久しぶりに目にする、転校前の仲間たち。
中には知らない顔もある。えーーっと、メンバーは男ばかり、3、4、5人、か。
昨日会おうって約束して、そして今日はまだ午前中。急に、よくこんなに人数、集まったよな。
「オレはさぁ、聞きたいんだよ、葵クン!
ねえねえ、あれほど、いろんなオンナから引く手あまただった葵を射止めた女ってどんなヤツ!?」
今も頻繁にメールでやりとりのある悪友の横田は、ガシッと肩を掴むと、息がかかるほどの至近距離で僕の目を覗き込んだ。
少しの勉強と、あとはメール。そして、女の子との付き合い。
そういうフワフワした隙間の中に、高2の僕たちは存在している。
それを大人は、ときどき羨望の眼差しをちらつかせながら叱るんだ。
君たちは大人の大変さをわかっていない、って。
ふふ。ヘンなの。
どんな大人だって、少年時代を通り抜けて、その痛みも甘さも享受したハズなのに。
「なあ、葵クン、葵サマ。お願いだ、聞かせてくれよ」
「困ったな。そんな、『射止めた』なんて彼女に相応しい言葉じゃないよ」
僕はジンジャーエールの入ったグラスを持ち上げると、喉の奥の痛みを押し込むように、思い切り液体を吸い上げる。
「……僕が彼女に射止められたわけじゃない。僕が彼女に夢中になったんだよ」
*...*...* Star 1 (Kaji) *...*...*
『ねえ、君も僕のこと、ほんの少しでも想ってくれてる。そう思っていいんだよね?』高2のクリスマス、僕の問いかけに微かにうなずいた香穂さんとつきあい始めてから1ヶ月が経った今。
僕はまだ今の自分の状態に慣れないでいた。
憧れの君。憧れのヴァイオリン。
一目惚れで始まった僕の恋は、この3ヶ月、彼女の近くにいてもなお、落ち着くことを知らない。
何事も一生懸命で、頑張り屋で。
彼女のヴァイオリンは学院内の内紛さえも、蹴散らしてしまったほどだ。
僕は彼女に全然ふさわしくないのに。
なのに、どうして僕は彼女の隣りにいて、一緒の時間を共有する幸せを許されているんだろう。
なんて、ね。
ときどき自分はこんなに女々しい男だったのかな、って呆れるくらい。
日を追うごとにその感情は大きくなって、僕の周りの空気を圧迫する。
知らなかったな。
『Dreams come true』
願いが叶うことが、こんなに苦しいことだったなんて。
クリスマスのあの日以来、登校日は毎朝、僕は彼女の自宅まで香穂さんを迎えに行く。
こうすることで少しずつ彼女との距離を縮められることを願いながら。
「加地くん! おはよう」
「え? ああ、おはよう、香穂さん。今日もすごく可愛いね。みんなに見せびらかしたいくらいだよ」
「は、はい?」
「ああ、今日は髪型を変えたんだ。ツインテールにしたんだね」
「う、うん……」
「でも、ちょっと首筋が寒そうかな。ほら、僕のマフラーを貸してあげるよ」
「あ、あの! そ、その……、い、行こう? 加地くん!!」
歩きながら僕は自分のマフラーをほどくと、くるくると香穂さんの細い首に巻いていく。
香穂さんはいきなり僕の手をぎゅっと引っ張ると、小走りに学院までの道を駆け抜けていく。
本当に香穂さんは可愛い。
もともと赤らんでいた香穂さんの耳。小さな手をきゅっと握り返すと、さらに赤くなる。
さりげなく繰り返すスキンシップに、彼女が慣れてくれるのはいつなんだろう。
そして。
──── 僕が香穂さんの存在に慣れるのはいつなんだろう。
彼女に嫌われることが怖くて、キスという好意にさえ踏み出せない自分が、ひどく滑稽だ。
「ふふ。走る君も可愛いけど、ヴァイオリンに気をつけて。なんなら僕が持ってあげようか?」
「か、加地くん……っ」
クスクスと笑う声。
やだー、という黄色い声を聞いて、僕はようやく僕たちが道行く生徒たちの注目を集めていることに気づいた。
そうか。
僕はともかく、香穂さんは、音楽科と普通科に分割されようとしていたこの学院を1つに取りまとめた立役者だものね。
ましてやあのヴァイオリンの音色。
彼女が周囲の耳目を集めるのは当然、ってことか。
「ふぅ。学院に到着、っと。そういえば、香穂さん。今日の放課後はどうする?
白石に聞いたんだけど、この正月休みに、駅前にイタリアンのカフェができたんだって。行ってみない?」
新学期が始まった初日、僕は香穂さんを放課後のデートに誘った。
年末で、ヴァイオリンの練習は一区切りついているし。
それに、香穂さんは結構冬休みの間も、熱心に学院に練習に通っていた。
冬休みの間に、少しだけ縮められるかなと思っていた香穂さんとの距離。
だけど、彼女に会えたのは、クリスマスコンサートの翌日と、正月三が日のウチの1日の合計2日。
今日だって、彼女の顔を見たのは1週間ぶりになる。
そう。……あまりにも陳腐なセリフで悪友たちには告げたことがなかったけれど。
今の僕には香穂さんが足りない。
彼女に触れるのは少し怖くて。嫌われるのはもっと怖い。
だけど、ずっとそばにいたい。彼女を感じたい。そればかり考えている。
「うーん……。ごめんね、今日はちょっと土浦くんとアンサンブルやってみよう、って言われてて」
香穂さんは、僕の申し出に申し訳なさそうに眉を下げた。
「え? 土浦と?」
「うん。あの、クリスマスコンサートのときの『リュドミラ』の音が気になるから、って。
加地くんは耳がいいから気づいてたよね。第2楽章の最初、ピアノとヴァイオリンのデュオがあったでしょう?」
香穂さんは小さくメロディを口ずさみながら旋律を追う。
小さな赤い唇が花咲くように動くのを、僕は言葉もなく見つめる。
──── 柔らかくて、甘い味がしそうな。……果汁が滴りそうな、淡い色。
「……加地くん?」
「ああ、ごめん。ちょっと君に見とれていただけ」
「えっと……。ご、ごめんね。だから、1時間だけ、待っててくれる? それとも、そのカフェには明日行こうか?」
香穂さんは僕の言葉に顔を赤らめながら、そんな様子を見られたくないのか、細い指で前髪を直した。
「もちろん、待ってる。それに明日も君のこと、予約する」
「はい?」
「僕の我儘、聞いてくれるよね?」
……うん、と照れながら頷く香穂さんに手を伸ばす。
愛玩? 愛着? それとも執着?
自分じゃ説明がつかないような感情に押されるようにして伸ばした手は、
香穂さんの頭に置かれることなく、そっといつもの定位置に戻った。
──── どうして?
どうして大好きな彼女に触れることに、僕はこんなに躊躇するんだろう。
*...*...*
「……うーん、遅いな、香穂さん」冬休み明けの練習室を使う人間はそれほど多くないのだろう。
僕は練習室の予約表をチェックする。
そして 2-5土浦と書かれている練習室の隣りに滑り込んで、香穂さんと土浦の練習が終わるのを待っていた。
中庭に続く窓を細く開けているのだろう、微かに空気を通して彼らの練習の様子が伝わってくる。
僕と香穂さんが付き合い始めたことは、冬休みに入ってすぐ、さりげなく土浦には伝えておいた。
『そりゃよかったな。これからもよろしくな』
土浦からは、普段の素っ気ない口調そのままのシンプルなメールが返ってきたから、
とりあえず彼には仁義を切った、といえる状態で。
香穂さんが、土浦に対して仲間以上の感情は持ってない、って信じているのに。
──── こんな風に、心がざわつくのはどうしてなんだろう。
「よし。だいぶんよくなってきたな。香穂、最後にもう1回だけ合わせようぜ」
「土浦くん、助言ありがとう。すごいね。たった2週間でこんな風に音が変わるなんて……。
今みたいに、クリスマスコンサートの時にも演奏したかったな」
「ははっ。そりゃいい。じゃあ、来年のクリスマス目指して、今から頑張るか?」
「うん!」
屈託のない声。そのあとに続く静寂。
やがて流れる、豊かなアンサンブルの音色。
また腕を上げたのかな。
香穂さんのヴァイオリンにぴったりと寄り添う土浦の音色は、2人の情事を見るような鮮烈な印象で迫ってくる。
「汚れちまった悲しみに、今日も小雪の降りかかる、か……」
お気に入りの詩の一節が口を突く。
ねえ、君を離したくないって思うのは、僕のエゴ?
君には君に似合う音があって、それは僕では出せなくて。
実力の差じゃない、これはむしろ、才能の差。
努力だけじゃ埋めきれない、先天的な違い。
知らないうちに、口の端に苦い笑みが広がった。
「そんなことが分かってしまう耳を持って生まれてきたなんて。……僕はなんて滑稽なんだ」