくめて恋人の顔を覗き込む。
 そして密室のときのようにこいつの頭に手を伸ばそうとして、それを止めた。
 とたんに行方を見失った手は、情けない顔をして定位置に戻る。

「なあ、お前さん」
「はい?」
「……見つかったら、そのときはそのときだ。俺が全部カブって、退職すればいいんだよ」
「そ、そんなの、ダメです! 金澤先生、なに言って……」
「俺がとある女生徒を無理矢理犯した。女生徒にはなんの罪もない。一切口外するな……。そういえばいいってことよ」

 俺は、日頃考えていたシナリオを歌うように口にする。
 すると香穂は、固く結んでいた唇を、今度は色が失うほど噛みしめた。
 それはちょうど達するときに、俺の袖を握りしめている指先の色にも似ている。

「お前さん。まあ、ちょっと落ちつけって」
「金澤先生が、私の同級生だったら……。私、金澤先生をひっぱたいてるかも」
「おやおや、物騒だな」
「私は!」

 日頃穏やかな香穂がこんな風に感情を露わにするのは珍しい。
 香穂のその表情は、思わず瞠目するような魅力があった。

「金澤先生と、一緒にいたい。どっちかが身を引くとか、退職するとか。そういうのはダメです。
 これからもずっと一緒にいて、それで……」
「それで?」
「先生の声が聴きたい。私のヴァイオリンも聴いてもらいたい。──── 一緒に、いたい」

 ゆるりと雲が途切れる、と思ったら、銀色の三日月が俺を咎めるように照り始めた。

 ……俺が香穂を1人の女として認めたとき、俺は香穂にとって月のような存在になりたいと思った。
 俺みたいな人生の落伍者は、眩く明るい太陽の存在になんかなれやしない。
 だったら。
 こいつが疲れたとき、羽根を休めたいと思ったときに、ひっそりいざなえる静かな月のような存在になりたいってな。
 って、俺がこいつを不安にさせてる、んだよな。ったくなにやってんだか。

 俯いているこいつの様子が気になって顔を持ち上げると、そこには目の縁に涙をためた香穂がいた。

「なあ、香穂。そんな顔するなや。俺が悪かった。俺が悪かったって」
「金澤先生の、バカ……」
「あーあー。俺はバカだよ。だからお前さんがついててくれなきゃダメなんだよ。
 お願いだから泣くなって。そんな顔されたら、また抑えきれなくなるだろ」
「な、泣いてなんていません! 私は……。嬉しいときに泣くって決めてるから」
「は?」

 どう贔屓目に見ても、すっかり半泣きの香穂は、袖口で目尻をゴシゴシと拭うと俺を見つめた。

「……高2のクリスマスコンサートでね、みんなで第九を演奏したあとに、感動して泣いちゃったことがあったの」
「うん?」
「あのとき、私、泣いてて幸せだった。だから、泣くのは幸せなとき、って決めてるの」
「香穂……」
「……今は、泣くときじゃない」

 若さなのか。それともこれが『初めて』の男への一途さなのか。
 いや、香穂はどんなことに対しても一生懸命だったな。
 そして俺はこいつの一途さに惹かれたんだった。
 まっすぐ胸に飛び込んでくる音。俺を受け入れる柔らかな肢体。声。なにもかもをだ。

「ったく。お前さんってやつは」
「……感心しませんね。1生徒に対しての、そういうあからさまな振る舞いは」

 下校時間が大幅に過ぎていること。月明かり。
 そんなこんなを味方に再び香穂に手を伸ばしたとき、聞き覚えのある声がした。
 ──── ったく。今日は厄日か? 声にばっかりジャマされる。
*...*...*
「って、なんだ。吉羅かよ。こんなところで脅かすなよ」
「別に私は脅かしたつもりはありませんが。むしろ、脅かされたと思う方に問題があるのでは?」
「はぁ? 問題?」
「ええ。私からしたら、問題行動と取られかねない挙動をしようとしていたように思えますがね」

 思わずグッと返事に詰まって、俺は理事長サマを睨み付ける。
 なんだったか。イタリアの布地は、夜目の方が映える、って誰が言ってたんだったか。
 淡い草色のワイシャツ。光沢のあるえんじ色のネクタイ。濃い茶系のスーツ。
 月明かりの中、吉羅の身につけている一級品の品物たちは、こいつの身体にピッタリと寄り添い、引き立てている。
 俺の、数年来着古した革ジャンとはエラい違いだよな。

 吉羅は俺の頓着にお構いなしに、今度は香穂の方を振り返った。

「日野君。こんな時間まで練習かね? 大学進学も決まった今、もう少し羽根を伸ばしてもいいのでは?」
「いえ、あの……」

 香穂は不安そうにちらりと俺の方に目を向ける。
 考えてみれば、こいつと付き合い出して1年以上が経過してるっていうのに。
 こうして3人で一緒の時間を過ごしたことは殆ど無かったのを思い出す。
 こいつはヴァイオリンに夢中だったし、俺は香穂に夢中だったからだ。

「ちょうどいい。これから3人で酒でも飲みに行きましょうか?」
「は!? 吉羅。お前、なに言ってるんだ? こいつはまだ未成年だ。そんなことさせられるわけないだろ?」
「もちろん彼女にはノンアルコールで付き合ってもらいますよ。……どうせ金澤先輩のことだ。彼女の合格祝いもまだなんでしょう?」
「あー? そんなのは、2人でやるからお前に心配してもらわなくてもいいんだがなー」
「いや。この1年の彼女の功績を、私は理事として祝う責任があるのでね」

 吉羅はそう言い切ると、ケータイを取り出しタクシーを呼びつけている。
 最近購入したばかりなのだろう。吉羅のケータイは俺の古ぼけた型とは違う。
 操作をするたび、カラフルな色が画面のそこかしこに浮かんでは消える。
 吉羅は手短に要件を伝えると、小さな機械を内ポケットにしまい込んだ。

「タクシー、すぐ来るそうですよ」
「って、吉羅よー。お前さん、俺たちへの意思確認、してないよな。ったくどうしてお前さんはどんなときも強引なんだか」
「……金澤先輩のようにただ待っているだけでは、欲しいものはすり抜けていきますからね。……ときに、日野君」
「は、はい! なんでしょうか?」

 俺と吉羅とのやりとりを呆然と目を瞠って見守っていた香穂は、吉羅に話しかけられて緊張した表情を浮かべた。

「先ほどは、金澤先輩と喧嘩でもしていたのだろうか?」
「はい?」
「夜目にも泣いているように見えたのだが」
「い、いえ! そんなこと、ないです。……私、泣いてなんていません!」

 さっきの香穂の論理で言えば、確かにこいつは泣いてないのだろう。
 だが、ムキになって告げるところがまだ幼いというか。
 これでは、この堅物の後輩に、『私は泣いてました』と告白しているようなもんじゃねぇか。

 案の定、吉羅はやれやれと溜息をつくと今度は俺の方に目を向けた。

「やっぱり、ですか。……金澤先輩も大人げない。
 こんな10歳も年下の恋人に、そんな心配をさせないという心配りはないのですか?」
「あーあー。ないね。どうせ俺は駄目な男だよ」
「いじける男は始末に負えない。……日野君」

 吉羅は俺と香穂の間に立つと、そっと香穂の頬を手の中に収めて囁いた。





「金澤先輩が頼りなく思えたなら、私を頼りたまえ。私にはいつでも君を受け入れる準備ができているのでね」
←Back
α→